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山芒編
7小猿
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玲馨が掃除を終えて宿舎に戻ってくると、他より頭一つ分小さい姿が玲馨を見つけ、そのくりくりとした丸い目をいっそう見開き丸くさせた。
「玲馨! ねぇ玲馨、皇子様とはどこで出会ったの?」
咄嗟に逃げ出そうとしたが動き出しが遅く呆気なく捕まってしまう。
彼の名は猿猿。目がぎょろっと大きいからといういい加減な理由でつけられたために本人はとても嫌っている。
「いや、えっと、偶然……?」
「うん、だから、どこ?」
「……」
猿猿は背が低いので近くに寄ってこられると見下ろす形になる。一方猿猿は上目遣いで玲馨を見つめ「お願い」の表情。こうすると周りの人間たちはいくらか彼に融通を利かせてくれるのだろう。
少女のような面立ちをした猿猿は、大人を相手にするのが上手だった。玲馨は大人の男が怖いから嫌なことでも全部言う事を聞いてしまうが、猿猿は嫌なものは嫌だとはっきり言ってしまう。
それから猿猿は物事を良く知っていた。気になる事をそのままにしておけない性質のようで、すぐ誰かに訊ねるのだ。
「自宮のために浄身する」というのが具体的にどうする事なのかを玲馨が知れたのは、猿猿のおかげと言っても良いだろう。
「浄身って何? ちんちん切っちゃうこと?」忘れもしないあのあけすけな猿猿の言葉と、大人たちの気まずそうな表情。中には何かを思い出して顔を真っ青にする者も居る始末だった。
そんな遠慮のない猿猿の今最も興味のある事柄は、ずばり玲馨の恋の行方である。
「あー分かった! 二人だけの秘密、でしょ!」
「ち、違う」
「えー?」
恋というものが何かは玲馨も知っている。玲馨の母は恋多き人だった。常に違う男に「好きよ」「愛してる」と囁いていた。だから玲馨は恋愛の事を生きていくための手段だと思っている。母は男がなくては生きていけない人だった。自分の恋人が息子を犯しているとも知らずに愛を囁く様は滑稽でもあった。
「猿猿」
「小猿」
「し、小猿、今日は沐浴の日だから準備しないと」
むう、と唇を尖らせて拗ねるが、今年は水不足のせいで沐浴は出来る時にしておかないと次がいつになるか分からない。猿猿は特に綺麗好きなので沐浴の日は絶対に逃したくないはずだ。それを知っていて逃げの口実に使ったのだが上手くいったらしい。「また後で」と手を振って猿猿は去っていった。
また後で、何を訊かれる事になるのだろうか。
沐浴の後は夕食の支度を手伝って、大部屋で食事を取る。その後はもう休むだけなのだが、やはり猿猿は「後で」を忘れておらず、布団を敷きながら近付いてくる。わざわざ玲馨の隣を代わってもらったらしい。
「玲馨も読んだでしょ? 後宮で働く宮女と皇子の恋愛物語! あんな風に僕も見初められたいってなるでしょ!」
そうなのだ。猿猿は現在恋愛小説に絶賛大ハマリ中で、玲馨が第二皇子と知り合いだと知るやいなや質問責めの毎日なのだ。
あの日戊陽に助けてもらった事への感謝はあるが、宦官の宿舎までやってきて大声で玲馨を呼んだ事は少しだけ恨みたい。その出来事のおかげで玲馨は戊陽の寵愛を受けているのだと専らの噂になってしまった。
「ね、ね、どう? 皇子様ってどんな人?」
何をどう訊かれても玲馨は答えてやるつもりはなかった。何をどう答えても、戊陽に対して失礼になるような気がしたからだ。
「もぉー。玲馨は優しくない」
「もういいでしょ。寝ようよ猿猿」
「小猿」
「小猿、おやすみ」
布団を頭までかぶって玲馨が黙ってしまうと猿猿もそれに倣ったが、結局黙っていたのはほんのいっときだった。
「あのね、聞いて玲馨。僕のお母さんね、妓女だったの。顔は僕そっくりで可愛い可愛いって評判だったって」
その話は知っている。年長の宦官が猿猿の噂をしていたのを聞いた事があった。
猿猿はその容姿から性格まで派手なおかげで何かとやっかまれやすい。加えて甘え上手が裏目に出る事もあり、先輩宦官が甘やかすせいで歳が近い者や同輩からは睨まれる事もあった。
彼は影で楊猿と呼ばれている。妖怪の名が由来だ。
玃猿という名の猿の妖怪の伝説があるが、玃猿は人の女を攫って子を産ませるという。猿の子は楊という姓を名乗るそうで、つまり猿猿の事を妖怪と女の間の子であると馬鹿にしているつもりなのだろう。「妓女なら妖怪にも股を開くんじゃないか」と言った宦官の嫌な笑い声がまだ耳に残っている。
この話が皮肉なのは、玃猿の伝説が記された本を宦官の宿舎に与えてくれたのが、今まさに猿猿が夢中になっている皇子の戊陽だという事だ。
玃猿の伝説は永参の部屋で見かけたあの変わった形の書物と似た形をした「綴じ本」と呼ばれる物に記されていた。
「でもあんまり頭が良くなかった。歌も踊りも下手くそだったから僕を産んだの」
玲馨は布団から顔を出す。猿猿がどんな顔をして喋っているのか気になった。
