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山芒編
6月夜の出会い
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明杰には恐ろしいものがたくさんあった。
母は怖い。母は自分を殴る時に目の色が変わる。あの目が怖い。
痛いのも怖い。赤くぐじゅぐじゅした傷口はずっと痛いまま治らないような気がして怖い。
飢える事は怖くて苦しかった。お腹があまりに空きすぎて立っていられなくなって頭を強くぶつけた事がある。頭からはたくさん血が出た。以来、空腹を感じ始めると立って動く事が恐ろしくなり、地面を這いつくばうようになった。
それから、それから。
これが一番怖い。
大人の男が怖い。
力が強くてやりたくないこと言いたくないこと、何もかもを強制させられる。痛いも苦しいも全部が大人の男の勝手に出来た。明杰の苦痛は大人の男に支配された。
物心ついた頃から恐ろしいもので溢れていた世界が怖かった。幸福や祝福という言葉を知らなかった。
自分の歳は知らなかったが、ある時母親にお前は今から九歳だと言われて明杰は九歳になった。それからお前を人にしてあげるからその分たくさん働きなさいと言われて、大人の男と会う回数を増やされた。
毎晩、毎晩、男の言いなりになって薄汚れた銭を掴まされる。毎晩、毎晩。そのうち昼と夜が関係なくなった。
明杰は十二歳になったが、母はおかしな事にお前は今日から九歳だよと言う。母はこの頃色んなものがちぐはぐだった。知らない男に夫と縋っては殴られたりしていた。そんなだったから母は何か勘違いしているのだろうと思ったが、九歳だと言われたら明杰は九歳になるのだ。
おかしくなった母に連れられて知らない所を歩いていく。大きな建物が見えて、母は綺麗な衣を着た大人の男に明杰を預けた。
いつもとは雰囲気が違っていたが新しい客だと思ってその場でしゃがみ男の股に顔を近付けると、髪を強く引っ張られて引き剥がされた。
痛くて放してほしくて見上げると、男の顔は酷く歪んでいた。悍しいような、恐ろしいようなものを見る目で明杰を見ていた。
「戸籍登録が三年前だな。子を売るため登録したか」
「いいえっ、いいえ違います。お役人様、どうか許してください」
「ああいい、近寄るな。特に問題はない」
どうやら明杰は、これから母と別れる事になるらしい。母と男の会話は、明杰にも十分理解出来ていた。
明杰は母に売られていく。母のため、母が楽をするため、明杰には一銭も入らない。ずっとそうだった。明杰が稼いできたお金は一つ残らず全て母のものだった。
母はその金を酒や薬に変えていた事を知っている。その酒と薬が母をちぐはぐにしていった事を知っている。
明杰を売った母は更に溺れていくだろう。
心の底からそのまま死ねばいいと思った。
男は言う。「これからお前は別の人間として生きていく。母親とは最後だ。別れを済ませなさい」
母を母と呼ぶのはこれきりになると思っても、この女を最後に母と呼びたいとは思わなかった。
しかし母は、その両手にずっしりと重たい金子を握り締め、とびきりの笑顔でこう言った。
「あんたを産んで良かった」
それは産まれて初めて与えられた、母からの祝福だった。
*
明杰は自分の本当の年齢を最初から知らなかった。しかしあの日、自分の戸籍を母が取得してきた日に九歳だと言われた。だから今は十二歳なのだろう。だけどまた九歳になり、同い年の、つまり九歳の子供たちと同じ場所に連れて行かれる。
「こちらへ来なさい」
「はい」
そこは宦官たちが暮らす宿舎だった。明杰はまだ知らなかったが、浄身を終えていない幼い子たちも共に暮らすために宿舎は後宮の外に建てられている。
明杰は「宦官」と呼ばれる職に就くため売られてきた。それには「自宮」というものを済ませなくてはならない。
そして。
「玲馨。お前はこれから玲馨と名乗るように」
「りんしん……?」
目の前に立つ大人の男は名を永参と言った。明杰が知る男の中で自警団の男と歳が近そうだ。三十を過ぎたくらいだろう。明杰に新しい名前を付けたのは明杰の先輩になる宦官、永参だ。
永参は不思議そうに首を傾げる玲馨を黒目がちな瞳で見下ろし言葉を続ける。
「『明杰』は国にその身分を還した。国のものとなった明杰は自分を持ってはいけない。だけどお前はここに居るね? お前は別の何かにならなくてはいけない。だからお前を玲馨と呼ぶ。玲馨。覚えなさい。玲馨」
「りんしん……」
永参は紙に筆で玲馨の名前を書いてみせる。難しい字だった。玲馨は文字の読み書きが出来なかったので、自分の新しい名前が初めて覚える文字になった。
永参は名を書いた紙を四つに折ると玲馨に持たせて「お守りにしなさい」と言った。何のお守りかは分からないが言う通りに受け取って懐に仕舞う。
それから歳の近い子供たちと同じ部屋に通された。皆十歳に満たない子供だというが、玲馨と背丈が変わらない。玲馨は自分が小柄なのかも知れないと考えたが、そう言えばはっきりとした歳も分からない事を思い出し、他と比較し悪目立ちしていなければそれで良いと思う事にする。
玲馨が連れてこられた部屋は子供たちに教育を施すための教練房だった。十歳未満で売られたり拾われたりした子は大抵が識字能力を得ておらず、宦官としては不足する。最低限文字を読んで書けなくては使い物にならないため、文字の書き取りを中心に勉強させるのだ。
三日も経つと玲馨は自分を玲馨である事を良しとした。何せここではきちんとした食べ物が貰える。粗相をして叱られる子も居たが、幼少より大人の言う事には逆らわないよう躾けられてきたので玲馨が罰を食らう事はなかった。
また寝床も与えてもらった。穴が空いていない衣も着せてもらえる。こんなに素晴らしい生活があるのなら、どうして母はもっと早くここへ連れてきてくれなかったのだろうと恨みさえした。
一ヶ月が経つと、玲馨は学ぶという事が楽しいと感じる事に気付いた。文字の覚えは他の誰よりも早く、簡単な書物なら時間をかければ自力で読み進めていく事が可能になった。
三ヶ月経った頃、玲馨は子供がすし詰めにされている大部屋から、個室へ移された。個室だが先輩と同室だ。玲馨に新しく名をくれたあの永参と同じ部屋だった。
