あわいの宦官

ちゅうじょう えぬ

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山芒編

10不義密通

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 山芒の民家は木を切り倒して開拓し、少ない平地に無理矢理建築したので東側が山肌に埋もれるようにして建っている事が多い。更に少ない平地にひしめき合うので家同士の隙間が極端に少なかった。
 もう記憶から薄れつつあるが玲馨がまだ明杰と呼ばれていた頃に暮らしていた家も薄い壁一枚で区切っただけの長屋で、隣人の生活音が丸聞こえだった。昼夜問わず子供が犯される声が響いているはずなのに誰も助けないどころか文句を言われていた事を思うと、貧困街の暮らしとはげに恐ろしいものだった。
 ここ株景ジュージンは山芒の領都だけあってあの長屋よりはよほどまともな家の造りをしてるようだが、隣家との騒音問題からは逃れられそうに無い。
「地方ったって仮にも官吏の実家がこんな所にあんのか」
 あるゆる方面に敵を作る梅の発言に、辛新は周刺史が怒り出さないかハラハラしている。一方周刺史は眼前で端座する宦官の事で頭がいっぱいのようでその他の有象無象は眼中にない。
 室内は掃除こそしてあるが物が多く煩雑としている。何をそんなに溜め込むのか壺やらかめやらが雑多に並べられ、土間には大小様々な鉢が重ねて置いてある。他に気になるのは板を組んで作った背負子せおこと小さな抽斗ひきだしがたくさんついた特徴的な箪笥たんすくらいか。
「何やら変わった家ですね。ご実家は何かを営まれているのでしょうか?」
「ああ……ええ、父親が薬師を」
「薬師ですか。ではきっと大変だったでしょうね」
「はい……その……」
「まだお聞きになっていませんか? 山芒では大きな事故があったんですよ。軍用の宿舎まるまる一棟が沈んで、ええと確か場所は川沿いでしたね」
 周刺史の顔面がつやつやとし始める。脂汗だ。
「薬師なら怪我人の治療に駆り出されていたのでは?」
 周刺史はとうとう、うんもすんも言わなくなって、膝に両手を押し当て肩を窄ませる。
 そこで「ああ!」と大声をあげたのは辛新だった。ついでに手も打って、何かを閃いたと分かりやすく主張する。
「ここは確かに薬師の方が住んでおられる家ですよ。山芒軍にもよく往診に来ておられました。息子さんが一人いらっしゃった事は聞いてますが……」
 辛新が話せば話すほど周刺史の表情が歪んでいく。苛立ちか怒りか分からないが体が小刻みに揺れ出して、喉まで出かかった言葉を必死に堪えている。
「息子さんは……そうだそうだ科挙に合格して官吏になられたんです。それから、刺史! そうです刺史になられたと大変喜んで──」
「あのっ!!」
 ガタッ──と同時に三つの音が重なって、一瞬の騒音に耳の奥がキンとなった。
 何が起きたのかそれぞれが状況把握に首を巡らせる中、最初に動いたのは周刺史だった。外から開けられた扉を振り返るなりとうとうたまらなくなってその場から逃げ出していく。
 しかし周刺史が戸口から出ようとしたところで家人らしき初老の男が周刺史を見て妙な反応を示す。
「あん? お前さんもしかして……」
 何かを言いかけるのも構わず周刺史はそのまま外へ。
 家人の反応は周刺史の事を知っている素振りだが息子に対するそれではないと見て取ると、梅がやれやれという風に立ち上がった。
「おーい。いいのかあんた。知り合いなんだろ?」
 家人の男と入れ替わりで戸口に立った梅は、走って逃げる周刺史に向かって叫ぶ。特にその手に剣が握られているという事もなく、梅はどこまでも平時と変わらない呑気さで言った。しかし先程脅された周刺史にはそれだけで十分だった。
 すごすごと引き返してきた周刺史を見て、薬師は「やっぱり」と何かを確信したようだ。
