あわいの宦官

ちゅうじょう えぬ

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山芒編

5癒やしの力

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 辛新シンシンが実家で借りてきた地図に、玲馨リンシンはいくつかバツ印をつけた。農夫から聞いた「崖崩れ」が起きたと思われる場所の目印だ。
 崖崩れは起きていた。それも一ヶ月ほどのうちに複数回。農夫から小作人として働いている畑の灌漑かんがいで引いた水に泥や砂利が混ざって大変だったと、愚痴と共に聞かされた。
 二日目は聞き込みだけで一日が終わり、日暮れ前に宿舎に戻ると辛新は実家に帰る事になった。
「すみません。母がどうしても一泊していけと言うので。明日の朝一番に戻って参ります!」
 辛新の実家は藍心ランシンから北東の坂を上った先にあり、山芒に住み慣れた辛新一人ならば夜の山歩きも問題ないからと元気に去っていった。
 三人だと狭いが二人だと少し広い高楼の一室。メイと二人、無言で食卓を囲む。
 食事は山芒で採れた物ではなく紫沈ズーシェンから運んできた物で作ってあった。簡素で味気ないが行軍中の乾いた食事よりずっと良い。
 酒も出てくるとそれは山芒で作ったものらしく、紫沈で飲める物とは味が違っていた。
「甘い酒だなぁ。梅酒とは違うし、何の酒だ?」
 梅の声に給仕をしてくれていた女が答えた「コクワですよ」
 コクワとは猿梨の実の事だ。言われてみれば鼻に抜けていく香りが確かにそれらしく感じる。猿梨は山に生えるので平地で海抜も低い紫沈にはない。山岳地帯である山芒の特産物なのだろう。しかしそれにしては妙な飲みにくさがあって舌の上に残っていく。
「一年漬け込みますから、今お出ししているのは一昨年のものなんです。よく漬かってるから少しクセがあるかも」
「いやいや美味いよ。ありがとうお姉さん、俺は気に入った」
「まぁ。喜んでもらえて嬉しいです」
 ほろ酔いの梅が笑いかけると女は花笑み、恥じらうようにやや身を引いた。これは男に受けが良さそうだと思う一方で、男所帯の軍人の世話をしに生娘を遣るとも思えない。寡婦か、或いは見た目以上に年増なのか。
「そのままでも頂けるんですよ? 他には砂糖漬けも、あっ、ごめんなさいお食事のお邪魔を」
「謝る事はないさ。何だったらお姉さんも──」
 女からは見えない位置で卓からはみ出していた梅の足の甲を指で弾いて黙らせる。
 梅が急に黙ったので女は不思議そうに首を傾げたが、何でもないと手を振られると淑やかにお辞儀をして出ていった。
 最後まで手抜かりなく「給仕」を務めていった訳だが。
「何だよ、男の嫉妬はいくら俺でも食えないぜ?」
「先立つ物が無いのに女を口説いてどうする」
「……ハッ! いやいや! そのお綺麗な顔からそんな下世話なネタが飛び出してくるとは!」
 手にしていた酒器を置き、卓から身を乗り出して梅が顔を近付けてくる。仄かに甘い酒の香りが鼻を衝いた。
「『先立つ物』がありゃあ、俺はあんたの布団に引きずり込まれてたのかな?」
 にやにやと脂下がる梅を無視して、玲馨は残っていた酒に鼻を近付けてから舐めるように少しだけ口に含んだ。
 苦味があるのだ。それが飲みにくくさせている。酒でももちろん猿梨でもない独特の苦味。
 十年ほど前にどれだけ世話になったか知れない思い出したくもない味に気付いて、玲馨の顔が勝手に歪んだ。
「今晩はよく眠れるかも知れないな。明日の朝日を拝めないくらいに」
 玲馨の言わんとする事に気付いた梅はさっと顔色を変えて体を引っ込める。空っぽになった盃を得体の知れない物体でも見るように眺めてから請うように玲馨を見た。
「……な、何が混ぜられてたんだ……?」
「さぁな」
「お、おいおい」
「だが私やお前を殺す道理が無い。十中八九睡眠薬だが、もしくは催淫薬というのも……」
 催淫薬と言った瞬間にまた梅の顔付きが変わる。まんざらでもないといった様子だ。思ったよりもこいつは阿呆だなという感想を抱きながら話を続ける。
「恐らく兵士に一服盛るつもりで酒を振る舞ったんだろうが……」
 他の部屋に泊まっている兵士たちに知らせる必要があるか。しかしこれは好機かも知れない。女たちは紫沈から来た兵士に何をするのか、今夜一晩起きていれば分かるだろう。
