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兜①

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 つ、つ、と皮膚の凹凸に引っ掛かりながら蟀谷を伝う汗の感覚に肌が粟立った。暑い。棒をしっかりと握り込んで前後に擦ると、動きに合わせて汗がキラキラと飛び散っていく。

「はぁ……はぁ……」

 水の音がしてドキリとし、そっと上体を起こした。溢れている。灰皿に張っておいた水が。

「だぁ~~!! っもう! 部屋居ろつったろ!」
「ごめーん」

 謝る気無ぇー!



 鍼灸院のテナントだけが入っている五階建てビルと〈羽時煙草店〉との間に張った軒下テントの狭い空間。そこは真っ青なベンチと円筒形の灰皿を設置しただけの簡易喫煙所になっている。奥に行くと用途不明のコンクリ塀とかち合うのでそっちは行き止まり。
 喫煙所側から店の裏手に広がる庭師とは無縁の雑木林の方に行こうとすると、店の正面から回り込まなくてはならない。雑木林の育ちっぷりは、世が世なら近隣トラブルの元になって警察なり役所なりの人間が呼ばれていただろうが、今の日本は行政が半分崩壊しているのでその心配は無用。というか、コンクリ塀に囲まれた家屋に人は多分住んでいない。
 未成年が堂々と交番の前で煙草を吸っている程度では補導されないくらいのいい加減さだから、自分の身は自分で守らなくてはならない。
 喫煙所の怖いところは火の不始末による火事だ。築四十年目に突入した〈羽時煙草店〉は木造で、さぞや豪快な焚き火が出来上がるだろう。隣のビルまで燃えて鍼灸院の腰の曲がった爺さんまで一緒に燃やしてしまうのも忍びない。
 そこで活躍するのが水だ。円筒型の灰皿は、一番上が煙草の吸い殻を入れられるような網状になっているよく見かけるタイプのもので、その下に吸い殻を溜めておけるバケツのような受け皿がある。基本的には火を消し忘れても受け皿に落ちて勝手に火が消えるが、吸い殻が溜まっていたりすればそいつに火が移るし、火がついたまま横倒しになれば何かに燃え移る可能性は無きにしもあらず。
 そこで京介の祖母は受け皿に水を張る事にした。上の網から火がついた吸い殻が落とされても、下の受け皿に入った瞬間ジュッと音を立てて火はあっさり鎮火する。なるほど考えたなと感心したのは店を預かった最初の一日だけで、十日ほど放っておいたところで冬にも関わらず虫が湧いた。吸い殻は受け皿に溜まりまくって網から山と溢れていた。
 以来、必ず店仕舞いをする時に毎日水を変えるようにしていたのだが、昨晩はすっかり忘れてしまっていた。夕方から風が強くなり始め早めに閉店したのでルーチンから外れたせいだろう。間抜けである。
 朝目覚めてすぐにその事を思い出した京介は片付けに来たが、そこには嵐によって横倒しになった灰皿と、吸い殻を全身に浴びた真っ青ベンチの無残な姿が晒されていた。当然地面にも吸い殻やふやけたフィルター、ガムの包み紙に、煙草の透明のフィルムが混ざって散らかっている。パンチの効き過ぎた眠気覚ましにげんなりしながら、ゴミを集めバケツに水を汲みデッキブラシでヤニ臭さを落とそうと精を出していた時だった。

「それ、煙草汁だから今日一日足からヤニの匂いが上がってくるぞ」
「ええー……嫌だー……」

 受け皿に残った水に思い切り片足を突っ込んだ状態でウジの様子が空気を抜いた浮き輪のように萎んでいく。

「客でも取るつもりだったのかよ。俺やめろつったよな」
「違う。手伝おうと思って来た」
「…………そうかヨ」

 ゴシ、ゴシ、とデッキブラシで茶色い水たまりを掃き、排水溝に流していく。ウジは黙って受け皿に足を突っ込んだままでいた。その状態で自分が動けばまたヤニ水が広がってしまうという発想が出来るくらいには頭は悪くない。