「薬師殿、周刺史との関係をおうかがいしても良いですか?」
 これはたまげたという風に、薬師は坊主頭に手を遣り答える。
「甥です。しかしあなたたちは一体……?」
 皇帝陛下の密命を受けて、とは言えないので「代理監察官みたいなものですかね」と適当を言っておいた。




 改めて、周刺史と薬師を含めた五人でみっちりと狭い家屋に収まって会話が再開される。
「では息子さんが刺史というのは、山芒の刺史になられたという事だったんですね」
 周刺史にとって薬師は外叔父だが母の妹の夫だそうだ。血の繋がりが無いのだからどうりで顔も性格も似ていない訳である。
 薬師は少しばかりぼんやりとした雰囲気のある人で、対して周刺史はごまをすってのし上がってきた太鼓持ち官吏だ。よく口の回る人で、おべんちゃらで彼の右に出る人はいないと思うほどだった。だからこそ今日の態度が余りに違い過ぎてまんまと玲馨に追い詰められた訳だが。
「従兄弟同士で刺史だなんて、とても優秀な御一族なんですね」
 素直に感心出来るのは辛新の良いところだろう。玲馨も全く同じことを言おうとしたが、周刺史には玲馨の腹が透けているので真に受ける事はなかったろう。
「いえそれが、うちの倅は」
「叔父さんその話は」
 周刺史には既に諦念の気配があるが、殊山芒の刺史に話題が移ると目の色が変わった。
 しかし山芒の刺史が少しでも話題に出てしまえば玲馨とて無視する訳にはいかない。
 四つの地方都市を監察するため派遣される刺史は各地方の統治体制を皇帝へ報告する義務がある。周刺史は北玄海について最低限の仕事をしていたが、山芒の刺史はいつ頃からか一切の音沙汰が無かった。
 山芒刺史について何か知っているのなら口を割らせたいところだが、周刺史の様子は深刻で無理に聞き出そうとすると自棄を起こしそうな雰囲気があった。
「周刺史、これについては答えられますか? 北玄海と山芒の現在の関係性を教えて下さい」
 仕方なく話題を変えたように見せて実のところ玲馨にとってはこちらが本題である。
 しかし周刺史の視線はついと横に逸れ、下へと落ちていった。やはり皇帝に対して隠したい事があるのだ、北玄海と山芒の間に。
「……お話し、出来ません」
 喉から絞り出したような声だった。
 その場に重たい空気が降りてきていっときの間誰もが口を閉ざした。ちなみに梅は退屈して半分寝ている。
 周刺史はもはや石のように堅く口を閉ざしてしまっている。だが北と東が繋がっていると証明するために、川の調査などよりよっぽど分かりやすい証拠を見つけられそうなのだ。このままみすみす逃したくはない。
「玲馨さん、あの……」
 玲馨の黙考に横槍を入れたのは辛新だ。見ればどことなく青いような顔をしている。この重たい空気に中てられでもしたのだろうか。
「こっちへ」と言って玲馨の袖を掴むと、辛新は立ち上がってそのまま玲馨を家の外まで連れて行く。
「どうしました?」
 玲馨が戸口を塞ぐ形で立って辛新に問うと、辛新はキョロキョロと周囲を見回してから、声を落として玲馨に話した。
「山芒の刺史は恐らく……」
 恐らく、周刺史のご子息です。




 山芒出身の兵士の中でも敢えて辛新を玲馨に付けたのは、十中八九、彼自身の正体を玲馨に暴かせるためだった。これには恐らく李将軍が一枚噛んでいるだろう。相手は曲がりなりにも武官なので危険を防ぐために手足という名の護衛を梅が任された。
 辛新に一度は剣を突き付け脅されまでしたが、今となっては辛新を寄越した李将軍に感謝したいくらいである。彼は周刺史の化けの皮を剥がすのに、一役も二役も買ってくれた。
ジェンさん、この辺りで昼でもやっている屋台か料理屋を教えて欲しいんですが」
「料理屋は少し離れた所に。屋台でしたら通りの」
「では! そうしたら一緒に行きましょう珍さん! 案内お願いします!」