永参と会うのは初日以来だった。変わらず黒目がちで何を考えているのか分からないのに決して平坦ではない不気味な視線が玲馨を見下ろしている。
「玲馨はどうやら賢い子供のようだから僕の部屋へ呼んだんだ。僕が玲馨に授業をしてやろう。どんな事が知りたい?」
永参の部屋には書架が三連並べてあり、そのどれもに巻子や折本が隙間無く収められている。中には重ねた紙の背を綴じた変わった形の書があり、玲馨は期待でいっぱいになった。
好きなように読んで良いと言われたので、永参と同室で過ごすようになってからというもの、仕事を終えて夜になると油を燃やした薄暗い灯りの中で寝るのも忘れて書を読み耽った。しかし、やはり読めないもの、自分では解けないもの、理解が及ばないものが圧倒的に多く、独学には限界があった。
ある時、永参がとうとう勉強を見てくれるというので玲馨は教えてほしいと思った書を机に乗るだけ並べて永参を待っていた。日暮れの頃になると仕事を終えて帰ってきた永参は、何故か桶に一杯の水を抱えていた。
「どれ、分からない所があるなら聞こう」
そう永参が言うので後ろで水の音が聞こえていたが机に向かってひとつ巻子を広げて訊ねてみる。
「ほう。もうそれを読めるのか。同い年の子たちより玲馨は頭一つ抜けているようだね」
ちゃぷん、と何かが水に沈む音がする。布を浸けていたらしく、すぐに固く絞る音がした。それから衣擦れの音があって、どうやら永参は室内で沐浴をしているらしい。
宦官が住まう宿舎には数日に一度水を溜めて沐浴するための場所がある。水を溜めている時間は決まっているので逃したらまた数日待たなくてはならなかった。
永参は沐浴し損ねて仕方なく水を貰って来たのかと思ったが、よくよく思い返せば宦官たちの沐浴は昨日だったし一緒に体を清めたのではなかったか。
では何故、と考えていると、ふと背中に生ぬるい気配を感じて思考が止まる。
「お前も体を清めておこうか」
すぐ真後ろに、永参の胸と玲馨の背中が触れるか触れないくらいの位置に、人間の体温がある。
玲馨にとっては嫌な感覚で、一瞬にして気が動転する。
「いえっ、あの……あ、はい……」
必要性が分からず混乱する玲馨に構わず、永参は玲馨の腕を取ると袖を捲くって布で擦り始める。
「こちらを向いて、玲馨」
永参の言葉に従い後ろを振り返ると永参は衣を肩から引っ掛けただけで前をはだけたままだった。
晒した胸元は脂肪がついて女の乳房のように丸みを帯びている。宦官となった男の特徴だ。皆がそうなる訳ではないらしいが、永参は顕著に表れている。
沐浴の時に見てきてもう慣れていたはずなのに、どうしてかぎょっとして尻で後退ってしまう。しかしすぐに背中が机の固い縁に触れて後退は止まった。
「濡らしたくはないだろう。自分で脱ぎなさい」
何で、という疑問は永参の黒々とした深い闇のような視線に吸い上げられてしまう。体付きは柔らかくとも、永参は大人の男。玲馨の──明杰の苦痛を支配した、大人の男だ。
玲馨は言われるがまま着ていた袍を脱いだ。大人の言う事には逆らわない方が良いと骨の髄まで教え込まれていた。
ひやりと触れた外気に身震いして永参を見上げると、永参の視線は玲馨の袴をつけたままの下半身を責めるように見ていた。言われなくとも何をすべきか分かった。身に沁みていた。
よくよく躾けられた玲馨は、手が震えたりする事はないし、嫌だと思ってもそれを言葉にはしない。袴を素早く脱いで一糸纏わぬ姿になると、永参は声には出さず口元だけでねっとりと笑った。初めて見せる永参の笑顔だった。
永参の手付きは丁寧で優しい。手拭いを使って腕、首、背中、腹と順番に清められ、太腿、脹脛と下がっていく。最後に陰茎と尻を念入りに拭い永参は満足げに笑った。
「玲馨、これから私が教える事は特別なものだ。お前の他に他言してはならないよ」
永参の手が何の兆しも見せない玲馨の小さなそれを握りこみ「小さいね、可愛いね」と呟きながら熱心にそこを捏ねた。
ああ、結局同じじゃないか。どこへ行こうと玲馨は、明杰は、大人の男に支配される。
「ああ……これがやがて切り取られるなんて、惜しいね……惜しくてたまらない……っ」
うっそりと声を漏らして永参は玲馨の陰茎を口に含むとまるでそこに蜜でもかかっているかのように丁寧にしゃぶった。
永参のように幼く小さなそれを愛でるのが好きな男も居た。そうされると出せるものが無くとも陰茎は反応を示す。
男からの愛撫に犯され続けた玲馨の体は勝手に永参の手付きに応え、腰を震わせては淫靡に永参を誘う。
そうすると客は気分が良くなって支払いに色をつけてくれる事があった。持ち帰る金が増えると母が癇癪を起こさなかったから、体が少しでも楽な方へと逃げるうちに癖になってしまっていた。
「あぁ……っ、何てことだ玲馨。お前は男を知っているのか」
恍惚とした永参の顔は、もう玲馨の知っている男のものではなかった。
知らない大人の男が、玲馨に欲情している──。
そう思うだけで身体の芯が冷たくなっていく。
永参は何かぬらぬらとした液体を玲馨の尻の割れ目に塗りたくり、尻を両手で掴むと親指で孔の周りを揉み始める。
「ん……」
「そうだ。痛かったら言いなさい。僕に子供を甚振る趣味はない」
同意なく行われるこの行為を甚振ると呼ばないなら、永参はその言葉の意味を間違って使っている事になる。知識をつけた今、玲馨の中で嫌悪感がよりはっきりと形をもって背筋を粟立たせた。
「随分使い込んだね。父親か? それとも母親かな。……ああ母の方か。玲馨に客を取らせてお前の母は幸せだったか?」
「わ、かりません」
永参は玲馨の後孔を時間を掛けて指で解していく。そんな風に丁寧にされた事など経験がなくて、過去に仕込まれた性感が甘く疼くように玲馨を急かした。足りない、足りないと腰が揺れ始める。
「玲馨、僕にはもうお前と同じものはついていない。切られたんだ。父に言われて、官吏になれない息子はいらないと、家柄のために名誉を奪われた」
永参は喋りながら再び玲馨の一物を咥えこみ、半勃ちのそれをねろりと舐めてはぢうと音を立ててきつく吸った。
これまで綿にでも触れるかのように柔らかかった永参の愛撫が急に激しくなって玲馨は怯む。まるでそこに備わった物を憎んでいるかのようだ。
「ひっぁっ、す、吸うの、あっ」
──嫌だ!!