「悪い事考えてますって顔になってるぞ」
「私は寝たフリをする」
「は?」
「女が食器を下げに戻ってもし訊ねられたらこう答えろ」
 こいつは酒を飲みすぎて酔っ払って寝てしまった、と。





 子の刻約二十三時に差し掛かろうかという頃、高楼の真っ暗な廊下を小ぶりの手燭で照らしながら進む人影が複数。どれも妙齢というには盛りが過ぎているが見目は悪くない。
 女たちは途中、道が別れている所まで来ると頷きあって別々に進んだ。
 特に愛らしい顔形をした女は高楼の一階、一番手前の部屋の前で止まり、中の様子をうかがった。
 何も聞こえない。この部屋の男は酒を飲みすぎて眠ってしまった。そうなると朝まで何をしても起きてこないだろう。
 扉を開ける手が微かに震えた。一度ぎゅっと目を閉じ覚悟を新たにすると、女はそっと音を立てないよう静かに扉を開けて、中へと侵入した。
 眠っている男が二人。昔は宿として使われていたこの高楼には古くなってしまったが各部屋に四つずつ寝台が置かれている。この部屋の寝台は半分が空っぽだ。
 残る二つのどちらに入り込むか悩んだ。顔は綺麗な方が好みだ。だけどもう一人の体の大きい方が精力的で良いかも知れない。
 うだうだとしているうちに、体の大きい方が寝返りを打った。その音にびくりと肩を跳ねさせ、女は決める。





「こんな妓女紛いの事を、一体何故?」
 足音が自分の方へ近付いてくるのを聞いて「こっちか」と面倒に思いつつ、女が自分の腰に跨ったところで玲馨は声を掛けて止めさせた。驚いた女がうっかり寝台から落ちて尻餅をつくのを上から見下ろす。
「おい、落っことすなよ可哀相だろ」
 梅まで起きていたと分かると女はたちまち目に涙を一杯に浮かべた。恐怖というより玲馨たちに起きて待ち伏せされていた事にびっくりして混乱し、反射的に出てきた涙のようだ。
 その反応で確信する。彼女は素人だ。
 そも都ならいざ知らず、こんな田舎の山村に妓楼のようなものがあるとも思えない。あれは色事に金を払う金持ちが居て初めて成り立つもので、田舎では夜鷹がせいぜいだ。夜鷹をしているにしては女の身形が綺麗過ぎる。
「騒ぐと他の兵士たちが起きてしまいますよ」
 泣くなと暗に言うと、女はますます怯え、梅は肩を竦めた。
「この顔が綺麗な奴は情けが無ぇんだ。ほら、こっちに座って。俺たちに事情を話してくれねぇか?」
 梅が優しく言うと女は怯えを残しながらも頷き、梅の寝台に腰掛ける。
 こんな事をすれば叩き斬られてもおかしくないのだが、女はそんな事にも頭が回らないらしい。本当にただの村人なのだ。男の寝所に忍び込むのにいきなり腰に跨ってくるあたり、経験そのものが無いのかもかもしれない。女と寝た事のない玲馨でも、彼女の様子は男慣れしていないと分かる。
「名前と歳、聞いてもいいかい?」
「ま、毛花鈴マオホワリンといいます。……二十四です」
 梅のまどろっこしい聞き方はしかし女を安心させるのにはちょうど良いらしい。尋問は梅に任せる事にする。
「他に一緒に来た子は?」
「私を含めて三人です。二人は二階に……」
 階が上がれば身分の高い兵士が居ると考えたのだろうか。しかし残念ながら今回の五十人のうち下士官以上の階級、つまり武官は片手で足りるほどしか同行していない。
 しかし毛花鈴がこの部屋に来たという事は事前に情報を得ていた訳ではないのだろう。残念ながらこの部屋で唯一「先立つもの」がある男は実家に里帰り中である。
 二階に上がった女たちが運良く武官の部屋を引き当てたかどうかも甚だ怪しい。
「酒に何を混ぜました?」
 玲馨が訊くと毛花鈴はたちまち身を縮めるのだがそんな事にいちいち構っていられない。半ば睨むように毛花鈴を見る。
「……睡眠薬です」
 やはり、と思う。
「か、体に害はありません! その、不眠の年寄りなんかが、使うので」
 害があるかどうかは濃度によるし薬を酒で服用したという心配もあるが、続けて飲まなければ健康な兵士たちの体に障りはないだろう。玲馨と梅は念のために夕飯を全て吐き出していた。
 仮に毒を飲まされていたなら、兵士たちは手遅れだ。が、花鈴がよっぽどの役者でもない限りそれは無いと見て良さそうだ。
「それで」
 目的は──?