「はい? いえ私は薬を煎じなくてはいけないので」
「いいですから!」
 良くはないだろうと思いつつも、薬師の珍を辛新にどうにか連れ出してもらわなくてはならないので、気の毒だが助け舟は出さない。
 二人の足音がすっかり遠くなってから、諦念の中にもまだどこか警戒心を残している周刺史に向き直る。
 これから玲馨は周刺史の心をひとつひとつ折っていかなくてはならない。嫌な仕事だ。
「周刺史、ご実家は本当に山芒だったのですね。それが北玄海の刺史になられるとは、どうでした? 北は海と接しているから山岳地帯の山芒とは一年を通して随分気候が違うと聞きます」
「……叔父を連れ出してまで、そんな話がしたかった訳ではないでしょう」
『いやはや、陛下の宦官殿は大変聡明な方でございますねぇ! 弱冠であらせられるというのに陛下は慧眼をお持ちだ。文官殿も──』
 あれら周刺史の発言がおべっかであると分かってはいても、同一人物とは思えないほどの変わり身だ。
「いえ、お聞きしたい。北に配属されたのはいつ頃でしょうか。当時と今では北玄海の景色の見え方も変わられたのでは? それとも初めから、あなたの目には北は敵だったのでしょうか」
「敵ではありません!」
 つい大声を出してしまったという感じだった。自分の態度に気付いて口を噤むももう遅い。
「敵でなければ味方ですか? 何故? もちろん敵である必要はないですが、北は監察地であり周刺史にとって異郷の地ですよ。馴染むのも悪くはないが、情が湧けば仕事に影響があるのでは?」
 北で会った時には口数は多いがしゃんとした人だった。しかし今や見る影もなく身なりが乱れ、憐れなほど背中が曲がっている。
「周刺史、話して下さい。四王同士の関係を思えば、山芒出身のあなたが北で監察をこなすのは厳しかったはずです」
 出身地など隠しても調べればいずれは露呈する。王も各都市に息のかかった者を置いているだろう。
 四方は宮廷を巡って互いに見張り合う関係にある以上、周刺史が北玄海へ配属されたのは飛んで火に入るようなものだったはずだ。
「……どうか、ご勘弁を」
「ご子息を盾に脅されましたか」
 間髪入れずに玲馨が言葉を返すと、周刺史は弾かれたように顔を上げる。そして酷く狼狽した表情で、玲馨を見た。周刺史の玲馨を見る目には、敵意が浮かんでいる。
「三十代と言えば官吏の中でも相当に若手です。東の刺史を任さるとなると大任ですね」
「……一体、どこまで知っているんですか」
 漸く玲馨の言葉に乗ってきた周刺史を、もう絶対に降ろさせるつもりはない。全て吐いてもらう。
「さて、あなたがどこまで隠したいのかによりますか」
「……」
「向家のご当主を私は直接は知りませんがしかし、果たして務まりますか。見たままを陛下にお伝えするなど以ての外だったのでは? 中央からの催促はあったはずです。それを無視して向家当主に協力し続ける胆力は、ご子息にはあったのでしょうか?」
 笑いたくもない笑顔を振りまき、言いたくもない世辞で自分の地位を守り続けていた周刺史が、それらをかなぐり捨てて故郷に居る。暇を与えられた訳ではないだろう。逃げて来たのだ、きっと。
 そして故郷に戻った理由は息子のためだ。
「もうよいでしょう。あなたの子息はこの山芒の刺史を務めておられる。向青倫に逆に監視されながら。そしてご子息は表向きにはあの薬師殿の息子という事になっていますね」
 辛新によると、息子が不義の子だと知らないのは薬師と息子本人だけだろうという事だった。石の物言う世の中と言って、どれだけ隠しても何故か秘密とは漏れてしまうものなのだろう。周刺史と薬師の妻が不倫している事は、周囲には知られた事だったそうで、辛新の耳にも噂として入っていた。
 これ以上、彼を強請るネタは玲馨にもない。後は周刺史が話してくれるのを待つしかなかったが、やがて周刺史はぽつぽつと経緯を話し始めた。



 
