あわいの宦官

沖弉 えぬ

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宮廷編

12筆下

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 正午を回る前に汀彩ティンツァイ城へ着いた一行は各々の道へと別れていく。
 辛新シンシンは驚く事にうっすら涙を滲ませながら玲馨リンシンメイとの別れを惜しんだ。だったな、という感想は胸に仕舞っておいた。
 梅はとにかく眠たくて仕方がなかったようでさっさと下級宦官の宿舎へ行ってしまった。
 リー将軍は自身の乗ってきた馬と戊陽ウーヤンの愛馬である驥驥ジージーを連れて厩舎へ去っていき、玲馨は戊陽を黄麟ホアンリン宮へ送り届けると後の事は四郎スーランに任せ、漸く宦官の宿舎へと帰ってきた。
 宿舎の近くまで来ると、山芒シャンマンに行っていた間にすっかり花の盛りを終えてしまった一本の桃の木が玲馨を出迎える。変わらず寂し気な雰囲気を漂わせる桃の木を通り過ぎて宿舎に入り自室まで戻ってくると、一気に疲れが吹き出してきた。
 今回の調査は北玄海ペイシュエンハイとは比べ物にならないくらい収穫があった一方で、その分密度の濃い日々だった。
 そのまま寝転がって眠ってしまいたいところだったが、砂や埃で汚れた衣で寝台には上がりたくない。厨で水を少しだけ拝借してきて、体を拭き清めるとさっさと着替えを済ませてしまう。
 そういえば于雨ユーユーが居ないなと思ったが、浄身前の少年であっても仕事があるので正午頃に部屋に居る事はまずない。綺麗に片付いた于雨の机に意識が向いたのは短い時間で、すぐに気にならなくなった。
 ようやっと寝台に横になった玲馨は目を閉じ眠気が来るのを待つ。体は疲れているのに、不思議と目が冴えてしまっている。自然と玲馨の思考は山芒での事を考え始めた。
 山芒で得た収穫は大きく二つだ。
 一つは山芒と北玄海が手を組んでいる事。しかし両者の真意は分からない。
 二つ目はあわいを人為的に変化させる事が出来る、その可能性が見つかった事だ。これは山芒と北玄海のどちらが主導となって発見したのかは分かっていない。
 分かった事が増えると同時に、新たに分からない事がまた増えた。
 しかし、宦官という立場からこれらを考えた時、玲馨は全てを手放してしまっても構わなかった──が、それが出来る性格ならどれだけ良かったかと思う。日々真面目に戊陽に仕えているだけで幸せになれるなら、玲馨は馬鹿のフリをしていられた。いや寧ろそういう生き方の方が賢くて堅実だとも言える。
 玲馨はいつの間にか自分にも欲望というものが芽生えてしまっている事に、ある時気が付いた。玲馨にとって欲もまた、恐ろしいものの一つだった。だけど大人になるにつれて、人は欲がなくては生きていけない生き物だと思うようにもなった。
 玲馨にとって欲とは戊陽の形をしている。その欲を満たせるのは戊陽をおいて他になかった。だからこそ、玲馨はただ愚直な宦官のままではいられないと強く思うのだ。
「……眠れない」
 一度考え事をしだすと止まらない癖がある。疲労や眠気を超えて思考が止まらない時は、もうとことんまで思考に没頭してしまうのが一番早い。
 そのためには──。
 玲馨はまた寝衣から汚れていない上級宦官の袍に着替え直して宿舎を出ていく。
 戊陽はもう眠ったかも知れない。驚くことに山芒からの復路の間に体力を回復させていたが、疲労はあったはずだ。
 無駄足になるかも知れないと思いつつも玲馨の足は再び黄麟宮へと向かっており、程なくして荘厳且つ絢爛な宮殿が見えてくる。
 扉や屋根瓦の意匠はその当時国で一番の職人に作らせたもので、門から続く敷石には大理石が使われている。広い庭には蓮池と、翡翠で造られた小ぶりの假山かざん──築山の事──があり、假山は天仙が住むといわれる山を模したものだそうだ。
 庭へ抜ける前に現れる影壁えいへきには天を舞い黄金に輝く黄竜こうりゅうが、守り神としてあしらわれていた。ちなみに金は本物である。
 初めて黄麟宮を見た時は、別世界へ来てしまったと思ったほどだった。きっと壁の一部を叩き割って破片を売っても金になるだろう、なんて事を考えたりもした。
 今や慣れ親しんだ戊陽の寝所へと続く道を特に感慨に耽る事もなくサクサク進んで、門で名を告げ宮女が出てくるのを待った。
「おや、玲馨ではないですか。宿舎に戻ったと聞きましたが」
「陛下はお休みになられましたか?」
「いいえ、今はお食事をなさっておられますよ」
 どうぞ、というように宮女が片腕を広げるので遠慮なく中へ入る。と、微かに漂ってくる匂いに気付く。恐らく包子パオズだ。それも韮が入った韮菜包ジュウツァイパオだ。戊陽の好物である。
 食事を終えるまで待っていようかと思ったが、玲馨がそうするより早く戊陽が玲馨に気付いた。
 戊陽は左手で韮菜包を頬張りながら右手で手招きをする。
「行儀が悪いですよ陛下」
「山芒の食事も良かったのだがな、この味がどうしても恋しかった」
 その気持ちは北玄海の経験を経た玲馨ならよく分かるので、それ以上は玲馨も何も言わなかった。
 座って一緒に食べていけと言われたが、軽くつまんできたと適当を言って断っておく。