その一言は決して玲馨の口から出てくる事はない。
「善い」と勘違いした永参はしつこく全体に吸い付いて、玲馨は一度大きく全身を震わせると空で達した。
「……まだ、男の子にはなっていないんだねぇ」
「ああっ、あっ……今は、さわっ、ひっんんっ」
パクパクと空気を吸うように開閉する鈴口を指の腹で擦られて、その間にも後孔を拡げる指は止まらない。指はいつの間にか三本に増えていた。こんなに早くに孔が緩んだのはお前が初めてだと永参は喜んだ。
しかし、どれだけ解したところで永参は陽物を失っている。何をどうすれば永参が満足するのか分からなくて、腹の中を押される感覚にただただ喘がされる。
「……そろそろ良さそうだね。玲馨、お前はよく出来た子だからとっておきを使ってあげよう」
永参の言葉を理解出来ない。分からないという無知は今の玲馨に這い寄るような恐怖を与える。永参はそんな玲馨を見下ろしてにたりと笑うと、一度手拭いで手を綺麗にしてから、桶の隣に置いてあった複数の木箱のうち一番大きな物を開けた。
中身を見た瞬間、ど、と玲馨の心臓が鳴り、だらだらと冷や汗が流れ始める。
それはどこからどう見ても男の陰茎だった。材質はてらりとしていて斑模様の柄が特徴的で、少し前に見た書にあった「べっ甲」というものだろう。高価な上に細かい形と細工がされている分、より貴重な物なのではないか。
確かにそれは「とっておき」だった。
「男の物が無いからね、僕たち宦官はこの張型を使って女を喜ばせるんだ。自分は何一つ気持ち良くなれない。心で善くなるんだ。だから慣れと訓練が必要なんだよ」
まるで永参にはそういう天賦の才でもあるかのような口ぶりに、これまであった年上への尊敬がすっかりと消えていくのを感じる。
「ほら、入れるよ。玲馨なら上手に飲み込めるね?」
べっ甲の張型に滑りをよくする油を塗り込めて、玲馨の尻にも同じ油を足して、張型のひやりとした先端が窄まりにあてがわれた。その冷たさにひゅ、と息を詰めながらも、押し込まれてくるものを力を抜いてすんなりと飲み込んでいく。それは潤滑剤などろくに使われずに性交する中で身につけた痛くない方法だった。
永参は玲馨が「良い子」だと機嫌が良くなるらしい。悲鳴も上げずにすっぽりと根本まで張型を咥え込んだのを見て、至極悦に入った表情で玲馨の尻を見つめている。
「は、はは……すごい……この張型は今持っている物の中で一番太いんだ。それをこんなに上手に受け入れてしまうなんて……!」
「んぐっぅ……!?」
唐突に張型を奥に押し込まれ苦しさに呻くと、永参は慌てて半分ほど引き抜いた。
基本的に丁寧な永参の手つきは急に乱暴になる事ある。その豹変ぶりが玲馨の体の奥底に植え付けられた恐怖を的確に煽った。
「いけない。気が急いてしまった。玲馨、少しずつ動かしてやる。だからちゃんと気持ち良くなりなさい」
「はー……、はっ……ぁ……っ、あっ」
気持ち良くとは何なのだろうか。永参が抽挿する張型に合わせて、体は確かに反応している。陰茎も再び持ち上がり始め、尻の入り口から腹の中に至るまで、性感を覚える場所はよく把握している。
だけど、気持ち良くはない。今だって嫌悪感に吐きそうだ。母に言われて男に買われていた時だってずっとそうだった。
気持ち良いなんて思った事、一度もない。
「玲馨、どうだ? 善いか?」
だけど訊かれている。大人の男が善がってみせろと言っている。
「いい、ですっ……ん、ぁああっ、そこが、す、好き、です……ぅっ」
どこが好きか、どこが善いが、どこでお前は泣いて果てるのか。全部を言葉で言わせるのが好きな男がいた。永参はそいつに似ていると思った。そうして自分の技術に自信をつけたいのだ。自分が上手いと思い込みたいのだ。
「良い子だね、良い子だ。ああ……玲馨、お前は」
お前は僕の理想の少年だ。
*
子供たちは文字の読み書きと簡単な算術を学ばされるが、「浄身とは何か」について具体的に教わる事はない。誰しも率先して口に出したいとは思わないからだ。それでもぼんやりとそれが何を指すのかを知り、いずれは自分も浄身しなくてはならない事を覚悟する。
浄身は十二歳になる年に順番に行われ、処置した後は三ヶ月ほど療養期間になる。浄身を済ませると後宮内への出入りが許されるので大抵は掃除や力仕事などの雑事を任されるが、中には妃や皇子の世話を任される者も居る。それは出世の街道に足を掛ける事を意味した。
その一方で三ヶ月が過ぎても終ぞ戻ってこない者も居た。何人かに一人、誰にも触れられず、存在そのものが無かったかのように失踪する。その理由に気付いたのは三人目が戻らなくなった時だった。
復帰に三ヶ月も掛かる理由、そして子供が帰らない理由。その二つに確信を持った時、浄身という言葉がしっかりとした形を伴って玲馨の恐怖心を煽った。
永参に冷たく固い張型で犯され始めた日から二年半が過ぎていた。玲馨は今年、十二歳を迎える。
玲馨の周りに浄身に怯えている子供は一人も居ない。浄身を知らないか、或いは言葉さえ聞いていないか、そのどちらかだ。知識の無い子に教えて徒に怖がらせようとは思わない。けれど誰とも共有出来ない恐怖はじわりじわりと玲馨を見えない所で追い詰めていった。
「玲馨。浄身の日取りが決まったよ」
永参はその台詞を吐き捨てるように玲馨へと告げた。怖い、嫌だと声に出して泣く事も出来ないでいる玲馨を、永参は気遣ってはくれない。玲馨を犯す時はあれだけ熱にうかされていた永参が、今は嘗てないほど冷めた目で玲馨を見下ろしていた。
その日の晩、永参は玲馨を甚振った。
思わず痛いと喘いでも、苦しくて涙を流しても、永参は行為をやめてくれなかった。
行為の後、永参は玲馨を部屋から追い出して、桶に張った汚れた水を頭から被せて言う。「お前は少年ではなくなった」墨よりもっとずっと黒くて洞穴のように底知れない永参の目が、二度と顔を見せるなと言っていた。