仰向けに寝転がる猿猿の視線の先には天井しかないが、どこか別の所を見ているような目をしている。暗くてあまり分からないはずなのに、猿猿の目は光って見えた。
「寂しかったんだって。歳を取って客に愛想つかされて。だけどお客さんがつかなくなったのに僕を産んじゃったからお金がなくなった。年季はもう明けてたけど老けて可愛くなくなったしコブ付きだしで誰も貰ってくれなくて、妓楼の奥で雑用みたいな事してたけど器用じゃないから失敗ばっかり」
猿猿の目からぽろ、と涙が溢れた。光って見えたのは涙だった。
「僕、お母さんみたいになりたくなかった。自分で宦官になるって言って城まで連れて来てもらったの。でも結局僕はお母さんをずっと見てきたからお母さんみたいにするしか分かんないの」
ねぇ、と玲馨に呼び掛ける声は震えていた。その震えに自分で動揺したように猿猿は布団を引き上げ顔を隠してしまう。
「僕、お母さんみたいになってるのかなぁ?」
*
お願いだから静かに会いに来てほしいと頼み込んだので、戊陽は宦官の宿舎に来ると入り口で誰か適当に捕まえて玲馨を呼んでもらうようになった。そのまま宿舎で話していると好奇心旺盛な子供たちがわらわら寄ってきて仕事をしないので、二人はよく後宮と後宮を囲う城郭の狭い隙間でこっそり話をした。
「俺が持っていった本は子供たちにも評判だろう?」
「はい」
「やっぱりな!」
戊陽は得意げに笑って一冊の本を取り出し玲馨に渡す。戊陽はそうやって色々な本を玲馨に与え、写本をして宦官の宿舎に置くようにさせた。
本とは綴じ本の事で巻子とも折り本とも違う変わった開き方をする書物だ。数年ほど前に舶来の品として宮廷に伝わり興味を持った蔵書楼の人間が見様見真似で本を再現した。最初に沈国へやってきた本の綴じ方を特に胡蝶装と呼ぶ。蝶が羽根を広げる姿に似ているからだそうだ。
初めのうちは説法や思想を記した本が作られたが、本は便利で巻子に比べて嵩張りにくい事からたちまち流行になって、古い民間伝承や自伝などを書いた本が現れた。小難しい本には目もくれなかった宦官や宮女たちは、しかしこれがお伽噺になると手の平を返すように皆して本を欲しがるようになった。
戊陽はどんな本なら子供が好むかというのを見極めるのが得意なようで、戊陽の持たせてくれた本は同世代の子供たちによく読まれた。曰く「二つ下の弟が気にいる物を持ってくると当たる」のだそう。戊陽の二つ下なので第四皇子の事だ。
「玲馨はどうだった?」
「私は……私は教本の方が……」
「はぁー。お前は本当に勉強が好きなんだな」
「はい」
今日渡してくれた物はどんな内容かとパラパラ頁を捲ってみる。何かの伝記物のようで時代も古そうだ。
「なぁ玲馨」
「はい」
「俺と二人の時は普通に話せ」
「はい?」
じ、と瞳を覗き込むような視線。暫く会ううちに気付いた戊陽の癖みたいなものだ。
──金色だ……。
太陽の日差しくらい明るい光が差し込むと戊陽の虹彩はキラキラと金に瞬く。不思議な事に少しでも空が翳ると普通の焦げ茶色に見えた。
「普通にとは」
「同じ歳くらいの子供にもそうして話すのか?」
「いえ」
「それ」
「う、ち、違う、よ?」
にぱぁ、と戊陽の唇が横に伸びて心底嬉しそうに笑う。
「賢妃宮付きの宦官はすごく……すっごく無口なんだ!」
「はい」
「……」
「へ、へぇ~」
「話し相手にもならない。勉強を見てくれるでもない。黙って傍に控えているだけでは退屈だろうと聞いても『いいえ』とそういう生き物のようにして答える」
あれは人形か何かなのだ。
と珍しくもない戊陽の愚痴に出てくる宦官には覚えがある。実を言うと今も戊陽に付いてきているので彼に言われるがまま少し離れた所に立っている。宦官の立っている位置だと後宮側の囲いが無いので丸見えだろう。しかし兵士たちも慣れたもので、戊陽があの無口な宦官を見張りに立たせここに潜り込んでいても捕まえに来ようとはしない。
不貞腐れる戊陽の声は小さく潜めているので辛うじて聞こえてはいないだろうが、玲馨はそわそわと戊陽越しに宦官をうかがう。
「玲馨はああはなってはいけないぞ」
と言われた所でなれるものではない。彼は第二皇子に仕える宦官で、宦官の中でも生え抜きである。高官という呼び方は正しくないだろうが、宦官の中だけで見れば皇帝付きそして皇太子付きに次ぐ出世株なのだ。
浄身を終えても大抵は後宮内の掃除や煮炊きに力仕事が主な仕事になる。宮女たちは貴族の子女なので彼女たちの方が身分がずっと高く、彼女たちが仕事を押し付けてくる事もあるそうな。そんな宮女たちと、あの宦官は対等以上に話す事の出来る立場で、宦官の中でほんの一握りの人間だけがそうなれる。
猿猿などは「きっと今が一番幸せなの」などと言っていた。幸せは分からないが、浄身したからといって別に偉くなる訳ではないのである。
「私は、とてもあんな風には……」
「そうだぞ。お前は俺と毎日話せよ」
「毎日? はい、う、うん」
「勉強も一緒にするんだ」
ん?