 ここが黄麟宮である限りは宦官や宮女の前で玲馨がまるで戊陽の友のように振る舞っても、きっと誰もが見なかった事にしてくれるだろう。だが、やはりメリハリというものは大事なので、いつでも戊陽の望むがままというのは憚られた。何よりそうしなければ玲馨がうっかり外でも言葉を間違えてしまいそうだと不安なのである。
「この後はお休みになられるのですか?」
 好物を食べて満足した後、手を拭いている戊陽へ訊ねる。
「いいや、食休みがてら蔵書楼へ向かう。宮廷の方のな」
 しめた、と思ったがそんな事はおくびにも出さず玲馨は言う。
「私もお供しても?」
「ふん、最初からそのつもりだったくせに」
 取り澄ましたつもりだったが戊陽にはお見通しだったようだ。山芒からの往路で地図を話題に出したので、玲馨が黄麟宮に来た理由を想像出来たのだろう。
 玲馨は戊陽に伴われて、黄麟宮を後にする。
 既に正午を過ぎており今から向かってもあまり長い時間は居られない。案の定馬車を使うと言うので渋々玲馨も乗り込んで、何だかんだ二人で他愛ない雑談をしながら馬車に揺られていると、やっと日常に戻ってきたという実感が湧いてきた。




 嘗て街道の安全を確保するために、植樹が計画された事がある。玲馨も戊陽も産まれるよりずっと前だ。
 旅の必需品である妖魔除けの薬にも使われている魔除けの効果がある樹木、それを街道に沿って植えていく。話は単純明快でそれだけなのだが、これが成功する事は終ぞなかった。あわいに苗木や若木を植えても、植えたそばから枯れていってしまうのだ。やはり枯れた地脈が生命力を根こそぎ奪ってしまうのだろう。魔除けの木としてえんじゅ南天なんてん月桂樹げっけいじゅなど複数種試したが、全ての魔除けの木を試す事なく計画は頓挫し、今に至る。
「と、これにはあるな」
 そう言って戊陽が巻子から顔を上げる。ここは宮廷の中にある蔵書楼だ。
 城には蔵書楼が複数ある。一つは紫沈の中で東に位置する東沈ドンシェンに、一つは宮廷の中に、一つは後宮にある。どれも閲覧には許可が必要で、宦官に閲覧の許可が出されるのは後宮内の蔵書楼だけだ。黄麟宮を訪ねたのは、戊陽から宮廷の蔵書楼に立ち入る許可をもらうためだった。
「借りて行けないのが惜しい……」
 宮廷の物は当然持ち出し厳禁なので、戊陽が目溢しした所で他の官吏に見つかれば窃盗の罪で処刑である。
 また宮廷の蔵書楼には禁書室があり、そこはさらに特権階級の人間しか入れないのだが皇帝に対し特権も何もないので今日ばかりは玲馨も楼内を堂々と闊歩出来る。
 しかし、禁書とは言ってもなぜ禁書扱いになったか分からないような物も多い。中でも一番はこれだろう。春宮画しゅんぐうがだ。つまり春画の事であるが、一部の区画にはそれがどっさりと纏めて置いてある。
 春画を禁止にとは随分禁欲的なものを民衆に求めるものだと不思議に思いながら、何気なくそれを一枚開いてみて絶句した。
「……」
「玲馨、何かめぼしい物は……」
 玲馨の手元を覗き込んだ戊陽も同様に言葉を失う。
 禁書に指定されたのは所謂男女の性交を描いたそれではなく、女同士のいかがわしい絵画だった。思えば春画は宦官の宿舎でも流行した事があったのだから禁書のはずがないのである。
 何となく嫌な予感がして他の物も開いてみる。どれもこれも女同士かと思いきや、中には男同士を描いた物も出てくる。
「これは……恐らく皇室から取り上げた物だな」
 神妙な面持ちで戊陽がぼそりと呟いた。
「皇室から?」
「そうだ。考えてみろ。市井の民が同性とこうした行為に耽った所で何の問題がある?」
 確かによっぽど流行って風俗が乱れたり、或いは荒稼ぎするような輩でも出て来ない限り、民の性的嗜好を国が憂慮するという事態は起こらないだろう。だがしかし。
「皇室は、特に天子はまずいでしょうね」
「そういう事だ」
 皇帝も皇后も妃嬪ひひんたちも、何としてでも後の天子となる皇子を作らなくてはならない事を考えると、同性同士の春画が禁書扱いにあるのはある程度納得がいった。
 既に興味を失って別の棚を探している戊陽に「こういった物は」と声をかける。
「陛下のお部屋にはありませんね」
「興味が無いからな」
 玲馨の頭の中に浮かんでいるのは、辛新の事だ。正確には辛新と向家の公主、向峰シャンフォンは、一体どこまでの関係になっているのだろうという事。
「未だに? 全くですか?」
「何だ、何の確認だ?」
 もし二人が密通していたとなると向峰には後宮に入る資格がなくなる。辛新が向峰の後宮入りを阻止せんと動いたのだから向峰は生娘のはずだが、隠そうと思えばいくらでも隠せるだろう。
 最悪、子が出来なかった事を確かめてから生娘を装うのでも構わないのだ。いや、というより恐らくその認識が正しい。辛新は禁軍に入ってから数年が経っているはずなので、二人の間には子が出来なかったのだ。
 本人と周囲の者が黙っていれば向峰は晴れて後宮の妃、それも現状は他に対立候補が居ないので妃の中で最上位の貴妃きひに叙される可能性が高いだろう。今回の事で向青倫シャンチンルンは皇帝を無視出来なくなったのだから、是が非でも山芒側につかせようと画策するに違いない。
 そうしたらお手つきの公主が嫁いでくる事になるのだが──。
 玲馨個人としてはお手つきがなんだ、と思う。玲馨の体とて何人の手垢がついているか分からないし、最終的に皇帝の子供さえ身ごもれば後は好きに恋愛を楽しんで何が悪いだろうとも思う。