理解が追いつかなかった。まだ春先の夜は冷える頃、ガタガタと震えながら痛む体を掻き抱き玲馨は足を引きずるようにしてその場を去る。
行く当てなどなく、本当なら誰か他の宦官に頼るべきだったのだろう。だがその選択が頭に浮かばなかった。とにかくここから逃げ出したい一心だった。逃げなくては死んでしまうと思っていた。
無心で足を動かして、宿舎を出て、何故か兵士が居ない事も気に留まらなくて。けれど体は重たくて辛くて、宿舎を囲う築地塀に背を預けて座り込む。
声が聞こえてきたのはその時だった。
「おい、何してるんだお前」
潜めた声は少年のものだ。どこか粗野な気配があり、知らない声である。声の元を探して周囲を見回すと今度は「右だ」と聞こえてきた。
「……お前は……いや、あなたは、まさか」
シーッ、と慌てた様子で少年は指を立てて玲馨を黙らせる。それから手招きをすると、釣られて僅かに身を乗り出した玲馨の衣を掴んで植え込みの中に引き込んだ。
「い、痛いっ」
「ああごめん、お前がもたもたしてるから」
暗がりではほとんど見えないが、微かな月明かりが照らした少年の衣は決して宦官風情が纏えるような代物ではなかった。一目に高価と分かるそれが汚れる事に少年は一切気を払っていない。
彼は間違いなく皇子だ。
「おいお前、その格好はなんだ? しかも何か濡れて……怪我、してるのか?」
「あの、いえこれは」
「何故隠す? 見せろ、どこに傷があるんだ?」
「だ、大丈夫ですから」
「強情な奴だな」
「わっ!」
両手を掴まれぐいっと持ち上げられるとちゃんと着付けていなかった合わせが緩んで腹の辺りまでが顕になる。カッと羞恥が頬を焼いた。
玲馨の腹には行為の痕がまだ残っていた。ねばつく白濁が玲馨の腹を汚し、帯の下では陰茎と薄い陰毛とそして尻の間までがやはり精液で濡れている。それは紛れもなく玲馨自身が吐き出した物だ。
少し前に玲馨は精通を迎えていた。自分の本来の年齢が分からないから遅いのか早いのかも分からない。夢精して布団を汚してしまったのを永参には見られてしまっていた。思えばその時からだ、永参の態度が変わったのは。それから数日の間に玲馨の浄身の日取りが決まった。
点であった物が線で繋がり形が見えてくる。
永参はいつも玲馨の事を「理想の少年」と褒めていた。その顔には羨望するような、玲馨の事を人ではないもっと何か崇高なもののようにして見ている雰囲気があった。それがさっきは「少年ではなくなった」と急に手の平を返し、落胆しながらも玲馨を愚かしいもののように蔑んでいた。
永参に追い出された理由が分かり玲馨の胸には嘗てない憤りが湧いていた。
勝手だ。誰も彼も勝手極まりない。母も客の男も永参も、皆玲馨を好きに貪り最後は捨てる。
皇子に腕を持ち上げられたまま、玲馨の目からわっと涙が溢れ出す。もう止められなかった。皇子に見られていると分かっても、初めて会った子供を相手に今の自分を押し殺してまで敬う事は出来なかった。
俯き声を殺して泣く玲馨をよっぽど憐れに思ったか、皇子は玲馨の手を下ろして両手で力強く握りしめた。
不意に違和感を感じ、玲馨は顔を上げる。皇子は玲馨の手を包むように握り、その手に額を預けて目を閉じている。何かを祈るような姿勢に驚きはしたが、玲馨が感じた違和感はもっと別の所にある。体の至るところにあった痛みが消えているのだ。
「……まだ、痛い所はあるか?」
無言で首を横に振った。
「良かった。こういうのはな、お前を痛めつけた奴よりもっと偉い奴に告げ口しろ」
恐らくその必要はないだろう。永参は玲馨から興味を失って部屋から追い出した。二度と玲馨には手を出して来ないという予感がある。
「それでも駄目なら俺に言え。俺は強いからな。正々堂々勝負して、無体を働く奴を成敗してやる」
ふ、と思わず笑いが漏れてしまった。皇子は一瞬怒ったような顔をしたが、すぐに一緒になって笑い出す。
「──っと、まずい。俺今お忍びで城の探索してるんだ。けど、実は部屋を抜け出した事が知られていてな。あちこちの警備兵が俺を探して走り回ってる」
何て無茶をする皇子だろうか。笑いが半分くらい呆れに変わってしまう。
「だから一緒に居る所を見られる訳にはいかないんだ。でもまたどうにかしてお前に会いにくる。名を教えてくれ」
明杰、と三年も前に捨てたはずの名がどうしてか脳裏を過ぎった。しかし万一この皇子が本当に宦官の宿舎を訪ねてきて「明杰を」と言っても、そんな者はおりませんと追い返されるだけだ。
「玲馨……といいます」
「玲馨か。良い名だ」
名など玲馨にとっては自分を他と区別するための符号でしかなかった。明杰も玲馨も、どちらもろくでなしが付けた名だと思うと、どちらも好きにはなれなかった。けれど彼が呼ぶとその名が本当に素晴らしい物のように聞こえて不思議な感覚だった。
「なぁ次は『貴方様の名を』って聞き返す場面だろう?」
「へ、あ、あなた様の名を、お教えください」
「固いなぁ。まぁ良い。俺は戊陽という。第二皇子だ。覚えておけよ」
「はい……はい、戊陽皇子殿下」
戊陽は彼の名が表わすように明るい笑みを返して、慌ただしく植え込みから抜け出し月夜に去っていった。
そのすぐ後で、戊陽を呼ぶ兵士の声が遠くから聞こえてきた。戊陽の言っていた事はどうやら本当だったらしい。第二皇子は深夜にこっそり後宮を抜け出すような腕白小僧なのだ。
また笑いがこみ上げて、ひとしきり笑って落ち着くのを待ってから、玲馨も宿舎へと引き返す。
恐怖はまだ玲馨の心に巣食っている。永参とてまた玲馨に手を出すとも知れない。
しかし、玲馨は足を止めなかった。またきっと会えるという初めて得た希望が、玲馨の背中を押してくれていた。
母は怖い。母は自分を殴る時に目の色が変わる。あの目が怖い。
痛いのも怖い。赤くぐじゅぐじゅした傷口はずっと痛いまま治らないような気がして怖い。
飢える事は怖くて苦しかった。お腹があまりに空きすぎて立っていられなくなって頭を強くぶつけた事がある。頭からはたくさん血が出た。以来、空腹を感じ始めると立って動く事が恐ろしくなり、地面を這いつくばうようになった。