「北玄海の刺史に叙されたのは六年前、黄昌ホアンチャン陛下の代でした。私はろくな功績もなく官吏といっても端で筆を持って議事録を書くだけの日々でしたので、始めは耳を疑いました」
 周刺史は言い方から察するに流外官りゅうがいかん──階級の無い官吏──だったようだ。武官の一番下っ端である辛新にも下士三品かしさんぼんという階級があるので、嘗ての周刺史はそれより下になる。しかし議事録という事は朝議の場に居たのだから、高官の中に伝がありそうだ。
 或いはその伝が、彼を刺史にした黒幕かも知れない。
「赴任して初年度は右も左も分からないまま、頼りにしていた上司の指示で刺史として必要な仕事をこなしました」
「刺史には特権があるはずですが」
「玲馨殿も仰っていたではないですか。刺史が王を御せるはずがないと」
 御す、とまでは言っていないが。
 刺史に与えられた特権はいくつかあるが、目立つのは地方官吏の任命権だろう。人事をある程度好きに出来るのだ。もちろん地方行政にも人事組織があってそこの認可が降りなければ人事案は通らないが、周刺史も生まれていないような古い沈では刺史が意見を押し通してしまえるほど刺史の力は強かった。当時、皇帝直下の中央行政の権威は絶大であったのだ。
 しかし、七十年前にその力関係は変わっていく事になる。
 現在は四王が中央でも力を持っているため、刺史一人で地方を操るなど不可能なのだ。仮に悪事を見つけても、その官吏を罰したり罷免したりという事に持っていく事が出来ない。
「向青倫王も恐ろしい方ですが、それと並び立つ北の水王すいおうも似たりよったりです。玲馨殿も一度お会いされたから分かるでしょう。隠然たる力を持つお方です」
 礼儀正しくにこやかな老人。ほんの短い時間しか対応されなかった上に直に話したのは文官なので、玲馨の中で北の王はそんな印象だ。
 だが決して彼を好々爺などとは呼べない厳とした雰囲気がそこにはあり、何故そう感じたかを思い出した時、傍に控えていた官吏や兵士たちが誰しも緊張していたからだと気付く。
 なるほど、あれを監察するというのは肝がいくつあっても足りなさそうだ。それも貴族の生まれではない庶民出の周刺史には刺史としてそれらしい仕事をさせてもらえていただけ運が良かった。いや実力かも知れないが。
「業務に慣れてきた頃です。東からの接触がありました。端的に言えば内偵をしろとのお達しです。もちろん一度は断りましたよ。あの頃の私は厄介な事に、刺史としてもう一人前だと自負していましたから」
 東からの接触とやらの素性までは、この際質さなくても良いだろう。元々彼やその周りの罪を暴く事は玲馨の仕事ではない。
「息子が科挙に合格すると、東は手を回して息子を、卓浩ジュオハオを山芒の刺史にさせました。息子の人生は木王に握られたも同然です」
 従兄弟の関係を利用するつもりだったか、息子と知ってやったか。恐らく後者だろう。
「山芒はどうやら北を味方につけるべきか配下にするべきかを図っていたようです。そして」
「山芒、というより向青倫は協力関係を望んだ。ですね?」
 こっくりと頷くと周刺史は疲れ切った息を吐き出した。しかしまだ説明してもらわないといけない。
 ひとまず何か飲み物でもと思うと、梅がおもむろに立ち上がって戸口の方へ向かう。足音を立てないようにしている事に気付き、玲馨は周刺史に向かって人差し指を立て静かにさせる。
「はーい、どちらさんですかー」
 梅が扉を押し開けると、まさか内側から開くとは思っていなかったどちらさんかが悲鳴を上げて、ごろんと後ろ向きに転がっていった。玲馨もまさか人が居たとは思わなかった。
 玲馨は何も気付かなかったが、梅には物音でも聞こえていたのだろうか。動物みたいな奴だ。
「卓浩」
 動物みたいな感覚を持った梅が犬猫のように卓浩と呼ばれた男の首根っこを掴んで戻ってくる。この場では専ら話題の中心にいる周刺史の息子だ。