 だがしかし、もし入宮後に辛新との事が露呈すれば辛新はまず命は無い。向峰は山芒に返され、向青倫は王を剥奪されて周辺貴族にとってかわられる。
 玲馨は考えていた。辛新の事を胸に秘めておくか、それとも戊陽に報告するか。
「……急に黙ったかと思えば。もしや嫉妬か? いよいよ妃が入宮するかも知れないと思って寂しくなったか?」
 頭一つ高いところから、にやついた視線が玲馨を見下ろしてくる。残念ながら戊陽の勘違いだが、否定して真意を探られても困る。本当にそうだろうか? という内なる声は無視をした。
 玲馨が答えなかったので彼の中では嫉妬という事で話がまとまったらしい。
「玲馨」
 何ともお誂え向きに玲馨の背後は壁で、戊陽は玲馨に体を寄せると壁に手をつき囲ってしまう。青年の精悍な顔がゆっくりと近づいてきて、吐息が玲馨の唇をさらりと撫でていった。
 玲馨は自分でも無意識に微かに唇を開いて、やがて訪れる感覚を迎え入れようとした。しかし唇があと少しで触れるという所で、戊陽は迫るのをやめてしまう。
「今夜、黄麟宮に来い」
 そうだった、と思い出すほど遠くにあった訳ではない。実は頭の隅にずっとこの事があった。
 山芒からの復路、玲馨は自分をあなたの宦官として好きにする権利があなたにはある、と主張したのだ。こういう展開がある事も可能性として頭に入っていた。
 だがいざ面と向かってその台詞を言われてしまうと、どういう反応を返すのが正解なのか分からなくなる。
 玲馨はよほど珍妙な顔をしていたのか、戊陽は小さく笑って体を離した。
「待てる時間があるうちは、俺はいくらでも待つぞ。だから、お前の良い時に、俺の寝所を訪ねてこい」
 戊陽が袖を翻すと、不思議な事に桃のような香りがふわりと鼻を刺激する。戊陽の母賢妃けんひが調香した香をよくめてあるのだろうが、一体どんな風にして桃らしい香りを作り出しているのかは玲馨にも分からない。
 戊陽がまだ賢妃宮に居た頃は、殿舎の中の至るところがこの匂いに包まれていて、八つ時や茶にまで桃が使われていたので桃の香はとにかく幼少の記憶をよく思い出させた。
『先日、房事の指南を受けたのだが──』
 初々しく頬を紅潮させた戊陽が玲馨の思い出の中で鮮やかに蘇り、玲馨は口許を手で覆った。
 あの日から何年になる? 六? いや七年か?
 賢妃宮での事なので、戊陽が元服する前、十三か四の頃だ。房事とはつまりねやでの男女の行為の事を指す。皇子への指南役には大抵乳母がついて手ほどきするのだそうだが、戊陽は初めてを失敗している。それから──。
 これはあまり大きな声では言えないまさに秘中の秘なのだが、戊陽の筆下ろしは、玲馨がした。





 桃の香りが室内に充満している。賢妃が大事に育ててきた桃の木が、今年初めて実をつけたのだ。賢妃が入宮する時に植えられた桃の木はどれも賢妃自身がそれはもう手塩にかけて育て上げた物だ。
 最初の何年かは木を成長させるために蕾を全て取り、木が大きくなってからは毎年実をつけるのを楽しみにしていた。
 しかし何年経っても花は咲けども実はつけない。そのうち花も妙な枯れ方をするようになって、賢妃は実家に文を出した。桃について教えてもらうためだ。
 賢妃の生家がある東江ドンジャンは養蚕と広大な桃園が有名である。絹はクン国を経由し国外へと輸出される物もある一方、生桃は主に東江で食べるために作られる。
 干果ドライフルーツにする桃は甘みの少ない物だけで、そちらは沈内でもよく見かけた。しかし、桃好きの賢妃はどうしても後宮に生の桃を欲しがった。結果自分で栽培しようとなるのだから、彼女の桃好きには黄雷ホアンレイも舌を巻いたという。
 実家から返って来た文を頼りに、賢妃は宦官を使って桃の木の剪定を行った。すると花は枯れず薄紅の愛らしい花が咲き誇った。
 次に実をつけるために自分の手で桃を受粉させてみる事にした。それが昨年の事だ。結果は実らしき物は出来たものの大きく育つ前に枯れてしまったので、今年は多く実がついてしまわないよう蕾を減らし、実が生り始める頃に更に間引いて全体の実の量をぐっと減らしてみた。
 そして──。
「母上、これは西から届く桃とは何だか違いますね!」
「ふふ。これはね、果肉が新鮮な証拠ですよ」
 苦節十数年、漸く賢妃宮の桃が結実したのである。
 なぜ実をつけないのか原因を探った時、実の生る数の調整が必要だった事と、西とは気候が違うせいで花が咲く頃に花粉を運ぶ虫が少なかった事の二つが主だったそうだ。
「ほら、玲馨も。食べてみろ」
 親子のほのぼのとした団欒の中、不意に水を向けられて玲馨は戸惑う。余談だが、この頃はまだ賢妃宮に仕えるようになって三、四ヶ月ほどしか経っておらず、あまり賢妃宮の環境に馴染んでいない頃だった。
 断るべきか食べるべきか。悩みに悩んで困ったように賢妃を見上げると、賢妃は柔らかく玲馨に笑ってみせた。それにほっとして桃を受け取って、ひとかけら口に含んでみて、その食感に玲馨も驚いた。
 実のところ賢妃が手ずから栽培せずとも、氷室の氷を使って年に一度、桃は賢妃宮に運ばれてきていたので賢妃宮の者は皆桃の味に馴染みがあった。しかし西の出身者以外は採れ立ての桃を初めて食べるので、林檎や柿より柔らかいのにシャキッとした歯に触る感覚に皆目をしばたたいた。