それから、それから。
これが一番怖い。
大人の男が怖い。
力が強くてやりたくないこと言いたくないこと、何もかもを強制させられる。痛いも苦しいも全部が大人の男の勝手に出来た。明杰の苦痛は大人の男に支配された。
物心ついた頃から恐ろしいもので溢れていた世界が怖かった。幸福や祝福という言葉を知らなかった。
自分の歳は知らなかったが、ある時母親にお前は今から九歳だと言われて明杰は九歳になった。それからお前を人にしてあげるからその分たくさん働きなさいと言われて、大人の男と会う回数を増やされた。
毎晩、毎晩、男の言いなりになって薄汚れた銭を掴まされる。毎晩、毎晩。そのうち昼と夜が関係なくなった。
明杰は十二歳になったが、母はおかしな事にお前は今日から九歳だよと言う。母はこの頃色んなものがちぐはぐだった。知らない男に夫と縋っては殴られたりしていた。そんなだったから母は何か勘違いしているのだろうと思ったが、九歳だと言われたら明杰は九歳になるのだ。
おかしくなった母に連れられて知らない所を歩いていく。大きな建物が見えて、母は綺麗な衣を着た大人の男に明杰を預けた。
いつもとは雰囲気が違っていたが新しい客だと思ってその場でしゃがみ男の股に顔を近付けると、髪を強く引っ張られて引き剥がされた。
痛くて放してほしくて見上げると、男の顔は酷く歪んでいた。悍しいような、恐ろしいようなものを見る目で明杰を見ていた。
「戸籍登録が三年前だな。子を売るため登録したか」
「いいえっ、いいえ違います。お役人様、どうか許してください」
「ああいい、近寄るな。特に問題はない」
どうやら明杰は、これから母と別れる事になるらしい。母と男の会話は、明杰にも十分理解出来ていた。
明杰は母に売られていく。母のため、母が楽をするため、明杰には一銭も入らない。ずっとそうだった。明杰が稼いできたお金は一つ残らず全て母のものだった。
母はその金を酒や薬に変えていた事を知っている。その酒と薬が母をちぐはぐにしていった事を知っている。
明杰を売った母は更に溺れていくだろう。
心の底からそのまま死ねばいいと思った。
男は言う。「これからお前は別の人間として生きていく。母親とは最後だ。別れを済ませなさい」
母を母と呼ぶのはこれきりになると思っても、この女を最後に母と呼びたいとは思わなかった。
しかし母は、その両手にずっしりと重たい金子を握り締め、とびきりの笑顔でこう言った。
「あんたを産んで良かった」
それは産まれて初めて与えられた、母からの祝福だった。
*
明杰は自分の本当の年齢を最初から知らなかった。しかしあの日、自分の戸籍を母が取得してきた日に九歳だと言われた。だから今は十二歳なのだろう。だけどまた九歳になり、同い年の、つまり九歳の子供たちと同じ場所に連れて行かれる。
「こちらへ来なさい」
「はい」
そこは宦官たちが暮らす宿舎だった。明杰はまだ知らなかったが、浄身を終えていない幼い子たちも共に暮らすために宿舎は後宮の外に建てられている。
明杰は「宦官」と呼ばれる職に就くため売られてきた。それには「自宮」というものを済ませなくてはならない。
そして。
「玲馨。お前はこれから玲馨と名乗るように」
「りんしん……?」
目の前に立つ大人の男は名を永参と言った。明杰が知る男の中で自警団の男と歳が近そうだ。三十を過ぎたくらいだろう。明杰に新しい名前を付けたのは明杰の先輩になる宦官、永参だ。
永参は不思議そうに首を傾げる玲馨を黒目がちな瞳で見下ろし言葉を続ける。
「『明杰』は国にその身分を還した。国のものとなった明杰は自分を持ってはいけない。だけどお前はここに居るね? お前は別の何かにならなくてはいけない。だからお前を玲馨と呼ぶ。玲馨。覚えなさい。玲馨」
「りんしん……」
永参は紙に筆で玲馨の名前を書いてみせる。難しい字だった。玲馨は文字の読み書きが出来なかったので、自分の新しい名前が初めて覚える文字になった。
永参は名を書いた紙を四つに折ると玲馨に持たせて「お守りにしなさい」と言った。何のお守りかは分からないが言う通りに受け取って懐に仕舞う。
それから歳の近い子供たちと同じ部屋に通された。皆十歳に満たない子供だというが、玲馨と背丈が変わらない。玲馨は自分が小柄なのかも知れないと考えたが、そう言えばはっきりとした歳も分からない事を思い出し、他と比較し悪目立ちしていなければそれで良いと思う事にする。
玲馨が連れてこられた部屋は子供たちに教育を施すための教練房だった。十歳未満で売られたり拾われたりした子は大抵が識字能力を得ておらず、宦官としては不足する。最低限文字を読んで書けなくては使い物にならないため、文字の書き取りを中心に勉強させるのだ。
三日も経つと玲馨は自分を玲馨である事を良しとした。何せここではきちんとした食べ物が貰える。粗相をして叱られる子も居たが、幼少より大人の言う事には逆らわないよう躾けられてきたので玲馨が罰を食らう事はなかった。
また寝床も与えてもらった。穴が空いていない衣も着せてもらえる。こんなに素晴らしい生活があるのなら、どうして母はもっと早くここへ連れてきてくれなかったのだろうと恨みさえした。
一ヶ月が経つと、玲馨は学ぶという事が楽しいと感じる事に気付いた。文字の覚えは他の誰よりも早く、簡単な書物なら時間をかければ自力で読み進めていく事が可能になった。
三ヶ月経った頃、玲馨は子供がすし詰めにされている大部屋から、個室へ移された。個室だが先輩と同室だ。玲馨に新しく名をくれたあの永参と同じ部屋だった。
永参と会うのは初日以来だった。変わらず黒目がちで何を考えているのか分からないのに決して平坦ではない不気味な視線が玲馨を見下ろしている。
「玲馨はどうやら賢い子供のようだから僕の部屋へ呼んだんだ。僕が玲馨に授業をしてやろう。どんな事が知りたい?」