「子佑兄さん、何で……。この人たちは誰なんだい?」
 科挙に受かったとは思えないようなぼんやりした男だ。卓浩は血縁より育ての親に似たらしい。
「申し遅れました、私は名を玲馨と言います。戊陽皇帝陛下付きの宦官です。こちらは」
「梅だ。梅梅って呼んでね」
 ばちん、と片目を閉じる仕草はどこで教わってきたのかやたら気障だ。何故男相手にそんな真似をするのか知らないが、たぶん癖だろう。
「皇帝陛下の!?」
 状況が自分にとってどれだけまずいのか気付いた卓浩は慌てて逃げ出そうとするも、文官のひょろひょろした体を押さえる事くらい梅には訳なかった。梅に両腕を掴まれ背中に回され取り押さえられると、卓浩は「痛いよう」と情けない声を上げる。
「何でこんな事に……」
「卓浩、お前も分かってるだろ。私たちは刺史としての役目を怠った。罰を受けなくてはならない」
 ほう、と玲馨は内心で馬鹿馬鹿しく感心した。あれだけ玲馨たちから頑なに息子の事を隠そうとしたくせに、この期に及んで腹を括ったのかと。
 玲馨にとって周刺史の印象は最悪の徒だ。不義の子を儲け、刺史でありながら皇帝を裏切り、己の始末をつけずに息子と逃亡を図ろうとしていたのだから。
 それにしてもと思う。皇帝が山芒に向かったという知らせを聞いて来たにしては動きが早すぎる。恐らくは玲馨たちが北へ調査に向かった事で警戒したのだろうが、それ以前に失敗したら卓浩の命が危ういぞと脅されでもしていたのかも知れない。
 玲馨がきっかけで周親子は職をなくす事になる。だがそこに罪悪感が生まれるかと言われれば否だ。悪事は裁かれなくてはならないという正義感などではなく、他人だからである。
 玲馨は他者を徒に傷つけようとは思わないが、玲馨の成した事に他者が巻き込まれても仕方がなかったとしか思わない。
 玲馨には、どうしてもやり遂げたい事があった。その目的が良心などというものに押し流されてはくれないのだ。目的を成すまでは「他人」を必要以上に中にも外にも思わないよう意識している。
 自分と他人。
 自分というものの中に、どこまでを含めるか、玲馨はきっちりと線引きしているのだ。そうやって、玲馨はあらゆる「恐怖」を外へ追い出した。
「玲馨殿は北では岳川の治水をお調べだった。そこから山芒に来られたという事は、こちらで起きた事が北にどう影響したのかを突き止められたのですよね」
「はい。北と東は協力してあわいの浄化のような事をしようとしているのですね?」
「……そうです。それからもう一つ」
「兵力増強」
 言葉を挟んで来たのは梅だった。それを聞いた三人の反応は様々で、卓浩は怯え、周刺史は諦念し、玲馨は驚いた。玲馨は自分も考えたその可能性に、梅も気付いた事に驚いたのだ。
 刺史二人から反論はなく、暗に認めた事になる。
「あわいが消えりゃ領土が広がるんだろ? 戦力とか兵力とかを増やすってなったら土地広げるのは常套だな。手始めに浮民を兵士に仕立てて、そっからどっかに戦を仕掛ける、とかな」
 梅は自分が思い付いた事を言葉にしただけのようだったが、刺史たちは言葉無く顔を青くし汗を浮かべるだけだ。
「こりゃ図星か? つっても、人は確保出来てもそのままじゃ精々肉の盾だ。敵を倒すならある程度剣でも鎧でも着せてやらなきゃ駄目だが、その金はどっから来るよ?」
「貿易だろうな。北玄海の北に広がる海はあわいが発生していない。海路が生きていて、皇帝への貢納こうのうも利益を改竄して減らしている。ですね? 周刺史。それをやっていたのは、というより目溢ししていたのはあなただ」
 これがトドメの一言になった。




 自宅に戻ってみれば従兄弟の糾弾場面に遭遇した卓浩は、あわや自分も罪を曝されるのかと怯えていた。どうせ卓浩も皇帝の目線から見れば似たりよったりの罪状になる。何よりネタも無いし聞きたい事は聞けたので、卓浩の事は放っておいた。