 それから先二年の間は、賢妃宮では夏に新鮮な桃が振る舞われていた。玲馨が元服するまでの、短い間だった。




 春の盛り、戊陽が十四を迎えた年だった。
 桃をシャリシャリいわせながら戊陽はぼんやりと庭先を見ている。視線の先には収穫前のつるりとした桃が実っている。今年の夏で賢妃宮の桃が見られるのも最後になるそうだ。来年には戊陽が成人するので居所を移すのだという。
 せっかく実をつけるようになった桃は、どうなってしまうのだろうか。次の妃が入ってくるまで、誰かが管理するのだろうか。そもそも桃の木とは放っておいても枯れずにいるのかも分からないし、次の賢妃が桃を好きだとも限らない。戊陽の母の時のように庭を造り変えてしまう事もあるだろう。
「もったいないな……」
 思わず独り言が出てしまったのだが、戊陽は心ここにあらずといった様子で気づいていない。
 寝台に腰かけ漏窓からずっと庭を眺めているが、きっとあれは見ているようで視界には入っていないだろう。
 何だか様子のおかしい戊陽に声を掛けた方がいいかどうか、寝台の傍に出した椅子に座って考えていた。
「聞いてくれ、玲馨」
 玲馨が声を掛けようとするより早く戊陽からそんな風に言われた。寝台に座ったまま戊陽が振り返るとやけに神妙な顔をしていた。
 意を決したかのような声色と表情に、玲馨はやや気圧されて、「はい」と答える声が小さく伺うような響きになってしまう。
「先日、房事の指南を受けたのだが」
 ぼうじ? と頭に疑問符が浮かんで一瞬反応が遅れると、察した戊陽が「閨での営みだ」と教えてくれる。なるほど性交の事かと理解し先を促す。
「上手くいかなかったのだ」
「……それは、大変? で御座いましたね?」
「待て、続きがある。それでな、二回目には乳母がもっと色んな事を想像してみろと言ってきた」
「はぁ」
 具体的に何をどう失敗したのかが分からないので、自ずと返事が曖昧になる。
「豊満な肢体とか、その逆とか、若いか、年上か。とにかく色々、女に纏わる事色々だ」
 その時の事を思い出しているのか、戊陽は辟易として話す。玲馨も乳母がどんな人かをよく知っているのでよっぽど口やかましく言われただろう事は想像に難くない。
「でも、駄目だった」
「お、お気の毒でしたね」
「でももう三回目は嫌だろう? 相手は母上と同じような年頃だぞ。さすがにそれが原因だろうとは言わなかったけどな」
 賢明である。
「それで考えた。美しくて、愛らしくて、肌が綺麗で、切れ長の目に、薄い胸板に、薄い尻。全部乳母が挙げた中にあったものから想像したら、お前が浮かんだ、玲馨」
 立てた片膝に頬杖をつき玲馨を見遣る戊陽の少し微睡んだような視線。自分を通してもっと別の何かを想像しているのではないかと疑ってしまうような熱っぽい目は、玲馨からあらゆる言葉を奪っていった。
 出会ってから二年で、戊陽は背が伸びた。傍に立つと目を合わせるのに見上げなくてはならない。肩や胸などにもうっすらと筋肉の凹凸がつきはじめ、大人の男へと着実に成長していく戊陽の肉体を、玲馨は少しだけ、ほんの少しだけ怖いと感じた事があった。
 一方で戊陽は玲馨に対して並々ならぬものを芽生えさせ、自覚しつつあったようだ。大人への過渡期を迎えた少年の中にいつの間にか生まれ形を持った感情を、今初めてまっすぐにぶつけられて、玲馨は自分の事が分からなくなった。
「嘘は言ってないぞ。お前のおかげで初めて俺は兆した自分のそれを見た。しかし、そこから先がまた進まなかった」
「で、殿下」
「どうした? この話は聞きたくないか?」
「いえ、その」
「俺はお前の嫌がる事はしたくない。宦官は物じゃない、人だ。正直に教えてくれ玲馨」
 現在夏なので戊陽はひとえであるさんはかまをつけており、翻った衫は袴の股下を露わにしている。玲馨の視線はそこに釘づけだった。
 本当に、相手が玲馨で反応するのだろうか。
「……触れてみるか?」
 皇子の秘部に触れるなどあってはならないと頭では思うのに、彼の言葉は酷く蠱惑的に聞こえて否定の言葉を奪ってしまう。
 戊陽の熱にうかされたような目に誘われるまま、玲馨は椅子から立ち上がって、寝台に膝を掛けた。前傾姿勢になり片膝を立てた戊陽の股の間に手を伸ばす。
 夏の紫沈は湿度が高く、じめじめとして過ごしにくい。そんな空気の中に、距離が近付いた事で戊陽の体から放たれる肌の熱のようなものが混ざって玲馨は漸く自分がしようとしている事に気が付いた。
 途端に全身が強張ってもうこれ以上は無理だと思うと、戊陽が玲馨の手を掴んでくる。その手に誘われるまま、玲馨の手が戊陽の股に触れようとして──。
「あ」という声が二つ分重なった。戊陽と、追加の桃を持ってきた四郎の声だ。
 玲馨が振り返ると風通しをよくするために開け放した扉の向こうで四郎が立っているのが見えた。
「失礼いたしました」
 四郎は一切表情を変えずに淡々と桃を卓に置くと、丁寧に拱手して、扉をきちんと閉めてから去っていく。
「しまったな」
 案外平気そうな戊陽に対し、玲馨は赤くなるやら青くなるやらどうしていいか分からない。
「あ、あ、殿下、あの」
「……玲馨、俺は、お前に頼みたいんだ。その……」
 平気かと思いきや、先に続く言葉を言うところを想像してか戊陽は遅れて耳を真っ赤にしながら、玲馨の手を力強く握りしめた。