「後は剣術だな。何が起こるか分からないから宦官でも剣は扱えた方が得だ。李孟義は恐ろしいからもっと優しい奴に習おう」
「え、えっと……?」
つらつらと出てくる戊陽の構想は何かがおかしい。彼の言い分だと玲馨は毎日彼の傍にあって、まるで皇子付きの宦官のようだ。
「玲馨、お前はいつになったら後宮に来られる?」
いつか、と言われると永参が強引に玲馨の順番をねじ込んだので一ヶ月以内に執刀の順が回ってくるはずだ。それから回復に三ヶ月くらいかかる事を踏まえると。
「四ヶ月とか……? それくらい経てば後宮に入ってもよくなるよ」
「分かった。四ヶ月後から教え子を一人増やして欲しいと燕太傅に頼んでおこう」
いえんたいふ。燕太傅。
頭の中で音が言葉になって、玲馨は思い切り目を見開いた。
「燕太傅って、あの!?」
宿舎にある書物のうち、燕太傅の太鼓判が押された書物はいつだって貸し出し中で全く順番が回ってこないほどに、彼の人の名は学問においてとても権威がある。
太傅とは沈では皇子の教師の事をそう呼ぶ。称号のようなもので官位ではないが、どんな高官でも燕太傅には頭が下がるのだという。
「太傅と呼ばれているのは今は燕老師しかいないはずだな」
「私が、教え子に? 待って下さい殿下! 話が……話が見えません!」
咄嗟に言葉遣いが戻ってしまうと戊陽はムッと顰めっ面になってしまう。
「殿下!」
「……玲馨を俺の宦官にしたい」
「え……っ」
願ってもないこと? 夢にも見なかった?
何と言って答えるのが適切か分からなくて、玲馨の頭の中は真っ白になってしまう。
「学ぶのがそれだけ好きなら、燕老師に師事するのは学徒の誉れだろうと」
「殿下!」
あの日、辱められ、水をかけられ、ぐちゃぐちゃになっていた玲馨を嫌な顔一つせず助けてくれた戊陽は、玲馨の手を取って何か温かなものを玲馨に与えてくれた。あの時の彼を真似たとて同じ事が出来ないのは玲馨にも分かっているが、どうしてか今は戊陽の手を取りたいと思ったのだ。
二人とも背丈は変わらないのに、玲馨の手の中にある戊陽の手は思ったよりも大きい。
「私は燕太傅に学べるなら、それはとても、有り難い事です」
「う、うん」
「それから私はあなたにお仕え出来る事が嬉しい」
戊陽の頬が僅かに紅潮する。それから綻ぶようにして笑って「待っている」と手を握り返してくれた。
怖いものがたくさんある玲馨はもちろん浄身も怖いものの一つだった。何をどうしてどうなるのか、想像もしたくないほどに恐ろしい。
「嫌だなぁ、ちんちんなくなるの」
一方猿猿の口調はまるで勉強を嫌う子供のそれだ。どこにも深刻さがなくて、玲馨にはとても信じられない。
「明日だよね小猿たちが連れてかれるの」
「ねぇ連れてかれるって言い方嫌だ。本当に怖くなってくるじゃん」
「ごめん」
「僕、自分で宦官になりに来たんだよ」
「うん」
宮廷内にはもちろん医療を司る部署があるが、宦官の浄身は医者とは別に専門の執刀医がおり彼らの手によって行われる。また病室も別になっていて、そこで浄身後の一ヶ月は傷の具合を診つつ看病をしてもらえる。が、執刀して二ヶ月目に入ると次の宦官のために病室を空けなければならず、自力で動けるようになるまでは宿舎の二人部屋か四人部屋に移され、看病も宦官の手によって行われていた。
玲馨の浄身は一ヶ月後なので、猿猿とはちょうど入れ替わりだ。
「勉強なんてお金のかかる事させてもらえなかったから、宦官になるしかないでしょ? 痛いの我慢すれば宮廷で働けるんだよ!」
「うん」
「ねぇ僕って可愛いじゃない」
「そうだね。女の子みたいな顔してる」
「誰かに見初めてもらえるかなぁ?」
くりっと丸い目に低い鼻。頬も丸くて少し白粉をはたいてそれらしい格好をすれば少女に間違えられるだろう。猿猿を可愛いと言う宦官は多い。妙な気を起こしている奴が居る事も知っている。
「さぁ、分からない」
「もう! 玲馨優しくない!」
猿猿はよく玲馨を優しくないと言うが、優しさとは何だろうと思う。ここで将来の事など分からないのに「良い人と出会えるよ」と言ってあげれば、それは優しいという事になるのだろうか。だとしたらこんなに簡単な優しさはないと思う。言葉ひとつで優しくして喜ばれるのなら、その方が良いのかもしれない。
「僕はお母さんみたいになりたくないから、きっと上手くやる」
「じゃあ勉強頑張らないと」
「うう……頑張る」
「うん」
「そうしないと玲馨と同じ所では働けないもの」
「何で?」
「玲馨は頭がいいからきっといい仕事を与えてもらえるもん。後宮の誰か皇子様にお仕えだって出来ちゃうかもしれない」
どきり、とした。疚しいような、後ろめたいような、とても戊陽との事を猿猿には言えないという気がしてしまう。