 花鈴は核心を訊かれると、気まずそうに視線を下げて、もじもじと体を揺らした。今までの怯えきった反応と明らかに様子が違って玲馨の顔が怪訝に歪む。
「あ、あの……よ、夜這い、に……」
 間があいて、梅が吹き出す。
「じゃあ今頃どっかの部屋で花鈴の連れと兵士がよろしくやってるってか!」
 本当に体が目的だとは玲馨も予想外だった。暗殺を命じられた訳ではないとわかりひとまず胸を撫でおろす。
 玲馨は自分と梅、そして兵士たちの命を餌に彼女たちの目論見を暴こうとしていた。安心すると同時に今更良心が責めてくるようで気が重い。
「花鈴は、旦那も子も居ないのか?」
「ええ……」
 照れていたのも束の間、今度は疲れたような顔になって肩を下げた。よくよく表情の変わる女だ。
「兵士様方は、藍心を見て不思議に思われませんでしたか?」
 兵士と言われて梅が眉を跳ね上げたが花鈴は俯いているので気付かない。梅は何も言わないので代わりに玲馨が答える。
「不思議と言うと?」
「……若い男が居ないでしょう? 彼らは、徴兵で町を出て行くんです」
 花鈴は訥々と藍心、そして山芒の事情を語り始めた。
「昔は違ったんですよ? だけど二年ほど前から無理な徴兵が始まって、以来男たちは帰ってきません。国境の警備、あわいの警備に多くが連れていかれ、最近では山林の方で何かしていると……。そんなご時世ですから旦那や子がある女と、独り身の女とでは世間の見る目が違うんです。私たちはもう、肩身の狭い思いをしていたくないんです……!」
 若い男が居ないのに、女性が未婚を理由に虐げられる──。
 自らが治める領地に大きな矛盾を抱えさせて、木王もくおうである向青倫シャンチンルンは何かを企んでいるのだろうか。貴重な働き手も奪っているこの状態が長く続けば町は疲弊し向家の力も衰えていくというのに。
 山芒軍の事故、多発する崖崩れ、無理な徴兵。たった二日でこれだけきな臭い話が聞けるとなると、もう少し叩けば更に埃が積もる可能性が高い。
「仲間の女にもこんな事はやめるよう伝えた方が良いでしょう。万に一つ絆されてくれるとは思わない方が良い。寧ろはずかしめられるか、殺されるか」
「おい」
「……。もう二度とこのような事をしないと約束するなら、あなたたちの事は見逃します」
 漸く自分のした事態に気付いたか、毛花鈴はこくこくと何度も頷いて、梅の手を借りて立ち上がる。
 逃げるように部屋を出ていくその小さくか弱い背中に、自分たちが宦官であると告げて彼女の自尊心を傷つけてやる事を考えた。そうすれば二度とこんな馬鹿な真似はしないだろうと。
「猿梨の酒、次は薬無しでちゃんと味わいたい。良い酒でした」
 結局、口を衝いて出てきたのはそんな他愛ない事だった。猿梨の酒は確かに、ここ山芒の名産品と呼んで足るものだと思えたのだ。





 毛花鈴たちが一騒動起こしている頃、戊陽は向青倫の屋敷の客堂客間から出てひっそりと回廊を渡っていた。
 さながら盗人のごとく息も足音も衣擦れさえも立てないようにして進み、耳が何かを拾わないかと期待して母屋の前を避けて屋敷の左手へと回っていく。
 母屋で聞き耳を立てればそれらしい事を向青倫がぽろっと漏らしてくれるかも知れないが、さすがに見つかった時が恐ろしい。向青倫が相手では「厠を探して……」という言い訳も通用しないだろう。
 皇帝が自ら密偵のような事をしているのには、実は大した事情があるという事もない。単に眠れなかっただけなのだ。
 山芒に到着するなり向青倫の屋敷へ向かい、狸爺と一戦交えてその日の晩から翌日の正午過ぎまで戊陽は体を起こせなかった。ようやっとそれこそ厠へ行こうと寝台から起き上がった頃には昼時もすっかり終えており、李将軍には心配されてしまった。
 ところがしっかりと眠ったおかげで回復した戊陽は、二日目の夜、つまり今寝付けなくなって退屈していた所、少し屋敷を見て回るかと思いついたのである。