「乳母の代わりに、筆下ろしをしてほしい」




 戊陽がいっぱいいっぱいだったなら、当然玲馨もいっぱいいっぱいだった。結果、必死な様子の戊陽に釣られて「はい」と答えてしまい、砂粒程度残っていた判断力が「準備をする時間をください」と言葉を続けさせた。
 日中の明るいうちの方が間違いがなくていいかと訊ねてきた戊陽に、玲馨は是非夜でと頼んだ。玲馨の体で兆したと言っても、それは戊陽の中の想像の玲馨だ。実物を見ればやはりどう見ても男の胸板に萎えてしまうかも知れないし、何より使う場所が女と違っている。色々はっきりさせない方が戊陽も上手くいかせられるのではという玲馨なりの配慮だった。
 戊陽付きになってからの玲馨は賢妃宮の西の宦官たち用の殿舎で暮らすようになっていたので、そこで身を丁寧に清めた。それから思い切って乳母に油のような物がないか訊ねてみるとたったそれだけで状況を悟ったようで、後宮で妃たちも使うという植物から採れた油を特別に分けてもらった。
 ついでに二、三房事について訊かれた。例えば腹の中の洗浄の事など。全てにきちんと玲馨が答えると、口喧しい乳母も「では任せましたよ玲馨」と笑顔で送り出してくれたが玲馨は緊張で頬を引き攣らせるだけだった。
 乳母から受け取った油は口の細い玻璃はりの入れ物に注がれ布で何重にも蓋がしてあった。試しに一度開けて入れ物の口に鼻を寄せてみると、料理に使う油よりもずっと臭いが少ないと分かる。これなら情事の最中に邪魔になることもないだろう。
 平服と寝衣のどちらをつけるべきかまた少し悩んで、汚れの少ない寝衣の方を選んで身に着ける。それから油と手燭だけを持って回廊に出た。
 戊陽の部屋の前には四郎が立って番をしていた。夜にここへ人を置く事はないので恐らく万一に備えて乳母から言いつけられたのだろう。何を想定した万が一かは分からないが、何かあれば四郎を頼れという事らしい。しかし昼間に何とも気まずい現場を見られたため、玲馨は四郎の顔が見られなかった。
 扉の向こうから茫洋とした宮灯きゅうとうの灯りが漏れて、扉へ続くきざはしをうっすらと照らしている。四郎の横に立ち扉の向こうに「玲馨です」と声を掛けると、室内の灯りが揺れた。
「入れ」
 玲馨は片手に手燭を持っていたので気を利かせた四郎が代わりに扉を開けてくれる。ぎぃ……、という耳障りな音が普段以上に気になった。
「お待たせしました、殿下」
「うん……」
 玲馨を出迎えたのは、上ずったような戊陽の返事と、暖色の柔らかい宮灯と、さりげなく香る桃の匂い。
 玲馨には行為の経験ばかりがあって、所謂「普通」の知識はずっとなかった。宦官になるため城に来て、それから春画と共に男女の官能を書いた本が流行って、そこで初めて性交がどうした状況下でどういう相手と行われるものなのかを学んだ。
 玲馨の知識は言っている。この部屋はまさに、いかにもな雰囲気を醸していると。
 それを意識した途端に胸のところがドッと大きく跳ねた。苦しいくらいに心臓が逸り、これから自分は戊陽と事に及ぶのだと思うとますます苦しくなっていく。
 しかしここまで来てやっぱりやめますとも言い出せない。玲馨は手燭の火を消して壁に掛けると、寝台に腰掛けたままじっと待っていた戊陽の傍へと寄っていく。
 玲馨はつまりこれから乳母の代わりに房事を手ほどきするのである。これは決して男女のそういう恋し愛するそれとは違うのだと言い聞かせて、寝台に乗り上げた。
 まず何を声掛けたらいいかと考えて、女にあって自分に無いものが頭を過った。
「私は女ではありませんから、少々勝手が」
「お前は……こんな時まで畏まるのか」
 不貞腐れた様な声に緊張とは別の理由で胸がひやりとした。
 戊陽は乳母に手ほどきをされてどうしても兆さなかったと言っていた。彼はきっと繊細なのだ。玲馨が戊陽の機嫌を損ねて勃つものも勃たなくなってしまったら、戊陽の将来に悪い影響があるかもしれない。
 房事とは、玲馨がされてきたような穴につっこんで好き勝手腰を振る事をそう呼ばない。もっと本にあったように、会話であるとか雰囲気であるとか、所謂前戯と言われるものも大事にしなくてはならないだろう。
 短く息を吸って吐いて、どうにか肩から力を抜く。それから正直に告げた。
「私も、女との事は本でしか知らないから、上手く出来るか分からないんだ」
「構わん。俺はお前にしてほしいんだ」
「うん……」
 他でもなく玲馨が良いのだと、そんな風に言われると玲馨とて吝かではない気にさせられる。魚心あれば水心とも言う。
 本ではやはり口付けからだった。目を見つめ合って、頬や頭に手を添えて、それから唇を──と思ったら鼻の頭がぶつかってお互いに小さく吹き出す。
「ぎこちないな玲馨」
「戊陽だって」
 笑いがおさまると、しん、と夜の空気が染みてくる。
 油が切れたのか柔らかく室内を照らしていた宮灯が消えてしまう。一瞬視界は真っ暗になって、窓からの月明かりだけでお互いの輪郭を確かめる。
 もう一度、戊陽の頬に触れてみた。今度は戊陽も玲馨の頬骨の辺りを親指で撫でてくる。お互いの距離をゆっくり慎重に確かめながら顔を近付けて、戊陽が鼻をぶつけないよう角度をつけて、とうとう唇が触れ合った。