「だって皇子様は五人も……ねぇ玲馨待って。もしかして、第二皇子様にもう誘われちゃった?」
「あ、う……いや」
じぃ、と小動物を彷彿とさせる目が玲馨に嘘は許さないと下から見つめてくる。
「そっかぁ。そっか。良かったね玲馨。玲馨はね、あの皇子様は大切にしなきゃダメなんだよ」
「うん、するよ」
「だって相手は皇子様だもん、じゃないよ?」
「違うの?」
「違う。お母さんがね、女の人は恋をすると変わるって言ってた。玲馨はあの皇子様と話すようになってから変わったもの」
って僕は前の玲馨を知らないから別の子が言ってたんだけど、と猿猿。
「女じゃないんだけど」
「いいの、男とか女とか関係ないよ。どうせちんちんなくなっちゃうし」
「はぁ……」
結局話はそこに落ち着くのかと、何となく肩が下がる。
猿猿は本にあった宮女と皇子のような恋愛をしたくてたまらないのだ。だけど宦官は宮女にはなれない。宮女は下級だろうと貴族の娘で何より女だから皇子に見初めてもらえば正妻にだってなれる。事実そうして上り詰めた宮女は居ない訳ではない。
でも宦官では駄目なのだ。宦官は所詮は愛妾として、飽きれば捨て置かれるもの。
だから玲馨はどうしても猿猿に夢は叶うと言ってあげられなかった。
翌朝早くに何人かの子供が呼ばれて宿舎を出ていった。その中には猿猿の姿もあって、別れる前に少しだけ猿猿と話が出来た。
「玲馨の優しくない所、僕好きだよ。玲馨って感じがして」
「……小猿はお母さんの事、嫌いだった?」
どうしてそんな事を聞いてしまったのか、後になっても明確な答えは出てこない。ただ、いつもいつも自身と母を比較しては母のようになりたくないと言っていた猿猿は、寧ろ母の事を忘れないように繰り返し母の話をしていたように見えたのだ。
猿猿は玲馨に問われて、どうしてか泣き出してしまった。
「嫌いじゃなかった」
猿猿は訥々と語る。
猿猿の母はよく猿猿に「ごめんね」と言っていた。お金がなくて、父がなくて、母が愚鈍でごめんね。
妓女として美しかった頃の面影もない、痩せて皺が深くなった顔に疲れ切った笑顔を浮かべ、あかぎれだらけの固い手の平で猿猿の頬を削った。
男に見向きもされず妓楼から出ていく金もなくて端っこで小さく丸まって暮らす生活は、母の心身を日々疲弊させていった。
猿猿が宦官になるため妓楼を出ていくと言った時、母はやはり「ごめんね」と言って泣いていた。猿猿が最後に見た母の表情は泣き顔だった。
猿猿は十歳で宿舎に入ったので母には身売りの金が入った。母は浪費する人ではないだろうから一年は働かなくても暮らせるかも知れない。でもその後は? また実入りの悪い仕事に身を窶す生活に戻るだけ。母が寂しさを埋めるために産み落としたものは、たったそれだけの価値しかなかった。
「お母さんと一緒に居てあげた方が良かったのかなぁ」
玲馨はやっぱり何と答えて良いのか分からなかった。
玲馨は母に対してすぐにでも死んでほしいと願ったのが最後だった。今はもう思い出す事もほとんどないし、酒と薬に溺れていたので玲馨の願いは早晩叶うだろう。
そんなだから、きっと母が恋しくて泣く猿猿の気持ちに同調してあげられない。母に愛され育った息子の気持ちは、玲馨には察してあげられないものだった。
「ふふ、やっぱり玲馨は玲馨だね」
黙ったままでいる玲馨を「優しくない」と思ったのだろう。だけどいつもとは違って猿猿は可笑しそうに笑っていた。始めから何かを言ってもらえるとは期待していなかったようだ。
玲馨は目元を拭う猿猿の手を取って、戊陽にそうしてもらったように両手で握りしめた。
思えば永参は、玲馨を殴ったりする男たちよりは優しかった。勉強を見ると言った言葉も嘘ではなく、夜伽の対価に教えてもらう事もあった。
人は行為に対価を求めるのは自然な事だと玲馨は思う。玲馨は男たちに体を売って金を得ていた。
しかし、戊陽や猿猿は玲馨に何かを求めはしなかった。
戊陽は黙って傷を治し、力になると言ってくれた。
猿猿は優しくない玲馨を好きだと言ってくれた。
人はきっと、必ずしも対価を求めなくともよいのだと、二人は教えてくれていた。
だけどそれは、何故なのだろう。全ての人に対して、対価なくして接していく事は難しい。
二人と、その他大勢とは、一体何が違うのだろう。
「猿猿」
「小猿」
「小猿、お互い浄身を終えてちゃんと宦官になったら、また一緒に働こう」
「……嘘吐きだ、玲馨」
「えっ? あ、違う、そうじゃなくて」
「ううん。頑張るから僕も。勉強教えてね、玲馨」
「うん、約束」
「拉勾勾だ」
「うん拉勾勾」
猿猿の小さく細い小指に小指を絡めて約束をした。生まれて初めての約束。
それから猿猿たちを見送って、仕事をして。一ヶ月などあっという間に過ぎて、猿猿が戻ってくるのを待たずにいよいよ玲馨も自分の順番が巡ってくる。