 気配を殺して歩いているのは退屈しのぎだ。本当にやましい会話を盗み聞きしようとは考えていないし、そもそんなに都合良く誰かが密談をしているはずがない。
 そう、思っていたのだが。
「──った。もう……には、会えない……と……」
 思わず扉にへばりつきそうになるのを堪えた。
 よもや、よもやである。本当に秘中の会話をこの耳が拾う事になるとは。
「必ず……ると、お伝え……た……す」
 話しているのは女と男だ。どうも隠れて逢引きをしているらしい。何だ逢引きかと思うがほとんど同時にこの壁の向こうに居る人物の正体を思い出す。
 向青倫の屋敷には現在向青倫夫妻とその一人娘の向峰シャンフォンだけが住んでいる。これは屋敷に奉公している侍女に聞いた話なので間違いないだろう。だとするとこの向こうから聞こえてくる若い女の声の主は──。
「あ、そんな急にっ」
「三年私は待ちました。私は早くあなたに触れたい」
「ああっ」
 何故こういう台詞ばかりはっきりと聞こえてくるのだろうと戊陽は頭を抱える。
 そうか向峰は既に生娘ではなかったか。
 では彼女が後宮に入れられる事もあるまいと考えながら、ここへ辿り着いた時よりもいっそう慎重にこの場を離れようとして、一歩下がったところで何かに尻をぶつけた。咄嗟に悲鳴を出さなかった自分を褒めたい。
「し、将軍! 何故ここへ来た!?」
 取り乱しているが小声である。
「陛下と私の部屋は隣り合っているのです。少し前に部屋を出られた時に私も目が覚めておりました。しかし随分戻ってくるのが遅いため、何かあったのではと」
「ない! ないから、いいか? そっと戻るぞ、そっと」
「は、はぁ……?」
 でかい図体を焦らせないようにゆっくりと回してきびすを返させる。自分もその後に続いて客堂の方へ戻りながら、戊陽はちらと向峰の部屋を振り返る。
 男の方の声を、どこかで聞いた事があるような気がしていた。





 禁軍兵たちが寄宿している藍心から件の事故があった駐屯地までは、徒歩で大体二時辰約四時間ほど東に進んだ所にある。途中道は二手に別れており南を行けば岳川の支流へ続き、東を行くと領都を抜けて駐屯地へと行く事が出来る。
 藍心に到着して三日目、日が上るより早く起き出して兵士たちは東へ向けて出立した。数名ほど寝不足の兵士が疲労困憊で殿しんがりを歩いたのだが、彼らは互いに事情を察し黙っていたという。昨晩は女など来なかった。
 駐屯地に辿り着く頃には空はもうすっかり明るくなっており、山芒軍の兵士たちが崩落現場を同心円状にぐるぐる回って救助活動を始めていた。
 事故から十日以上が過ぎて未だ救助活動が続いている事にも驚いた。が、先導していた山芒出身の兵士は何よりも崩落現場を見て絶句する。
 そこは地面が広範囲に渡って陥没し、事故に巻き込まれた建物の残骸が土砂に塗れて落ちていた。
 穴は深く、補助具なしでは人が入れる深さではない。落ちて打ちどころが悪ければ即死の高さだ。
「こりゃ酷い……」
「深夜に兵舎が丸ごと落ちて、崩れた屋根に押し潰されたってよ」
 里帰りして実家で事情を聞いていた兵士が気の毒そうに呟いた。
「三十人は死んじまったって」
 死傷者は合わせておよそ百名を越す。うち三十一名の死亡が確認され、重軽傷者が六十五名、行方不明者が二十余名見つかっていない。
「李将軍!」
 誰かがその名を呼ぶ声がすると禁軍兵は一斉に将軍へ向き直り素早く抱拳礼ほうけんれいをする。
「皆揃っているな。状況を説明後、我々も救助活動にあたる」
「はっ!」
 武人らしい猛々しい返事のあと、僅かな沈黙が余韻を残した。数名の兵士が顔を見合わせ、李将軍の近くにいた兵士が代表して静寂に流れた疑問を口にする。
「事故発生から既に十日以上経過しているようですが、我々が穴へ降りる事に意味はあるのでしょうか?」