 ちゃんと触ったのだという感触を残し離れて、その頃には闇に視界が慣れて戊陽と目が合っている事に気付く。昼に見たあの微睡んだような、だけど決して眠たい訳ではない熱を孕んだ目をしているのが分かる。
 玲馨を好き勝手に蹂躙してきた男たちの、獣性を剥き出しにしたそれとは全然違っている。男たちは玲馨を見ていたのではない。玲馨の形をした道具を見ていた。
「玲馨」
 月の光に照らされた戊陽の目の中にはっきりと浮かんでいた自分の姿が段々と滲んでいき、もうその目に何が映っているのか分からなくなると二度目の口付けが訪れる。
 ただ触れ合うだけではじれったくて食むようにすると、戊陽は一瞬驚くもすぐに応えてくれた。
「ん、……ふっ」
 ちゅ、ちゅ、と水っぽい音を立てて何度も唇に吸い付いて、ほんの少し覗かせた舌で唇を撫でると、同じように戊陽の舌が玲馨の舌先を突いてくる。そのまま戊陽の舌が玲馨の口内を犯し始め、ただただ気持ち良いと思う事だけを追い掛けるのに必死になった。
「は……、次は?」
 玲馨が顔を離すと、戊陽は自分からは先に進めず玲馨を促した。その表情はもう待てないとはっきり告げているのに、戊陽は玲馨に主導させる。
 女とするようにはいかないので、玲馨はとにかく戊陽の陰茎をどうやって勃起させるかが問題だった。しかし、玲馨が袴に手をやるとそこにはしっかりとした質量を持ったものが既に兆して肌触りのよい上等な絹を押し上げており、思わず息を詰めた。
 本当に、玲馨で勃つのだ。それとも接吻でそうなったのか。
「下、緩めるよ」
 うん、と小さく返る声には何だかまだ躊躇いがあるような気がする。しかし袴を緩め隙間から手を差し込むと、そこはやはり痛そうなほど張り詰め屹立していた。玲馨はもうその感覚を味わう事は無いが、たった数回自分で慰めた時の射精する快感は覚えている。
 竿の根っこのところを軽く輪にした指で掴んで下から上に擦り上げると戊陽の腰が僅かに引いた。
「……やめる?」
「やめない」
「うん」
 このままでは袴が汚れるのでまた了承を得てから上下ともに衣を取り払った。
 玲馨と違ってちゃんと筋肉がつき始めている体は男らしさがある。その中央で勃ち上がっている物も十分なほど立派で、玲馨の記憶の中で圧倒的な力で押さえつけられた日々が明滅する。
 ──目の前に居るのは戊陽だ。
 玲馨は晒された戊陽の股に顔を埋めて、戊陽のものを口に含んだ。
「っ……」
 喉の奥の方を締めるようにして先端の膨らみを軽く吸ってやると、頭上で息を詰めた気配があった。吸う力はそのままに頭を上下に動かしてやると、戊陽の腰が初めての刺激にびくびくと素直に反応を返してくる。
「り、しん、待て。駄目だ出るっ」
 早いと感じる暇もなく全体が緊張し、逃げていきそうになる腰を捕まえて少し無理をして喉奥まで咥えてやれば、戊陽は口内で呆気なく果てた。
 咳き込む事なく精液をしっかり受け止めて、飲むべきか吐き出すべきか逡巡する。
「玲馨、さっさと吐け。そんなもの飲むな」
 荒い呼吸の合間に戊陽はそう言って、脇に用意しておいたらしい手巾を玲馨の口に当ててくる。それでやっと吐いていいのだと思い精液を吐き出して、なんと水差しと桶も用意済みという万端ぶりで口の中を軽くゆすいだ。
 再び向き合って座る形に戻ると、戊陽は奇妙な表情でしばらく玲馨を眺めた後、意を決したようにして玲馨に小さく口付ける。
「……自分のものを咥えていたと思うと複雑だな」
 なるほど。 
 こんなに早く達してしまうとは思わなかったが、自分の口で感じてくれたのだと思うと愛らしく、そして嬉しいというふわふわした物が胸の中に湧いてくる。
 それはさておき続きが出来るかどうかは戊陽にかかっていたのだが、萎えてふにゃりと柔らかいそこを揉んで刺激しているとまたすぐに芯を持ち始める。
 玲馨にとって一回で終えられる客は上客だったが、戊陽は違う。まず客ではない。勃たなくては困る。
「玲馨、待て。何で俺ばかりするんだ」
「私には、もう陽物がついてないから」
 それにこれはあくまで指南だ。
「そうではなくて」
 何か納得がいかないらしい戊陽は玲馨の体を引き寄せて頬に唇を落とし、玲馨の襟の合わせに手を差し入れた。しっとりとして熱のある戊陽の手は玲馨の鎖骨を掠めて胸の控えめな飾りを探り当てる。
「っ……」
「ここは、男でも善くなれるのだろう?」
 玲馨の体はあちこちを都合の良い道具として作り変えられていた。城へ来てからも永参ヨンツァンが居た。しかしあれから約二年が過ぎており、もう玲馨の体はちょっと触られたくらいではどうともないと思っていたが。
 不器用に、それからどこかうかがうような手付きで乳首が捏ねられると、下腹の辺りにくっと力が入るような感覚がある。やはり鈍くなっているが、全く分からない訳ではない。寧ろ──。
「ぁっ、戊陽……っ」
「ん?」
「き、きもちいい」
「……! そうか」
 戊陽は嬉しそうだ。さっき玲馨も戊陽が気持ち良さそうだったのを見て、今の戊陽と同じ様な顔をしていた気がする。幸福だ、と感じた気がする。
 戊陽にそっと肩を押されて寝台に押し倒される。それから上にのしかかられてはだけた玲馨の胸に戊陽が顔を寄せ乳首を舐めた。
「んっ、……っ」
 仰向けの体勢で顔が見えなくなるとたちまち怖じ気が指先を震えさせた。それを誤魔化すように戊陽の髪に指を入れてそっと梳かしてみる。する、と指先をすり抜けていく長い黒髪は、日中ならば陽光に透かすとほんの少し赤っぽく見えるのを知っている。玲馨の髪はどれだけ明るい所へ出ても真っ黒だ。