永参の部屋には書架が三連並べてあり、そのどれもに巻子や折本が隙間無く収められている。中には重ねた紙の背を綴じた変わった形の書があり、玲馨は期待でいっぱいになった。
好きなように読んで良いと言われたので、永参と同室で過ごすようになってからというもの、仕事を終えて夜になると油を燃やした薄暗い灯りの中で寝るのも忘れて書を読み耽った。しかし、やはり読めないもの、自分では解けないもの、理解が及ばないものが圧倒的に多く、独学には限界があった。
ある時、永参がとうとう勉強を見てくれるというので玲馨は教えてほしいと思った書を机に乗るだけ並べて永参を待っていた。日暮れの頃になると仕事を終えて帰ってきた永参は、何故か桶に一杯の水を抱えていた。
「どれ、分からない所があるなら聞こう」
そう永参が言うので後ろで水の音が聞こえていたが机に向かってひとつ巻子を広げて訊ねてみる。
「ほう。もうそれを読めるのか。同い年の子たちより玲馨は頭一つ抜けているようだね」
ちゃぷん、と何かが水に沈む音がする。布を浸けていたらしく、すぐに固く絞る音がした。それから衣擦れの音があって、どうやら永参は室内で沐浴をしているらしい。
宦官が住まう宿舎には数日に一度水を溜めて沐浴するための場所がある。水を溜めている時間は決まっているので逃したらまた数日待たなくてはならなかった。
永参は沐浴し損ねて仕方なく水を貰って来たのかと思ったが、よくよく思い返せば宦官たちの沐浴は昨日だったし一緒に体を清めたのではなかったか。
では何故、と考えていると、ふと背中に生ぬるい気配を感じて思考が止まる。
「お前も体を清めておこうか」
すぐ真後ろに、永参の胸と玲馨の背中が触れるか触れないくらいの位置に、人間の体温がある。
玲馨にとっては嫌な感覚で、一瞬にして気が動転する。
「いえっ、あの……あ、はい……」
必要性が分からず混乱する玲馨に構わず、永参は玲馨の腕を取ると袖を捲くって布で擦り始める。
「こちらを向いて、玲馨」
永参の言葉に従い後ろを振り返ると永参は衣を肩から引っ掛けただけで前をはだけたままだった。
晒した胸元は脂肪がついて女の乳房のように丸みを帯びている。宦官となった男の特徴だ。皆がそうなる訳ではないらしいが、永参は顕著に表れている。
沐浴の時に見てきてもう慣れていたはずなのに、どうしてかぎょっとして尻で後退ってしまう。しかしすぐに背中が机の固い縁に触れて後退は止まった。
「濡らしたくはないだろう。自分で脱ぎなさい」
何で、という疑問は永参の黒々とした深い闇のような視線に吸い上げられてしまう。体付きは柔らかくとも、永参は大人の男。玲馨の──明杰の苦痛を支配した、大人の男だ。
玲馨は言われるがまま着ていた袍を脱いだ。大人の言う事には逆らわない方が良いと骨の髄まで教え込まれていた。
ひやりと触れた外気に身震いして永参を見上げると、永参の視線は玲馨の袴をつけたままの下半身を責めるように見ていた。言われなくとも何をすべきか分かった。身に沁みていた。
よくよく躾けられた玲馨は、手が震えたりする事はないし、嫌だと思ってもそれを言葉にはしない。袴を素早く脱いで一糸纏わぬ姿になると、永参は声には出さず口元だけでねっとりと笑った。初めて見せる永参の笑顔だった。
永参の手付きは丁寧で優しい。手拭いを使って腕、首、背中、腹と順番に清められ、太腿、脹脛と下がっていく。最後に陰茎と尻を念入りに拭い永参は満足げに笑った。
「玲馨、これから私が教える事は特別なものだ。お前の他に他言してはならないよ」
永参の手が何の兆しも見せない玲馨の小さなそれを握りこみ「小さいね、可愛いね」と呟きながら熱心にそこを捏ねた。
ああ、結局同じじゃないか。どこへ行こうと玲馨は、明杰は、大人の男に支配される。
「ああ……これがやがて切り取られるなんて、惜しいね……惜しくてたまらない……っ」
うっそりと声を漏らして永参は玲馨の陰茎を口に含むとまるでそこに蜜でもかかっているかのように丁寧にしゃぶった。
永参のように幼く小さなそれを愛でるのが好きな男も居た。そうされると出せるものが無くとも陰茎は反応を示す。
男からの愛撫に犯され続けた玲馨の体は勝手に永参の手付きに応え、腰を震わせては淫靡に永参を誘う。
そうすると客は気分が良くなって支払いに色をつけてくれる事があった。持ち帰る金が増えると母が癇癪を起こさなかったから、体が少しでも楽な方へと逃げるうちに癖になってしまっていた。
「あぁ……っ、何てことだ玲馨。お前は男を知っているのか」
恍惚とした永参の顔は、もう玲馨の知っている男のものではなかった。
知らない大人の男が、玲馨に欲情している──。
そう思うだけで身体の芯が冷たくなっていく。
永参は何かぬらぬらとした液体を玲馨の尻の割れ目に塗りたくり、尻を両手で掴むと親指で孔の周りを揉み始める。
「ん……」
「そうだ。痛かったら言いなさい。僕に子供を甚振る趣味はない」
同意なく行われるこの行為を甚振ると呼ばないなら、永参はその言葉の意味を間違って使っている事になる。知識をつけた今、玲馨の中で嫌悪感がよりはっきりと形をもって背筋を粟立たせた。
「随分使い込んだね。父親か? それとも母親かな。……ああ母の方か。玲馨に客を取らせてお前の母は幸せだったか?」
「わ、かりません」
永参は玲馨の後孔を時間を掛けて指で解していく。そんな風に丁寧にされた事など経験がなくて、過去に仕込まれた性感が甘く疼くように玲馨を急かした。足りない、足りないと腰が揺れ始める。
「玲馨、僕にはもうお前と同じものはついていない。切られたんだ。父に言われて、官吏になれない息子はいらないと、家柄のために名誉を奪われた」
永参は喋りながら再び玲馨の一物を咥えこみ、半勃ちのそれをねろりと舐めてはぢうと音を立ててきつく吸った。
これまで綿にでも触れるかのように柔らかかった永参の愛撫が急に激しくなって玲馨は怯む。まるでそこに備わった物を憎んでいるかのようだ。
「ひっぁっ、す、吸うの、あっ」
──嫌だ!!