 聞きようによっては生存者の可能性を切り捨て見殺しにしろと言っているようにも聞こえるかも知れない。しかし当然出てくる疑問でもあったため、李将軍はその兵士を咎めはしなかった。
「意味ならある。虫の息だろうと生きてさえいれば、陛下がお助けなさる」
 実のところ本当に虫の息だったら助からないのだが、そんな事は李将軍の知るところではない。
「はっ」
 皇帝陛下自ら山芒に来た理由を、若い兵士たちは知らない。見当さえもつかない。
 皇帝が致命の怪我人を救うと言われても理解は出来なかったが、疑問を投げた兵士は素直に引き下がった。
 禁軍が救助活動に加わると、助け出されなかった死体がいくつも上がっていった。
 しかし掘れども、出てくるのは死体ばかり。事故発生から十日超という過日の重みが兵士たちにのしかかる。




 ふと、昼を越えた頃、休憩のために現場から少し離れた所に座っていた兵士が呟いた。「何で俺たち呼ばれたんだろうなぁ」
 呟きを聞き取った別の兵士は答える。「人手が足らなかったんだろ?」
「何の?」
「そりゃ救助活動だろ」
「でも何でこんなに山芒兵は少ないんだ? 最低限って感じじゃないか。そんなに国境警備って大事か?」
「大事に決まってる。けど、確かにもう少し警備兵をこっちの救助活動にあてていれば、俺たちの出る幕はなかったかもな」
「……俺たち、何で呼ばれたんだろうなぁ」
「さぁなぁ。木王に何か企みがあったのかもな」
「どんな?」
「知らねぇよ」





 救出された大勢の怪我人たちは向家の屋敷もある領都株景ジュージンの寺院へと運んで怪我の治療を行っており、戊陽は宦官と共に寺院の方へ来ていた。
 本来なら説法を聞かせるための静粛とした講堂に傷に苦しむ呻き声がひしめき、線香の代わりに血や垢の匂いが充満している。換気のために開けた扉の向こうは、さながら地獄を描いた光景が広がっていた。
 戊陽はいつか見たあわいの集落を思い出す。
 あわいには人が住んでいる。貧民街にすら住まう事が出来なかった浮民が、あわいと領地の境界で夜毎命を妖魔に吸われる夢を見て生きている。
 悲惨と言う他ない有様に、幼い戊陽は酷く衝撃を受けた。同い年くらいの子供が、子供のはずなのに手足が枯れ木のように細くしわくちゃになっていた。
 妖魔は人間の生命を吸う。吸われた人間は痩せ衰えて死んでいく。
 妖魔に触れたら枯死すると言うが、実際には触れずとも傍を徘徊されるだけで緩やかに生気を吸われていくのだ。浮民の痩せた体は決して飢えばかりが原因ではないのだろう。
 死臭漂うあわいの集落と、この講堂に漂う退廃した気配はよく似ていた。
薬師くすしはいるか。重篤な者から順に私が助ける」
 怪我人たちの苦しげな呻きを消し去るように、戊陽の凛とした声が講堂に響き渡る。
 戊陽の言葉に反応して一人の男が坊主頭を持ち上げた。怪我もなく具合が悪い様子もない。格好や雰囲気からして彼が薬師だろう。戊陽は男に近付き、男が手当てをしていた怪我人を見る。
「あ、あの、あなたは一体」
「私が誰かは追って話す。ひとまず紫沈から救援に参ったとだけ」
「はい……」
「その者の傷を見せてくれ」
 戊陽の立ち居振る舞いに何かを感じ取ったか、薬師は横にずれて場所を譲る。
 戊陽は寝かされた怪我人の横に座ると「どうか私を信じてくれ」と声を掛けたが返事は返らない。怪我人は話す事が出来ないらしい。原因は分からない。
 代わりに包帯に埋もれた目玉がきょろりと動いて戊陽を見上げる。その目に浮かんでいるのは恐怖や怯えのようだった。
「頼む。恐ろしいなら傷の軽い所から治そう」
 怪我人の顎ががくがくと震え始める。今も痛んでたまらない傷に何をされるか分からないとあっては、その反応も当然だ。