 ぎこちないながらも戊陽は玲馨の下着に手をかけ下衣を取り払い、玲馨の股を見て微かに頬を引つらせた。見てくれが良いはずがないので玲馨はさっと手でそこを隠すと何故か「すまない」と謝られた。
「何で、戊陽が?」
「見られたいものじゃないだろ?」
「それは、そんなに。それより見て気持ち悪いと、やめたくなるかと思って」
「それはない! 見ろこんなに腫れ上がって早くお前を、あ、いや……」
 暗くて色までは分からないが多分、戊陽は今頬も耳も真っ赤に染まっている。たまらず玲馨が笑いを漏らすと少し怒ったようになって、戊陽は勃起した陰茎を直接玲馨の会陰に押し当てた。ぐ、と突き上げられるような硬さと熱に、途端に玲馨の体が縮こまる。体が勝手に急に挿入するかと焦ってそうなった。
 戊陽が体を引いた。
「……やはり、怖いか。男の体は恐ろしいか」
 思わず頷きかけたが、えっと声を漏らしながら驚いて戊陽を凝視する。どうしてそれを戊陽が知っているのか。玲馨の反応を見て気付かれたかと考えたが、記憶の中にうすらぼんやりと、戊陽に幼かった頃の辛苦を吐露してしまった記憶が浮かんでくる。死ぬのだと本気で思っていたから、死の際に自分に積み上がった不幸を嘆いて全部吐き出したかったのだ。あろうことか戊陽相手にそれをやって今の今まですっかり忘れてしまっていたが。
 玲馨は悩む。怖くないと言えば戊陽に嘘を吐く事になるが、今ここで行為をやめたくなかった。
『俺はお前の嫌がる事はしたくない。宦官は物じゃない、人だ。正直に教えてくれ玲馨』
 あの言葉の真意が見えたような気がした。戊陽は玲馨を怖がらせたくなかったのだ。
「戊陽、私は。私は、あなたと、したい」




 熱い、と思った。夏の夜も、戊陽の手も、戊陽の視線も。
 戊陽の部屋を訪ねる前に自分で後ろを準備してきていた。しかし貰った油を使い切っても困るし衣に垂れても困るからと指が二本ほど入ったところでやめていた。しかしそれでは戊陽の物は収まらない。
 戊陽は驚く事に自分で玲馨の後孔を解したいと言い出した。彼は一度言い出すときかない所がある。案の定玲馨が折れる羽目になって、今四つん這いになって戊陽に向かって尻を突き出しているのだが。
「ん……ん、ぅっ……」
 戊陽の指がある一箇所を試行錯誤するように押したり引っ掻いたりしている。玲馨の体はあっさりとそこを刺激される気持ち良さを思い出して、玲馨の口から喘ぎを漏らした。
 どこをどうすれば善いか、玲馨はどこが好きか、全部訊かれたし全部言わされた。恥ずかしさは限界をうに越えている。
「痛くないか?」
「な、い」
「三本入ったぞ」
「い、言わないで」
「痛くさせたくないんだ。もう少し、広げた方がいいよな?」
 どうしてこんなに恥ずかしくてたまらないのだろう。犬のような体勢も、言葉で責められた事もあるのに、相手が戊陽だと思うだけでたまらなくなる。自分の一つ一つの細かな仕草が戊陽にどう映っているか気になって仕方がない。
 玲馨の中心で兆すはずのものが最早無いせいか、より後ろへ神経が集中している。そのうち腕を突っ張っていられなくなって、枕に顔を埋めてより高く尻を突き出す体勢になると、戊陽は「お、それいいな」とますます尻孔をご機嫌で弄り始める。
「ひっあっ、うーやんっ、もう平気。入る、入るからっ」
「……そうか?」
 感覚的に多少引き攣れても血が出たりするような事はないくらい拡がっていると分かる。それより戊陽が萎えていないかが気になって後ろを振り返ったが、一切萎えずに勃ち上がったままのそれを見て安心する。
「向きはどっちがいい?」
「どっちでも、戊陽の好きなようにして」
 玲馨にとっては後ろからの方が体勢が楽なのだが戊陽は悩んで「正面」と言った。顔が見たいのだそうだ。
 玲馨が再び仰向けになって寝転がり、油をこれでもかと足されて濡れそぼった孔に、一度射精したとは思えないほど硬さを取り戻した陰茎があてがわれる。指で解されたそこはほとんど抵抗なく戊陽を飲み込んでいき、戊陽はその感覚に息を詰めては腹を縮め、どうにかいなしている風だった。
 入れる時からずっとうかがうように玲馨を見つめていた戊陽が、根本まで自身を収めると感慨深げに目を細めた。
「繋がった、玲馨。全部入ったぞ」
「……うん」
 当たり前だ。戊陽さえ萎えなければ、玲馨のそこは受け入れるために準備をしたのだから。だというのに、隙間なくぴっちりと腹の中に埋まった確かな質量を感じるとどうしてかたまらなくなって、思わず戊陽に向かって手を伸ばすと戊陽はその手をしっかり掴んで力強く握ってくれた。
 正面だと尻が浮いて少し辛いが、戊陽の顔が見られて良かったと思う。力の強さは大人の男の象徴で、ずっと玲馨を苦しめてきたものだった。だけど戊陽の手は、玲馨の中にべったりと染み付いていたものを、ゆっくりと拭い去ってくれる。
 尻に何かが入っている感覚は今この瞬間も玲馨の腹の底に逃げられない怖さという杭を打ってくる。だけど、戊陽となら、相手が戊陽ならいつか、そんなものから解放されるかも知れないと思わせてくれるのだ。
「動く……が、絶対に」
「うん、大丈夫。言うから、好きに動いて」
「ああ……」