「中で何話してんだろうなー」
 朝が予定外に早かったのが効いているのか梅はだらしなく欠伸をしながらつまらなさそうに言う。
 家の中に刺史たちを残し玲馨と梅は外に出ていた。意外な事に卓浩が周刺史と二人で話す時間を欲しいと申し出たのだ。
「水入らずで話したい事があるんじゃないか」
「あんた、意外と平和な頭してるんだな」
「何だと?」
「悪巧みしてるとは思わねぇんだ」
「……そうだな」
 疲れか、或いは卓浩の生まれに多少なりと同情的にさせられたのか、何故か自然と中では親族の会話がされているのだと思い込んでいた。どうせこの後辛新には彼の上司と山芒の役人を呼んできてもらい、刺史二人は捕らえられる事になるのだから──と考えるのは甘いのだろうか。
 それよりも玲馨が気になるのは梅の正体の方だ。前身と言っても良い。
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「自警団……」
 こぼれるように勝手に出てきた言葉を聞き取って、梅が声に出して笑った。
「遅かったなぁ、気付くの。ていうか、訊かれるもんだと思ってたのに、結局自分で考えて当てちまうのな」
 梅の言葉には何かを揶揄するような響きがある。
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「……それで?」
「玲馨センパイは皇帝陛下の事だけ信用してんだなって話よ」
「当たり前だ。私が皇帝付きの宦官である事を忘れたか?」
「いやぁ? けどもし実は俺が戊陽陛下の異母兄弟で、影武者だって知ったらどうすんのかなって」
「…………」
 そんなまさか。
「ぶわっひゃっひゃっ!!」
「っ……!?」
「馬っ鹿、冗談に決まってんだろ! やっと年相応の可愛いとこ見れたなぁ、おい!」
 玲馨は腰に佩いていた剣を鞘から抜いて、それは見事な所作で構えた。
「まぁまぁまぁまぁ!」
 梅が手を前に足はじりじり後退していくのを、同じくじりじりと追いながら剣を振りかぶった。
「ひえ~」
 梅は剣が迫るとぎゅっと目を閉じ顔を逸らしてみせる。玲馨の剣技などまるで相手にされておらず、興が削がれて玲馨は剣を鞘に戻した。
「禁軍に志願したかったが、出身を理由に追い返されでもしたか」
 梅が何かを言いかけ口を開いたところで「玲馨さーん」とのんびりした声が聞こえてくる。少し離れた所で辛新が手を振っていた。今朝がた玲馨を剣で脅した事はもうすっかり忘れてしまったらしい。
 玲馨の後ろには禁軍の武官と山芒の地方官吏らしき男、そしてやや憔悴したような薬師が続いている。
「あーあ。本当に顔に似合わない性格してるよ、あんた」





 トトッ、と壁の方から軽くて小さな物音がする。多分ねずみだ。ここは薬師の家なのに、患者に使う生薬もあちこちに置いてあるのに、良くないなぁと周子佑は思う。
 昔からどこか抜けた人だった。卓珍ジュオジェンが薬師になったのは家系で、特別秀でたところの無い人だった。優しいところと存外根気のある所が取り柄と言えばそうか。
 一方卓浩の母となる人は可愛い人だった。だけど男にだらしない所のある人で、あの日、周子佑は卓浩の母、そして周子佑にとっては叔母になる人と一晩を共にした。周子佑、十五の出来事であった。
 たった一晩だ。まさに一夜の過ちで卓浩は生まれてしまった。
 あの頃、卓珍たち夫婦は結婚して三ヶ月ほどが過ぎた頃だったが、卓珍はそれはもう可愛い妻を大事にして中々手を出さなかった。もともと色狂いの気があった叔母がそれを我慢出来るはずもなく、周子佑を誘ってきたのは叔母の方からだったのだ。
 おかげで子が出来たと分かった時、叔母は大いに悩む事になった。計算すれば自分の子が不貞の子とすぐにバレてしまう。そこで叔母は強引に卓浩へと迫り、かと思えば腹が膨れる前に実家へ帰って引きこもった。