 出来れば彼にも「治したい」「治してほしい」と願ってもらいたい。その方が癒やしの力が発揮しやすいのだ。どうしても拒絶するなら無理矢理にでも治す事は出来る。
 だが、果たしてそれが必ずしも正しいと呼べるのかを、戊陽は知らない。生きたいと願わない者が世の中には居る事を戊陽は知っている。しかしこの兵士は違うだろう。恐怖は生きたい事の裏返しのように思うのだ。
 少しだけ待った。じっと怪我人の目を見つめて待った。
 やがて怪我人は震えながらも動く左手を持ち上げ戊陽の前に差し出してくれる。
「感謝する……!」
 その手をしっかと握りしめて、指についた擦過傷だけを治してやった。
「な、何が起きたんだ!?」
 隣で一部始終を見ていた薬師がたまらず叫んだ。固唾を飲んで見守っていた周囲の人間たちにも動揺が広がっていく。
 指の怪我だけを治された男は誰よりも信じられない思いで自身の手を見つめていたが、すぐに戊陽を見上げて唇を動かした。「助けてくれ……っ」
「承知した」
 戊陽は一際傷の深そうな腹の辺りに手を置いて、気を集中させる。
 ここは紫沈ではない。だから大地に流れる地脈の質が戊陽とは完全には交わりきれないようだ。しかし、少し時間を掛ければ地脈からいらえがあった。男の体に流れる気も協力的だ。
 やがて、戊陽の手が傷口から離れていく。いつの間にか耳に痛いほどの静寂が降りていた。
 血をぐっしょり滲ませていた包帯はそのままで見た目には何も変わらない。傍目には戊陽がただ無言で男の腹を擦っただけに見えていた。
「……っは、あ……? 痛みが、引いた……」
 隣で薬師が息を呑む気配があった。
 戊陽が手を退けたそこへ、自分の腹へと男は恐る恐る触れてみる。痛くない。そこにあった穴がない。傷が腑にまで達してもう助からないと言われた。それがすっかり塞がっていた。
 遅れてじわりと涙が浮かんできて、男は戊陽の手を痛いくらい握り締めて感謝の言葉を口にした。手に伝わる骨が軋むようなその痛みが、命を救えた確かな証だと戊陽に伝えていた。
「一言話すたびにまるで命がこぼれていくようで恐ろしかったんだ。ありがとう……ありがとう……!」





 時は遡って藍心へ到着したその当日、向青倫の屋敷を訪れていた戊陽と李将軍はそこで事故の詳細を聞いていた。
 事は二週間前に、岳川本流の右岸で起きた地下水噴出に起因する。
 向青倫は岳川の川幅を広げるための工事を山芒軍に行わせるため、国境警備から人員を割いて一月ほど前から作業に当たらせていた。
 工事は川下から順に始め、先日漸く上流付近の工事に着工したところ、右岸の地面から地下水が噴出した。工事は一旦中断せざるを得ず、三日ほど駐屯地にて待機命令が出される。
 そして間もなく三日が過ぎようという日、山芒軍が駐屯していた兵舎まるまる一棟を飲み込むようにして、地面に大きく穴が空いた。地下は漏れ出した地下水が抜けた事で空洞になっており、四階建ての兵舎を支え切れずに陥没したのだ。
 現在は完全に水が抜けきりこれ以上の陥没や地盤沈下の心配はないだろうと学者が予測を立てている。
 向青倫はそこまでを説明した後、現場の山芒軍兵士を一人呼んでおり、その者に現在の活動状況を説明させた。
 死者と怪我人がそれぞれ多数出ている事、そして今なお行方が分かっていない者が居る事を説明されて、戊陽はひとまず二日目を禁軍兵の休息に当てる事を決める。六日に及んだ行軍がいかに体に負担を掛けていたかは自分自身が身に沁みて理解していた。
 禁軍兵は翌日から救助活動に当たらせものとし、戊陽は怪我人の治療に当たる事を告げると、そこで向青倫は神妙な面持ちになって「陛下」と一気に老け込んだ声で言った。
「陛下、私には息子が二人おります。長男は宮廷に仕官し文官となりました」
 向家長男の顔に覚えがあったので頷く。
「次男は武芸の才があり、部隊を指揮する力も求心力もあった。故、この株景に跡目として残しました」