「玲馨! ねぇ玲馨、皇子様とはどこで出会ったの?」
咄嗟に逃げ出そうとしたが動き出しが遅く呆気なく捕まってしまう。
彼の名は猿猿。目がぎょろっと大きいからといういい加減な理由でつけられたために本人はとても嫌っている。
「いや、えっと、偶然……?」
「うん、だから、どこ?」
「……」
猿猿は背が低いので近くに寄ってこられると見下ろす形になる。一方猿猿は上目遣いで玲馨を見つめ「お願い」の表情。こうすると周りの人間たちはいくらか彼に融通を利かせてくれるのだろう。
少女のような面立ちをした猿猿は、大人を相手にするのが上手だった。玲馨は大人の男が怖いから嫌なことでも全部言う事を聞いてしまうが、猿猿は嫌なものは嫌だとはっきり言ってしまう。
それから猿猿は物事を良く知っていた。気になる事をそのままにしておけない性質のようで、すぐ誰かに訊ねるのだ。
「自宮のために浄身する」というのが具体的にどうする事なのかを玲馨が知れたのは、猿猿のおかげと言っても良いだろう。
「浄身って何? ちんちん切っちゃうこと?」忘れもしないあのあけすけな猿猿の言葉と、大人たちの気まずそうな表情。中には何かを思い出して顔を真っ青にする者も居る始末だった。
そんな遠慮のない猿猿の今最も興味のある事柄は、ずばり玲馨の恋の行方である。
「あー分かった! 二人だけの秘密、でしょ!」
「ち、違う」
「えー?」
恋というものが何かは玲馨も知っている。玲馨の母は恋多き人だった。常に違う男に「好きよ」「愛してる」と囁いていた。だから玲馨は恋愛の事を生きていくための手段だと思っている。母は男がなくては生きていけない人だった。自分の恋人が息子を犯しているとも知らずに愛を囁く様は滑稽でもあった。
「猿猿」
「小猿」
「し、小猿、今日は沐浴の日だから準備しないと」
むう、と唇を尖らせて拗ねるが、今年は水不足のせいで沐浴は出来る時にしておかないと次がいつになるか分からない。猿猿は特に綺麗好きなので沐浴の日は絶対に逃したくないはずだ。それを知っていて逃げの口実に使ったのだが上手くいったらしい。「また後で」と手を振って猿猿は去っていった。
また後で、何を訊かれる事になるのだろうか。
沐浴の後は夕食の支度を手伝って、大部屋で食事を取る。その後はもう休むだけなのだが、やはり猿猿は「後で」を忘れておらず、布団を敷きながら近付いてくる。わざわざ玲馨の隣を代わってもらったらしい。
「玲馨も読んだでしょ? 後宮で働く宮女と皇子の恋愛物語! あんな風に僕も見初められたいってなるでしょ!」
そうなのだ。猿猿は現在恋愛小説に絶賛大ハマリ中で、玲馨が第二皇子と知り合いだと知るやいなや質問責めの毎日なのだ。
あの日戊陽に助けてもらった事への感謝はあるが、宦官の宿舎までやってきて大声で玲馨を呼んだ事は少しだけ恨みたい。その出来事のおかげで玲馨は戊陽の寵愛を受けているのだと専らの噂になってしまった。
「ね、ね、どう? 皇子様ってどんな人?」
何をどう訊かれても玲馨は答えてやるつもりはなかった。何をどう答えても、戊陽に対して失礼になるような気がしたからだ。
「もぉー。玲馨は優しくない」
「もういいでしょ。寝ようよ猿猿」
「小猿」
「小猿、おやすみ」
布団を頭までかぶって玲馨が黙ってしまうと猿猿もそれに倣ったが、結局黙っていたのはほんのいっときだった。
「あのね、聞いて玲馨。僕のお母さんね、妓女だったの。顔は僕そっくりで可愛い可愛いって評判だったって」
その話は知っている。年長の宦官が猿猿の噂をしていたのを聞いた事があった。
猿猿はその容姿から性格まで派手なおかげで何かとやっかまれやすい。加えて甘え上手が裏目に出る事もあり、先輩宦官が甘やかすせいで歳が近い者や同輩からは睨まれる事もあった。
彼は影で楊猿と呼ばれている。妖怪の名が由来だ。
玃猿という名の猿の妖怪の伝説があるが、玃猿は人の女を攫って子を産ませるという。猿の子は楊という姓を名乗るそうで、つまり猿猿の事を妖怪と女の間の子であると馬鹿にしているつもりなのだろう。「妓女なら妖怪にも股を開くんじゃないか」と言った宦官の嫌な笑い声がまだ耳に残っている。
この話が皮肉なのは、玃猿の伝説が記された本を宦官の宿舎に与えてくれたのが、今まさに猿猿が夢中になっている皇子の戊陽だという事だ。
玃猿の伝説は永参の部屋で見かけたあの変わった形の書物と似た形をした「綴じ本」と呼ばれる物に記されていた。
「でもあんまり頭が良くなかった。歌も踊りも下手くそだったから僕を産んだの」
玲馨は布団から顔を出す。猿猿がどんな顔をして喋っているのか気になった。
仰向けに寝転がる猿猿の視線の先には天井しかないが、どこか別の所を見ているような目をしている。暗くてあまり分からないはずなのに、猿猿の目は光って見えた。