その一言は決して玲馨の口から出てくる事はない。
「善い」と勘違いした永参はしつこく全体に吸い付いて、玲馨は一度大きく全身を震わせると空で達した。
「……まだ、男の子にはなっていないんだねぇ」
「ああっ、あっ……今は、さわっ、ひっんんっ」
パクパクと空気を吸うように開閉する鈴口を指の腹で擦られて、その間にも後孔を拡げる指は止まらない。指はいつの間にか三本に増えていた。こんなに早くに孔が緩んだのはお前が初めてだと永参は喜んだ。
しかし、どれだけ解したところで永参は陽物を失っている。何をどうすれば永参が満足するのか分からなくて、腹の中を押される感覚にただただ喘がされる。
「……そろそろ良さそうだね。玲馨、お前はよく出来た子だからとっておきを使ってあげよう」
永参の言葉を理解出来ない。分からないという無知は今の玲馨に這い寄るような恐怖を与える。永参はそんな玲馨を見下ろしてにたりと笑うと、一度手拭いで手を綺麗にしてから、桶の隣に置いてあった複数の木箱のうち一番大きな物を開けた。
中身を見た瞬間、ど、と玲馨の心臓が鳴り、だらだらと冷や汗が流れ始める。
それはどこからどう見ても男の陰茎だった。材質はてらりとしていて斑模様の柄が特徴的で、少し前に見た書にあった「べっ甲」というものだろう。高価な上に細かい形と細工がされている分、より貴重な物なのではないか。
確かにそれは「とっておき」だった。
「男の物が無いからね、僕たち宦官はこの張型を使って女を喜ばせるんだ。自分は何一つ気持ち良くなれない。心で善くなるんだ。だから慣れと訓練が必要なんだよ」
まるで永参にはそういう天賦の才でもあるかのような口ぶりに、これまであった年上への尊敬がすっかりと消えていくのを感じる。
「ほら、入れるよ。玲馨なら上手に飲み込めるね?」
べっ甲の張型に滑りをよくする油を塗り込めて、玲馨の尻にも同じ油を足して、張型のひやりとした先端が窄まりにあてがわれた。その冷たさにひゅ、と息を詰めながらも、押し込まれてくるものを力を抜いてすんなりと飲み込んでいく。それは潤滑剤などろくに使われずに性交する中で身につけた痛くない方法だった。
永参は玲馨が「良い子」だと機嫌が良くなるらしい。悲鳴も上げずにすっぽりと根本まで張型を咥え込んだのを見て、至極悦に入った表情で玲馨の尻を見つめている。
「は、はは……すごい……この張型は今持っている物の中で一番太いんだ。それをこんなに上手に受け入れてしまうなんて……!」
「んぐっぅ……!?」
唐突に張型を奥に押し込まれ苦しさに呻くと、永参は慌てて半分ほど引き抜いた。
基本的に丁寧な永参の手つきは急に乱暴になる事ある。その豹変ぶりが玲馨の体の奥底に植え付けられた恐怖を的確に煽った。
「いけない。気が急いてしまった。玲馨、少しずつ動かしてやる。だからちゃんと気持ち良くなりなさい」
「はー……、はっ……ぁ……っ、あっ」
気持ち良くとは何なのだろうか。永参が抽挿する張型に合わせて、体は確かに反応している。陰茎も再び持ち上がり始め、尻の入り口から腹の中に至るまで、性感を覚える場所はよく把握している。
だけど、気持ち良くはない。今だって嫌悪感に吐きそうだ。母に言われて男に買われていた時だってずっとそうだった。
気持ち良いなんて思った事、一度もない。
「玲馨、どうだ? 善いか?」
だけど訊かれている。大人の男が善がってみせろと言っている。
「いい、ですっ……ん、ぁああっ、そこが、す、好き、です……ぅっ」
どこが好きか、どこが善いが、どこでお前は泣いて果てるのか。全部を言葉で言わせるのが好きな男がいた。永参はそいつに似ていると思った。そうして自分の技術に自信をつけたいのだ。自分が上手いと思い込みたいのだ。
「良い子だね、良い子だ。ああ……玲馨、お前は」
お前は僕の理想の少年だ。
*
子供たちは文字の読み書きと簡単な算術を学ばされるが、「浄身とは何か」について具体的に教わる事はない。誰しも率先して口に出したいとは思わないからだ。それでもぼんやりとそれが何を指すのかを知り、いずれは自分も浄身しなくてはならない事を覚悟する。
浄身は十二歳になる年に順番に行われ、処置した後は三ヶ月ほど療養期間になる。浄身を済ませると後宮内への出入りが許されるので大抵は掃除や力仕事などの雑事を任されるが、中には妃や皇子の世話を任される者も居る。それは出世の街道に足を掛ける事を意味した。
その一方で三ヶ月が過ぎても終ぞ戻ってこない者も居た。何人かに一人、誰にも触れられず、存在そのものが無かったかのように失踪する。その理由に気付いたのは三人目が戻らなくなった時だった。
復帰に三ヶ月も掛かる理由、そして子供が帰らない理由。その二つに確信を持った時、浄身という言葉がしっかりとした形を伴って玲馨の恐怖心を煽った。
永参に冷たく固い張型で犯され始めた日から二年半が過ぎていた。玲馨は今年、十二歳を迎える。
玲馨の周りに浄身に怯えている子供は一人も居ない。浄身を知らないか、或いは言葉さえ聞いていないか、そのどちらかだ。知識の無い子に教えて徒に怖がらせようとは思わない。けれど誰とも共有出来ない恐怖はじわりじわりと玲馨を見えない所で追い詰めていった。
「玲馨。浄身の日取りが決まったよ」
永参はその台詞を吐き捨てるように玲馨へと告げた。怖い、嫌だと声に出して泣く事も出来ないでいる玲馨を、永参は気遣ってはくれない。玲馨を犯す時はあれだけ熱にうかされていた永参が、今は嘗てないほど冷めた目で玲馨を見下ろしていた。
その日の晩、永参は玲馨を甚振った。
思わず痛いと喘いでも、苦しくて涙を流しても、永参は行為をやめてくれなかった。
行為の後、永参は玲馨を部屋から追い出して、桶に張った汚れた水を頭から被せて言う。「お前は少年ではなくなった」墨よりもっとずっと黒くて洞穴のように底知れない永参の目が、二度と顔を見せるなと言っていた。