 この先、向青倫の口から何が出てくるかを概ね察してしまい、戊陽は胸が重くなるのを感じていた。
「息子たちは逆を希望しておりました。しかし私は山芒と向家のためとあの子たちの希望には沿いませんでした」
 結果、どうなったのか。
 向青倫の唇は震えていた。狸だと思った男が人に、人の親に戻る瞬間を見ている。
「次男は未だ遺体すら見つかっていないのです。──陛下。どうか、どうか我が息子をお救い下さい」
 向青倫は椅子から立ち上がると、その場によろよろと膝をついて叩頭こうとうした。始めの厳とした振る舞いは彼の虚勢だったのだ。
 戊陽の隣に座っていた李将軍の放つ気配が俄に堅い物へと変わる。李将軍はよく知っていた。向青倫が戊陽どころか彼の兄である先帝の事も軽んじていた事を。
 戊陽は李将軍を手で制し、向青倫の前に立つ。
「人の命に貴賤はない。私は私の力で助けられるものはあまねく助けたいと思っている」
 たとえ自分を馬鹿にしていた男の息子だろうと、見捨てて良い道理は無い。
 向青倫は頭を更に床に擦り付け、「これまでの数々の非礼をお詫び申し上げます」と謝した。





 山芒から急使が来た時の事を思い出す。
 届けられた書状には事故が起こり死傷者が出ているという事を簡潔にまとめてあるだけだった。どこにも向家の次男の話はなく、向青倫から直接話を聞いて漸く腑に落ちた。
 やはり謝罪こそすれ、あの男は狸に違いないのだ。
 まず向青倫の次男が跡取りであるという話題が初耳だったのは、山芒に配置している監察官──刺史が向青倫にすっかり抱きこまれているせいだ。長男が紫沈に居るので或いはという疑いだけがあった。
 証拠というように皇帝自ら山芒を訪れているというのにまるで刺史は煙になって消えたかのように姿はおろか名前も聞かない。自分が仕事を怠り中央への報告を行っていない事への処罰を恐れて隠れているのだ。
 そして次に、山芒からの急使に次男の事を伝えさせなかったのは、東西南北の領地を治める四王は互いに出し抜き牽制しあう関係だからだ。
 跡取りが没すれば、向家は長男を呼び戻すか縁戚から次を見繕わなくてはならないが、紫沈に行かせた長男にはどんな唾がついているか分からないし、集権的である山芒において向家以外の貴族となると力も地位もとかく弱いという事になる。
 そうなった時、誰が山芒の次代を狙うかといったらやはり他の三王になるのだ。向家の周辺貴族をたぶらかし、向家に取って代わって山芒を治める事になれば、山芒はその裏で三王のいずれかに支配されるという事になる。つまり四つあって釣り合いの取れていた関係が、一気に傾くのである。
 それは山芒だけに留まらない大きな問題となり、当然皇帝のお膝元たる紫沈にも混乱は及ぶ。
 向青倫にとって苦渋の決断だったろう。是が非でも助けたい次男を半ば見捨てる選択をしたのだから。しかし、向青倫にはもう一人息子が居る。長男だ。跡目に相応しくなかろうと、長男は中央で官吏として働いていたのだから、戊陽の人となりについては詳しかったはずだ。朝議での態度に官吏や宮女たちからの評判。それら長男が見聞きしてきた情報で描き上がった戊陽という皇帝像は、果たして向青倫の目にどう写ったのか。恐らく「ひとつ賭けてみよう」と思うものに出来上がっていたのではないか。
 そうして急使は戊陽の元を訪れた。皇帝への謁見を待たず、宰相へ伝える事をせず、監察官に花を持たせる事もせず、戊陽が休んでいた離宮へ直接山芒の窮地を知らせてきた。
 来ると思ったのだ。向青倫は、戊陽という人間ならば自ら山芒に赴くと確信していた。
 やはりこれは向青倫の企てだったのだ。戊陽はまんまと山芒に誘き出されたのである。
 しかしそれを知って戊陽が自身の行動を悔いる事はない。癒やす力を持って生まれて何を出し惜しむ必要があるというのだろう。