「寂しかったんだって。歳を取って客に愛想つかされて。だけどお客さんがつかなくなったのに僕を産んじゃったからお金がなくなった。年季はもう明けてたけど老けて可愛くなくなったしコブ付きだしで誰も貰ってくれなくて、妓楼の奥で雑用みたいな事してたけど器用じゃないから失敗ばっかり」
猿猿の目からぽろ、と涙が溢れた。光って見えたのは涙だった。
「僕、お母さんみたいになりたくなかった。自分で宦官になるって言って城まで連れて来てもらったの。でも結局僕はお母さんをずっと見てきたからお母さんみたいにするしか分かんないの」
ねぇ、と玲馨に呼び掛ける声は震えていた。その震えに自分で動揺したように猿猿は布団を引き上げ顔を隠してしまう。
「僕、お母さんみたいになってるのかなぁ?」
*
お願いだから静かに会いに来てほしいと頼み込んだので、戊陽は宦官の宿舎に来ると入り口で誰か適当に捕まえて玲馨を呼んでもらうようになった。そのまま宿舎で話していると好奇心旺盛な子供たちがわらわら寄ってきて仕事をしないので、二人はよく後宮と後宮を囲う城郭の狭い隙間でこっそり話をした。
「俺が持っていった本は子供たちにも評判だろう?」
「はい」
「やっぱりな!」
戊陽は得意げに笑って一冊の本を取り出し玲馨に渡す。戊陽はそうやって色々な本を玲馨に与え、写本をして宦官の宿舎に置くようにさせた。
本とは綴じ本の事で巻子とも折り本とも違う変わった開き方をする書物だ。数年ほど前に舶来の品として宮廷に伝わり興味を持った蔵書楼の人間が見様見真似で本を再現した。最初に沈国へやってきた本の綴じ方を特に胡蝶装と呼ぶ。蝶が羽根を広げる姿に似ているからだそうだ。
初めのうちは説法や思想を記した本が作られたが、本は便利で巻子に比べて嵩張りにくい事からたちまち流行になって、古い民間伝承や自伝などを書いた本が現れた。小難しい本には目もくれなかった宦官や宮女たちは、しかしこれがお伽噺になると手の平を返すように皆して本を欲しがるようになった。
戊陽はどんな本なら子供が好むかというのを見極めるのが得意なようで、戊陽の持たせてくれた本は同世代の子供たちによく読まれた。曰く「二つ下の弟が気にいる物を持ってくると当たる」のだそう。戊陽の二つ下なので第四皇子の事だ。
「玲馨はどうだった?」
「私は……私は教本の方が……」
「はぁー。お前は本当に勉強が好きなんだな」
「はい」
今日渡してくれた物はどんな内容かとパラパラ頁を捲ってみる。何かの伝記物のようで時代も古そうだ。
「なぁ玲馨」
「はい」
「俺と二人の時は普通に話せ」
「はい?」
じ、と瞳を覗き込むような視線。暫く会ううちに気付いた戊陽の癖みたいなものだ。
──金色だ……。
太陽の日差しくらい明るい光が差し込むと戊陽の虹彩はキラキラと金に瞬く。不思議な事に少しでも空が翳ると普通の焦げ茶色に見えた。
「普通にとは」
「同じ歳くらいの子供にもそうして話すのか?」
「いえ」
「それ」
「う、ち、違う、よ?」
にぱぁ、と戊陽の唇が横に伸びて心底嬉しそうに笑う。
「賢妃宮付きの宦官はすごく……すっごく無口なんだ!」
「はい」
「……」
「へ、へぇ~」
「話し相手にもならない。勉強を見てくれるでもない。黙って傍に控えているだけでは退屈だろうと聞いても『いいえ』とそういう生き物のようにして答える」
あれは人形か何かなのだ。
と珍しくもない戊陽の愚痴に出てくる宦官には覚えがある。実を言うと今も戊陽に付いてきているので彼に言われるがまま少し離れた所に立っている。宦官の立っている位置だと後宮側の囲いが無いので丸見えだろう。しかし兵士たちも慣れたもので、戊陽があの無口な宦官を見張りに立たせここに潜り込んでいても捕まえに来ようとはしない。
不貞腐れる戊陽の声は小さく潜めているので辛うじて聞こえてはいないだろうが、玲馨はそわそわと戊陽越しに宦官をうかがう。
「玲馨はああはなってはいけないぞ」
と言われた所でなれるものではない。彼は第二皇子に仕える宦官で、宦官の中でも生え抜きである。高官という呼び方は正しくないだろうが、宦官の中だけで見れば皇帝付きそして皇太子付きに次ぐ出世株なのだ。
浄身を終えても大抵は後宮内の掃除や煮炊きに力仕事が主な仕事になる。宮女たちは貴族の子女なので彼女たちの方が身分がずっと高く、彼女たちが仕事を押し付けてくる事もあるそうな。そんな宮女たちと、あの宦官は対等以上に話す事の出来る立場で、宦官の中でほんの一握りの人間だけがそうなれる。
猿猿などは「きっと今が一番幸せなの」などと言っていた。幸せは分からないが、浄身したからといって別に偉くなる訳ではないのである。
「私は、とてもあんな風には……」
「そうだぞ。お前は俺と毎日話せよ」
「毎日? はい、う、うん」
「勉強も一緒にするんだ」
ん?