 彼女が卓珍の前に再び姿を見せたのはなんと卓浩が生まれた半年後で、卓珍には「生まれて三ヶ月です」と堂々と嘘を吐いた。卓珍は一年以上も帰らなかった妻を心配こそしたものの、疑うという事を一切せず再び彼女を迎え入れた。
 それから数年は平和な暮らしが続いていく。
 周子佑はどうしても科挙を受けたいのだと両親に拝み倒して一人紫沈に移り、義塾を開いている貴族のうち庶民も引き受けている所へ働きながら通って科挙を受ける準備を進めていた。
 五年が経った頃である。周子佑の元へ叔母の訃報が届いた。病気だったという話もなく突然の事だったので怪訝に思って山芒へ戻ると、自殺だったのだと両親から聞かされた。
 葬儀は既に終えていたので周子佑は線香を上げに卓珍を訪ねて、そこで叔母の自殺の原因を悟った。
 卓珍に手を引かれる齢五つの息子は、あまりにも周子佑にそっくりだったのだ。
 不義の子であるという噂は前々から流れてはいたのだという。これは周子佑が友人から聞いた話である。
 卓浩の顔立ちが母よりも伯母、つまり周子佑の母に似ているとは専らの噂だったが、五年ぶりに戻った周子佑を見て近所の人間は叔母の不義を確信する。叔母が自殺を図ったのがその噂により真実みを持たせてしまう事となったのだ。息子が妻の姉に似ていても、もともとの人柄もあって卓珍が不貞を疑われる事は一度もなかった。
 気の毒なのは卓珍だ。彼に落ち度は一切なく、卓珍の優しさと慎重さを叔母が慮れていれば卓浩は生まれてこなかった。
 今なお卓珍は疑いを周子佑に投げかける事もなく、我が子を大事にしている。それに救われると同時に、周子佑はずっと罪悪感に苛まれ続けてきた。
「子佑兄さん」
 三十代も半ばに差し掛かった卓浩は成長と共に母の面影が見えるようになった。今でも周子佑によく似ているが、子供の頃ほどではなくなっている。
「少し、聞こえてしまったんだけどね」
 周子佑は俯けていた顔を持ち上げる。そこには何かを悟ったように妙に落ち着いた顔をした卓浩の顔があった。
「僕は子佑兄さんの息子なんだね?」
「卓浩……それは、違う」
 こんな話を皇帝付きの宦官が知っているなんて誰が予想出来ただろう。分かっていたならこの家には死んでも上げなかった。罪を追求されるのは自分ばかりだと思っていたのだ。
「あのね兄さん、僕も父さんもうすうすそうじゃないかってとっくに気付いてたんだ。噂されてるのも知ってたよ」
 太い眉毛と細い目は周子佑にそっくりで、丸みのある頬と厚い唇は叔母に似ている。
 ああ、紛れもなく自分たちの子供だと、そう思ってしまった。卓珍にはどこにも似ていない。
 周子佑は痛むようにして額に手をやった。卓浩が何かを察して周子佑の背中を擦る。
「兄さんは罪悪感からだったのかも知れないけど、僕が科挙に受かったのは兄さんのおかげだよ。ずっとどうして兄さんが結婚しないのか不思議だったけど、出来なかったんだね」
「……違う」
「これは父さんから聞いて知ったけど、兄さんは僕のために金を工面するので精一杯だったんだ」
「俺は……っ」
 結局、周子佑のせいでこれまでの卓浩の努力は水の泡になるのだ。
 周子佑が居なければ生まれてこず、周子佑が居なければごく一般的な官吏の道を歩めていたはずで。卓浩の人生は向青倫が歪めたのではない。全ては周子佑とそして叔母の過ちが元凶なのだ。
 それを本人に庇われて、これほど惨めで情けない事はない。
「僕が刺史になったのは、僕の実力だよ。子佑兄さんならまさか僕が不正したとか、そんな酷い事は言わないだろう? 一緒に罰を受けよう。ずっと逃げていたけど、僕は僕の責任で犯してしまったものを、償わなくてはいけないんだ」
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