 そうと決めた戊陽は橋での戦いで消耗した体力を万全にするべく山芒に着いて二日目は丸一日休息をとった。夜中の出来事は一旦忘れておく事にする。
 癒やしの力は体力を大きく消耗する。使い過ぎて戊陽がたおれたら元も子もない。皇帝が短い期間に代わり続ければ国は乱れ、救った人が明日死ぬ世界になり果てる。それは避けなくてはならない。
 歯痒い思いを三日目に託し、寺院にて治療を開始した戊陽は怪我の状況が悪い者から順々に診ていった。
 治すのは重篤な部分だけ。命に障りなくば自然治癒に任せる。
「……っ」
 額から滴った汗が目に入り、戊陽はいっとき意識が遠退いていたと気付く。自身の手の下にある体には、肉と骨と皮がきちんとついて内蔵を守っている感覚があった。意識を飛ばしても治そうとした自分に苦く笑うしかない。
 外は日が傾き始めていた。禁軍は藍心に戻る事を考えるとそろそろ今日の活動は終わりになる。
 ──見つからなかったか。
 事故が起きて今日で十四日目。戊陽が寺院で力を使い始めて二日目。
 救助に加わった禁軍は遺体を掘り起こして遺族に返すために働いている。若い兵士たちで構成された今回の行軍、ほとんどが戦を知らない世代でこんなにもたくさんの負傷者や死体を見るのは初めてのはず。恐らく明日、明後日と更に作業が続けば禁軍側にも体調をおかしくする者が出てくるだろう。せめて一人でも助かれば気持ちが報われるというのに。
 突然ガタン、と激しく扉が開く音がして、講堂中の視線がそちらへ集中する。入り口に禁軍の兵士が泥だらけになって何かを抱えて立っていた。
「へ、陛下、辛うじて息があります!!」
 反射的に立ち上がって兵士から怪我人を受け取る。人相が分からなくなるほど泥と血に塗れて、指先のほとんどの爪が剥げてしまっていた。泥を掘って出ようとしていた傷だ。しかしその傷も泥を詰まらせたまま時間が経って乾いている。爪は二度と綺麗には生えてこないかも知れない。
 それ以外に見た目に目立つ外傷はなかった。中で骨が折れて内蔵を傷つけているのか。それとも頭を打ったのか。十日以上飲まず食わずで閉じ込められて意識を保っていられなくなっても何ら不思議はない。だけど確かに息はあるのだ。胸がほんの微かに上下している。奇跡だと思った。
「水と清潔な布を持ってきましたよ」
 薬師の男だ。彼は講堂に寝かされた大量の怪我人をたった一人で面倒を見ていた。戊陽が来てからも休む事なく戊陽の補助をしてくれている。
 戊陽が治す傍らで薬師が怪我人の顔や手足を拭っていくと若いらしい事が分かった。戊陽とそう変わらなく見える。駐屯地の兵舎に寄宿していた兵士はどれも若い兵士たちばっかりだったという。
 助けたい。助かってほしい──。
 その時、ふ、と視界が真っ暗になった。力を使い過ぎてしまっているのだ。
「あ、あぁ……! この人は向青倫様のご子息だよ……!」
 顔の泥が拭われていくのを傍で見ていた山芒軍兵士の悲鳴に近い声が、落ちかけていた戊陽の意識を繋ぎ止める。
 動揺はたちまち講堂内に伝播していき、ついさっきまで起き上がれなかった患者たちがわらわらと戊陽たちの周りに集まってくる。
『次男は武芸の才があり、部隊を指揮する力も求心力もあった』
 向青倫の言葉が思い出される。彼の目に間違いはないようで、戊陽の手元であえかな呼吸を繰り返すだけの若者を、皆が心配そうに見守っていた。
「……呼吸が、落ち着いてきました……!」
 叫ぶ薬師の声が遠くに聞こえる。わっ、と歓声が上がったが、戊陽は全身から力が抜けていく感覚に頭の先から引っ張られて体が傾ぐのを止められなかった。
 ゴトン、という重たい音を他人事のように聞いたのを最後に、戊陽の意識は途切れる事になる。
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