「後は剣術だな。何が起こるか分からないから宦官でも剣は扱えた方が得だ。李孟義は恐ろしいからもっと優しい奴に習おう」
「え、えっと……?」
つらつらと出てくる戊陽の構想は何かがおかしい。彼の言い分だと玲馨は毎日彼の傍にあって、まるで皇子付きの宦官のようだ。
「玲馨、お前はいつになったら後宮に来られる?」
いつか、と言われると永参が強引に玲馨の順番をねじ込んだので一ヶ月以内に執刀の順が回ってくるはずだ。それから回復に三ヶ月くらいかかる事を踏まえると。
「四ヶ月とか……? それくらい経てば後宮に入ってもよくなるよ」
「分かった。四ヶ月後から教え子を一人増やして欲しいと燕太傅に頼んでおこう」
いえんたいふ。燕太傅。
頭の中で音が言葉になって、玲馨は思い切り目を見開いた。
「燕太傅って、あの!?」
宿舎にある書物のうち、燕太傅の太鼓判が押された書物はいつだって貸し出し中で全く順番が回ってこないほどに、彼の人の名は学問においてとても権威がある。
太傅とは沈では皇子の教師の事をそう呼ぶ。称号のようなもので官位ではないが、どんな高官でも燕太傅には頭が下がるのだという。
「太傅と呼ばれているのは今は燕老師しかいないはずだな」
「私が、教え子に? 待って下さい殿下! 話が……話が見えません!」
咄嗟に言葉遣いが戻ってしまうと戊陽はムッと顰めっ面になってしまう。
「殿下!」
「……玲馨を俺の宦官にしたい」
「え……っ」
願ってもないこと? 夢にも見なかった?
何と言って答えるのが適切か分からなくて、玲馨の頭の中は真っ白になってしまう。
「学ぶのがそれだけ好きなら、燕老師に師事するのは学徒の誉れだろうと」
「殿下!」
あの日、辱められ、水をかけられ、ぐちゃぐちゃになっていた玲馨を嫌な顔一つせず助けてくれた戊陽は、玲馨の手を取って何か温かなものを玲馨に与えてくれた。あの時の彼を真似たとて同じ事が出来ないのは玲馨にも分かっているが、どうしてか今は戊陽の手を取りたいと思ったのだ。
二人とも背丈は変わらないのに、玲馨の手の中にある戊陽の手は思ったよりも大きい。
「私は燕太傅に学べるなら、それはとても、有り難い事です」
「う、うん」
「それから私はあなたにお仕え出来る事が嬉しい」
戊陽の頬が僅かに紅潮する。それから綻ぶようにして笑って「待っている」と手を握り返してくれた。
怖いものがたくさんある玲馨はもちろん浄身も怖いものの一つだった。何をどうしてどうなるのか、想像もしたくないほどに恐ろしい。
「嫌だなぁ、ちんちんなくなるの」
一方猿猿の口調はまるで勉強を嫌う子供のそれだ。どこにも深刻さがなくて、玲馨にはとても信じられない。
「明日だよね小猿たちが連れてかれるの」
「ねぇ連れてかれるって言い方嫌だ。本当に怖くなってくるじゃん」
「ごめん」
「僕、自分で宦官になりに来たんだよ」
「うん」
宮廷内にはもちろん医療を司る部署があるが、宦官の浄身は医者とは別に専門の執刀医がおり彼らの手によって行われる。また病室も別になっていて、そこで浄身後の一ヶ月は傷の具合を診つつ看病をしてもらえる。が、執刀して二ヶ月目に入ると次の宦官のために病室を空けなければならず、自力で動けるようになるまでは宿舎の二人部屋か四人部屋に移され、看病も宦官の手によって行われていた。
玲馨の浄身は一ヶ月後なので、猿猿とはちょうど入れ替わりだ。
「勉強なんてお金のかかる事させてもらえなかったから、宦官になるしかないでしょ? 痛いの我慢すれば宮廷で働けるんだよ!」
「うん」
「ねぇ僕って可愛いじゃない」
「そうだね。女の子みたいな顔してる」
「誰かに見初めてもらえるかなぁ?」
くりっと丸い目に低い鼻。頬も丸くて少し白粉をはたいてそれらしい格好をすれば少女に間違えられるだろう。猿猿を可愛いと言う宦官は多い。妙な気を起こしている奴が居る事も知っている。
「さぁ、分からない」
「もう! 玲馨優しくない!」
猿猿はよく玲馨を優しくないと言うが、優しさとは何だろうと思う。ここで将来の事など分からないのに「良い人と出会えるよ」と言ってあげれば、それは優しいという事になるのだろうか。だとしたらこんなに簡単な優しさはないと思う。言葉ひとつで優しくして喜ばれるのなら、その方が良いのかもしれない。
「僕はお母さんみたいになりたくないから、きっと上手くやる」
「じゃあ勉強頑張らないと」
「うう……頑張る」
「うん」
「そうしないと玲馨と同じ所では働けないもの」
「何で?」
「玲馨は頭がいいからきっといい仕事を与えてもらえるもん。後宮の誰か皇子様にお仕えだって出来ちゃうかもしれない」
どきり、とした。疚しいような、後ろめたいような、とても戊陽との事を猿猿には言えないという気がしてしまう。
「だって皇子様は五人も……ねぇ玲馨待って。もしかして、第二皇子様にもう誘われちゃった?」