理解が追いつかなかった。まだ春先の夜は冷える頃、ガタガタと震えながら痛む体を掻き抱き玲馨は足を引きずるようにしてその場を去る。
行く当てなどなく、本当なら誰か他の宦官に頼るべきだったのだろう。だがその選択が頭に浮かばなかった。とにかくここから逃げ出したい一心だった。逃げなくては死んでしまうと思っていた。
無心で足を動かして、宿舎を出て、何故か兵士が居ない事も気に留まらなくて。けれど体は重たくて辛くて、宿舎を囲う築地塀に背を預けて座り込む。
声が聞こえてきたのはその時だった。
「おい、何してるんだお前」
潜めた声は少年のものだ。どこか粗野な気配があり、知らない声である。声の元を探して周囲を見回すと今度は「右だ」と聞こえてきた。
「……お前は……いや、あなたは、まさか」
シーッ、と慌てた様子で少年は指を立てて玲馨を黙らせる。それから手招きをすると、釣られて僅かに身を乗り出した玲馨の衣を掴んで植え込みの中に引き込んだ。
「い、痛いっ」
「ああごめん、お前がもたもたしてるから」
暗がりではほとんど見えないが、微かな月明かりが照らした少年の衣は決して宦官風情が纏えるような代物ではなかった。一目に高価と分かるそれが汚れる事に少年は一切気を払っていない。
彼は間違いなく皇子だ。
「おいお前、その格好はなんだ? しかも何か濡れて……怪我、してるのか?」
「あの、いえこれは」
「何故隠す? 見せろ、どこに傷があるんだ?」
「だ、大丈夫ですから」
「強情な奴だな」
「わっ!」
両手を掴まれぐいっと持ち上げられるとちゃんと着付けていなかった合わせが緩んで腹の辺りまでが顕になる。カッと羞恥が頬を焼いた。
玲馨の腹には行為の痕がまだ残っていた。ねばつく白濁が玲馨の腹を汚し、帯の下では陰茎と薄い陰毛とそして尻の間までがやはり精液で濡れている。それは紛れもなく玲馨自身が吐き出した物だ。
少し前に玲馨は精通を迎えていた。自分の本来の年齢が分からないから遅いのか早いのかも分からない。夢精して布団を汚してしまったのを永参には見られてしまっていた。思えばその時からだ、永参の態度が変わったのは。それから数日の間に玲馨の浄身の日取りが決まった。
点であった物が線で繋がり形が見えてくる。
永参はいつも玲馨の事を「理想の少年」と褒めていた。その顔には羨望するような、玲馨の事を人ではないもっと何か崇高なもののようにして見ている雰囲気があった。それがさっきは「少年ではなくなった」と急に手の平を返し、落胆しながらも玲馨を愚かしいもののように蔑んでいた。
永参に追い出された理由が分かり玲馨の胸には嘗てない憤りが湧いていた。
勝手だ。誰も彼も勝手極まりない。母も客の男も永参も、皆玲馨を好きに貪り最後は捨てる。
皇子に腕を持ち上げられたまま、玲馨の目からわっと涙が溢れ出す。もう止められなかった。皇子に見られていると分かっても、初めて会った子供を相手に今の自分を押し殺してまで敬う事は出来なかった。
俯き声を殺して泣く玲馨をよっぽど憐れに思ったか、皇子は玲馨の手を下ろして両手で力強く握りしめた。
不意に違和感を感じ、玲馨は顔を上げる。皇子は玲馨の手を包むように握り、その手に額を預けて目を閉じている。何かを祈るような姿勢に驚きはしたが、玲馨が感じた違和感はもっと別の所にある。体の至るところにあった痛みが消えているのだ。
「……まだ、痛い所はあるか?」
無言で首を横に振った。
「良かった。こういうのはな、お前を痛めつけた奴よりもっと偉い奴に告げ口しろ」
恐らくその必要はないだろう。永参は玲馨から興味を失って部屋から追い出した。二度と玲馨には手を出して来ないという予感がある。
「それでも駄目なら俺に言え。俺は強いからな。正々堂々勝負して、無体を働く奴を成敗してやる」
ふ、と思わず笑いが漏れてしまった。皇子は一瞬怒ったような顔をしたが、すぐに一緒になって笑い出す。
「──っと、まずい。俺今お忍びで城の探索してるんだ。けど、実は部屋を抜け出した事が知られていてな。あちこちの警備兵が俺を探して走り回ってる」
何て無茶をする皇子だろうか。笑いが半分くらい呆れに変わってしまう。
「だから一緒に居る所を見られる訳にはいかないんだ。でもまたどうにかしてお前に会いにくる。名を教えてくれ」
明杰、と三年も前に捨てたはずの名がどうしてか脳裏を過ぎった。しかし万一この皇子が本当に宦官の宿舎を訪ねてきて「明杰を」と言っても、そんな者はおりませんと追い返されるだけだ。
「玲馨……といいます」
「玲馨か。良い名だ」
名など玲馨にとっては自分を他と区別するための符号でしかなかった。明杰も玲馨も、どちらもろくでなしが付けた名だと思うと、どちらも好きにはなれなかった。けれど彼が呼ぶとその名が本当に素晴らしい物のように聞こえて不思議な感覚だった。
「なぁ次は『貴方様の名を』って聞き返す場面だろう?」
「へ、あ、あなた様の名を、お教えください」
「固いなぁ。まぁ良い。俺は戊陽という。第二皇子だ。覚えておけよ」
「はい……はい、戊陽皇子殿下」
戊陽は彼の名が表わすように明るい笑みを返して、慌ただしく植え込みから抜け出し月夜に去っていった。
そのすぐ後で、戊陽を呼ぶ兵士の声が遠くから聞こえてきた。戊陽の言っていた事はどうやら本当だったらしい。第二皇子は深夜にこっそり後宮を抜け出すような腕白小僧なのだ。
また笑いがこみ上げて、ひとしきり笑って落ち着くのを待ってから、玲馨も宿舎へと引き返す。
恐怖はまだ玲馨の心に巣食っている。永参とてまた玲馨に手を出すとも知れない。
しかし、玲馨は足を止めなかった。またきっと会えるという初めて得た希望が、玲馨の背中を押してくれていた。
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