 みっちりと埋まった陰茎が油の滑りを借りてぬるりと蠢き始める。ゆっくりした抽挿に合わせて玲馨の腰がゆらめくと、戊陽は歯を食いしばって決して雑にならないように丁寧に中を突いた。
 戊陽の硬いものが入り口の腹側を擦って雁首が引っ掛けるようにすると、玲馨の無くなった物の根本の辺りにゾクゾクとした感覚が込み上げてくる。小刻みに跳ねるように腰が震え、たまらずぎゅっと孔を締め上げてしまう。
「う、きっ……つ……」
 戊陽が呻くのに合わせてますます腹の中の切ないような感覚が強くなって、玲馨の口からあられもない声が出ていく。
 そのうちコツを得た戊陽が玲馨の腰を掴んで腰を振る速度を上げると、腹の奥の行き止まりに戊陽の先端が届いた。カッと目の前に白いものが明滅して、出すものはないが自分が達した事を悟った。
「はっ、玲馨、達したか?」
「ぁっ、うん、い、今動かれると、あっ」
「く、う……っ」
 パンパンに張り詰めているのに玲馨が少しでも嫌がるような素振りを見せると戊陽はぐっと腹に力を込めて動きを止める。額から汗を滴らせながら耐える姿にさすがに可哀想な気になって、玲馨は両腕を戊陽の顔に向かって伸ばした。
「う、動いて」
 果てたばかりで全く止まられるのも、逆に辛いのだと初めて知った。戊陽にはまだ戸惑うような気配があったが、玲馨が戊陽の首に巻き付くと、戊陽は玲馨の尻を鷲掴みにして律動を再開させた。
「……ぁあっ、あっ……んんンッ、あ、あンっ」
 戊陽の腰の動きに合わせてあっあっと甘ったるくてねだるような声が抜けていく。脳天まで響くような性感に玲馨はいやいやと首を振って必死に戊陽にしがみついた。
「は……はっ……玲馨……」
 自然と求められているのものが分かって、腕の力を緩めて唇を交わらせる。唾液で口元が濡れそぼり、くちゅくちゅと音を立てて舌を絡め合い、舌を吸われて頭が痺れ、腰を打ち付ける乾いた音と腹を掻き混ぜられる感覚に呼吸も忘れそうになると、玲馨の中で戊陽が痙攣して熱いものを迸らせた。
「ふっ………く……っ!」
「ふぁあっ、あ、出てる、ぅっ……んん、あああっ」
 ぐ、ぐ、と奥に精を塗り込めるようにして戊陽が腰を前後に振ると、玲馨の背が弓形に反って二度目の絶頂を迎える。視界がチカチカしていっとき呼吸が飛んで、半開きになった口で喘ぐようにして空気を吸った。
 落ち着いてくると、戊陽に痛いくらい抱きしめられた。汗で濡れていて、夏の夜のぼんやりした暑さに混じるような温かさがある。戊陽の髪から香る微かな桃の香が、のぼせた意識の隙間にふ、と入り込んだ。
 ああ、と分からなくなっていた自分への理解が進む感覚がある。
 玲馨は大人の男が怖くて、戊陽からそれと同じ気配を感じるのが怖くて、そして何より名も知らぬ男たちの記憶と混じって戊陽を見失ってしまう事が恐ろしかったのだ。
 玲馨が戊陽の背に腕を回すとますます抱きしめる力が強まった。大丈夫、自分を抱きしめてくれているのは、戊陽だ──。
 気付けば、玲馨の目からは一筋だけ涙が流れていた。
「玲馨?」
「待って!」
 離れていきそうな空気を察して、腕に力を込めて引き止める。
「もう少し、抜かないでほしい……」
 言いながら恥ずかしくなって尻窄みに声が消えていったが、戊陽には十分伝わったようだ。玲馨に上から覆い被さったままもう一度きつく抱きしめ耳元に口付けをしてくれる。
 二回も達してぬるい湯の中に浸かったような程よい脱力感と、戊陽の素肌の感触。背中の下にある布団は柔らかく、このまま意識を手放したらどれだけ幸せだろうかと思った。
 しばらくして玲馨はそっと戊陽の手を解いて腕の中から抜け出すと、「あの」と控えめに声を掛けた。
「ど、どうだった?」
 これは性行為と呼ばれるものに違いないが、玲馨は戊陽の指南役だった事をこの段になって思い出したのだ。途中から行為そのものに夢中になって、指南も何もなかった自分が恥ずかしくなった。
 戊陽は目玉を右、左、それからもう一度右にやって漸く玲馨を見ると「……またやりたい」と答えて隣にゴロンと仰向けに寝転がった。
「それは……私と?」
「お前以外に勃たないのに誰とやれっていうんだ」
 納得しかけたが、それでは玲馨のお役目は失敗だった事になるのでは、と首を傾げる。
「いいからもうお前も休め」
「はい。あ、うん。でもその前に中を掻き出さないと」
「……! 俺がやる」
「いえ、いや、じ、自分で」
「何故だ?」
「また、やりたくなったら、困るから」
 まさか自分がこんな事を言う日がくるとは思わなかった。
 自分自身の発言に半ば驚いて、勢いよく起き上がって寝台から降りる。と、自分の太腿を伝う感覚があって慌てて股を擦り合わせる。
「……厠へは行くな」
「えっ」
「その状態のお前を、他の誰かに見せたくない」
 確かに玲馨もこの状態の自分を誰かに見られたくはない。
 それから戊陽は宦官たちの部屋に戻って休むのも駄目だと言うので、四郎と一緒に外で見張りをしようかと申し出たところ、四郎は宦官の部屋に返され玲馨は戊陽の寝台に引きずり込まれて皇子の部屋で皇子と同じ寝台に上がって一晩を過ごした。
 翌日目の下にクマをこさえた玲馨を見た乳母は「あらあらまぁまぁ」と朗らかに笑ってその日一日を休みにしてくれるのだった。
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