「あ、う……いや」
じぃ、と小動物を彷彿とさせる目が玲馨に嘘は許さないと下から見つめてくる。
「そっかぁ。そっか。良かったね玲馨。玲馨はね、あの皇子様は大切にしなきゃダメなんだよ」
「うん、するよ」
「だって相手は皇子様だもん、じゃないよ?」
「違うの?」
「違う。お母さんがね、女の人は恋をすると変わるって言ってた。玲馨はあの皇子様と話すようになってから変わったもの」
って僕は前の玲馨を知らないから別の子が言ってたんだけど、と猿猿。
「女じゃないんだけど」
「いいの、男とか女とか関係ないよ。どうせちんちんなくなっちゃうし」
「はぁ……」
結局話はそこに落ち着くのかと、何となく肩が下がる。
猿猿は本にあった宮女と皇子のような恋愛をしたくてたまらないのだ。だけど宦官は宮女にはなれない。宮女は下級だろうと貴族の娘で何より女だから皇子に見初めてもらえば正妻にだってなれる。事実そうして上り詰めた宮女は居ない訳ではない。
でも宦官では駄目なのだ。宦官は所詮は愛妾として、飽きれば捨て置かれるもの。
だから玲馨はどうしても猿猿に夢は叶うと言ってあげられなかった。
翌朝早くに何人かの子供が呼ばれて宿舎を出ていった。その中には猿猿の姿もあって、別れる前に少しだけ猿猿と話が出来た。
「玲馨の優しくない所、僕好きだよ。玲馨って感じがして」
「……小猿はお母さんの事、嫌いだった?」
どうしてそんな事を聞いてしまったのか、後になっても明確な答えは出てこない。ただ、いつもいつも自身と母を比較しては母のようになりたくないと言っていた猿猿は、寧ろ母の事を忘れないように繰り返し母の話をしていたように見えたのだ。
猿猿は玲馨に問われて、どうしてか泣き出してしまった。
「嫌いじゃなかった」
猿猿は訥々と語る。
猿猿の母はよく猿猿に「ごめんね」と言っていた。お金がなくて、父がなくて、母が愚鈍でごめんね。
妓女として美しかった頃の面影もない、痩せて皺が深くなった顔に疲れ切った笑顔を浮かべ、あかぎれだらけの固い手の平で猿猿の頬を削った。
男に見向きもされず妓楼から出ていく金もなくて端っこで小さく丸まって暮らす生活は、母の心身を日々疲弊させていった。
猿猿が宦官になるため妓楼を出ていくと言った時、母はやはり「ごめんね」と言って泣いていた。猿猿が最後に見た母の表情は泣き顔だった。
猿猿は十歳で宿舎に入ったので母には身売りの金が入った。母は浪費する人ではないだろうから一年は働かなくても暮らせるかも知れない。でもその後は? また実入りの悪い仕事に身を窶す生活に戻るだけ。母が寂しさを埋めるために産み落としたものは、たったそれだけの価値しかなかった。
「お母さんと一緒に居てあげた方が良かったのかなぁ」
玲馨はやっぱり何と答えて良いのか分からなかった。
玲馨は母に対してすぐにでも死んでほしいと願ったのが最後だった。今はもう思い出す事もほとんどないし、酒と薬に溺れていたので玲馨の願いは早晩叶うだろう。
そんなだから、きっと母が恋しくて泣く猿猿の気持ちに同調してあげられない。母に愛され育った息子の気持ちは、玲馨には察してあげられないものだった。
「ふふ、やっぱり玲馨は玲馨だね」
黙ったままでいる玲馨を「優しくない」と思ったのだろう。だけどいつもとは違って猿猿は可笑しそうに笑っていた。始めから何かを言ってもらえるとは期待していなかったようだ。
玲馨は目元を拭う猿猿の手を取って、戊陽にそうしてもらったように両手で握りしめた。
思えば永参は、玲馨を殴ったりする男たちよりは優しかった。勉強を見ると言った言葉も嘘ではなく、夜伽の対価に教えてもらう事もあった。
人は行為に対価を求めるのは自然な事だと玲馨は思う。玲馨は男たちに体を売って金を得ていた。
しかし、戊陽や猿猿は玲馨に何かを求めはしなかった。
戊陽は黙って傷を治し、力になると言ってくれた。
猿猿は優しくない玲馨を好きだと言ってくれた。
人はきっと、必ずしも対価を求めなくともよいのだと、二人は教えてくれていた。
だけどそれは、何故なのだろう。全ての人に対して、対価なくして接していく事は難しい。
二人と、その他大勢とは、一体何が違うのだろう。
「猿猿」
「小猿」
「小猿、お互い浄身を終えてちゃんと宦官になったら、また一緒に働こう」
「……嘘吐きだ、玲馨」
「えっ? あ、違う、そうじゃなくて」
「ううん。頑張るから僕も。勉強教えてね、玲馨」
「うん、約束」
「拉勾勾だ」
「うん拉勾勾」
猿猿の小さく細い小指に小指を絡めて約束をした。生まれて初めての約束。
それから猿猿たちを見送って、仕事をして。一ヶ月などあっという間に過ぎて、猿猿が戻ってくるのを待たずにいよいよ玲馨も自分の順番が巡ってくる。
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