「……あー! シュンとすんなよなぁー! そっから出してやるから、風呂入って来い!」

 バケツの水を汲み直し、車道脇の側溝まで連れていって綺麗な水で足を流してやる。激安の殿堂で売っていそうなスリッパは、すり減ってぼろぼろだった底の白い部分がまっ茶色に染まってしまっていた。これはもう捨てるしかないだろう。ウジの足からスリッパを脱がしてベンチの下に放る。

「あ」
「捨てろ捨てろーボロボロじゃねぇか」
「一張羅」

 まじかよ。



 タッパは一七〇無いくらい。推定十代後半、自称二十歳の男。それを抱えて行こうとすれば普通に重い。内臓と骨と皮と、最低限の脂肪で出来た人間の体だ。が、それにしたって軽かった。五十キロあるかどうか。うーんぎりぎりか。
 太れない体質なら割とこんなもんだろう。ひょろっとしていて胴も薄い。年齢を考えればまだ内臓が育ち切っていないから、ここから五~十年ほどかけてもう少しどっしりとしてくる。

「……お前、食ってるか?」

 とは言えこいつの荒んだ生活状況を知っているとそう聞かずにはおれない。
 腹に手を回して担いできた体を大人一名様分しかない浴室のタイルの上に下ろす。この店の風呂に浴槽はない。縦横こじんまりとした京介の祖母は大きな金盥にお湯を張って子供だましのような浴槽に浸かっていた。シャワーはあるが祖母は嫌ってあまり使っていなかったらしく目詰まりしていたのでホースからノズルから京介が新しくした。

「食ってる。朝はスルメ食った」

 それは知っている。店の中にスルメ臭が漂っていたので窓を開けたのは京介だ。

「他は?」
「昨日は、パン。ジャムとマーガリンが入ってるやつ。俺アレ好き」

 細長いパンを頬張って、パンの尻から押し出された白いマーガリンがにゅるりと飛び出してくる様を想像して溜め息をつく。
 食ってはいる、確かに食ってはいる。
 京介は喉まで出かかった言葉を引っ込めた。成り行きでもう二十日ほど泊めているが、ウジの人生に口出しはしない。関わればろくな事にならないと、案外金のかかる高級品で丈夫な高校ジャージと着古したTシャツと激安スリッパが一張羅なんて宣う辺りに臭いくらい滲み出している。いや、一張羅なのはスリッパだけか。

「服は貸してやるから」

 ウジの持っている服は上下それぞれ二着だ。上は襟と袖がよれよれの白いTシャツとフードつきの黒い長袖パーカー。下は高校ジャージの短と長。京介のところに転がり込むまでどうしていたのかと聞くと、日付が変わる前に鍵を開ければお金が戻ってくるロッカーがあり、そこに朝預けて夜回収していたという。
 ヤニ水に高校ジャージの裾もしっかり浸かってしまっていた。おかげで換気扇の壊れた浴室に異臭が充満し始めている。

「裸足でも歩けるけど、ジャージは捨てないで」

 ウジはジャージを脱ぎながら淡々と言う。ぐさっとくる一言だ。

「捨てねぇよ。ジャージはそのまま風呂で洗え。ボディソープで洗うなよ。固形の方使えな」
「分かった」

 浴室を出てベンチまで戻って嘆息した。汚れたスリッパは吸い殻と共にゴミ袋に入れてしまう。ウジを浴室に運んでいた間にヤニ水はだいぶ側溝の方に流れていた。最後にバケツの水で全体を流し、ベンチを雑巾で拭きあげて、灰皿を元の通りに立たせる。そのうち風くらいでは倒れないような方法を考えなくてはと思いながら、京介はゴミを出して財布をポケットに正面の横断歩道を渡り始める。
 歩道を渡った先の一本入り込んだ路地の続きに、激安の殿堂がある。何でも売ってるディスカウントストアだ。ここがウジの台所と言っても過言ではない。
 今日のところは食料品に用はないので、さっさと目的の物を見繕って店に戻った。
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