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第三章 ギルバード侯爵家のメイド

芽生えた想い、そして葛藤

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 同僚メイド達からの尋問を終え、ようやく解放された私は自室へと帰って来た。

「――はぁ。 何だか、とても疲れたわ……」

 溜息混じりに呟いて、私は帰ってきたその身そのまま寝台へと歩み寄ると、そこへ倒れ込むように身を投げる。

 ――ぼふん、と柔らかい感触を頬に感じながら私は今日の出来事を振り返る。

 黄金色に輝く太陽、焼けた空、海、静かに響き渡る小波の音。あの美しい海の景色を2人きりで、2人だけの時間を共有した。
 相手は雲の上の人。私なんかがどうこう考えていい人では無い。
 住む世界が違う。あまりにも遠い存在。なのに、2人で見たあの景色、穏やかな空気感、それでいて高揚感に胸を躍らせたあの時の事が頭に焼き付いて、まるで雲の上の存在のその人の事を私は――

「ち、違う……そんなんじゃ……」

 慌てて飛び起き、心を侵食してゆく色めく何かに待ったをかける。
 
 ――認めちゃいけない。あってはならない。

「旦那様と私なんかとでは何もかもが違うのよ……」

 先程、同僚達が騒ぎ立てていた元凶――彼女達が耳にしたという旦那様の声。

 ――『エミリアは俺の女だ!!』

「あるわけないじゃない。そんな事……」

 『――全くのデタラメで、嘘だ。何かの間違いだ』

 旦那様が帰路で私へ告げた言葉――きっと、これが真実だろう。

「当たり前じゃない、そんな事。あるわけないのよ……こんなおばさんなんかの事を……旦那様が想っているなんて……」

 言いながらも蘇る、彼の胸の中に包まれた時のあの感覚。

 そう。きっとあの時だ。
 私の中の克己心が決壊し、何ふり構わず己の本能に支配されてしまったのは。

 ――何とかしなきゃ……。

 34にもなる私のようなおばさんが年下の上級貴族の、しかもその人は世界的英雄……そんな相手に恋心を抱くなんて、身の程知らずにも程がある。私なんかが想いを寄せていい相手ではないのだ。
 自制心を総動員し、何とか事態の鎮火を図る。が、彼と過ごした夢のような記憶がそれを阻む。

 『……少し、話さないか?』

 彼の優しい言葉に、まるで身分の格差など無かったような錯覚を覚え、勝手に彼との繋がり合いを感じ、

 『領主たるもの、領民の幸せを第一に考えるのは当然の事だ』

 領民の幸せを誰よりも願う、彼のその優しい人となりに全幅の信頼と尊敬の念を抱いた。

 『――きゃ!!』

 そしてあの時、
 
 『――っと……』

 不可抗力で彼の胸に飛び込んでしまったあの時、

 『――!!』

 彼の温もりを肌に感じ、身悶えする程の幸福感を体全身で味わってしまった。

 『……乗れ』

 強く大きな背中にこの身を任せた時もそうだった。同じように幸せを噛み締めた。

 ここまで深く鮮明に刻まれてしまった彼の記憶。本当なら小さな出来事だと思いたい。
 主人とメイドとの何気ないやり取りだと。

 彼の胸へ飛び込んでしまったのはただの事故だと。「あ~、ごめんなさい」と、軽く笑って飛ばせるくらいに思いたい。
  
 何て事は無い。気に留めようにも留まらない。記憶の片隅に自然と追いやられてしまうような、そんなどうでもいい事として処理してしまいたい。
 それが出来たならばどんなに楽だろうか。

 まさか、この歳になってこんな感情を抱くなんて思ってもみなかった。

「……どうしよう。この気持ち。本当、私って身の程知らずね……」

 忘れようにも、忘れられそうにない。一体どうすればいいのだろうか。

 結局、私はその答えを出せぬまま、眠りに落ちていったのだった。



 あの日以来、私と旦那様との関係性にこれといった変化は、当然ながら何も無く、以前と変わらぬ主人とメイドの関係性を保っていた。
 
 領主としての苦悩を漏らすといった弱い部分も、少し砕けた感じの雰囲気も、今の旦那様からは見て取れない。

 紅茶の給仕の際にも、私へ向ける言葉数は少ない。

「失礼致します、旦那様。紅茶をお待ち致しました」

 旦那様は厳しい目つきでただただ書類へ視線を落としたまま、

「……そこへ置いててくれ」
 
「かしこまりました」
 
 こうした最低限の言葉のやり取りのみで、視線を上げる事すら無い。……いや、無くなった。
 以前はもう少し旦那様の優しい微笑みが見れていた気がする……。

 もしかして、避けられてる?



 私はメイドとしての仕事に、より一層打ち込むようになった。
 幸い、この職場環境は私の肌に合っているようで、良い人間関係にも恵まれている。
 高額と想定していた報酬もその想定を上回ってくるもので、念願のお洒落を思う存分楽しめるようにもなった。

 何不自由ない暮らし。楽しい毎日。将来へ対する安心感。

 こうして娘に心配掛けずに、自分の力だけで生きていける環境を手に入れた。
 まさに理想郷。これを得る為に私は貧民という身分でありながら、『貴族家の使用人』という高いハードルに挑んだのだ。

 私の目指した目標。辿り着けた世界。新たな人生――歩く道標。希望に満ちた未来。

 ――私は今、幸せだ……。

 

「これは?」

「リデイン子爵家の使者が訪れて来て、これをエミリアに、と――」

「はい、ありがとうございます……」

 クライン様から手渡されたのは一通の便り。一体何事かと、変な胸騒ぎを覚えながらもそれを受け取る。

 クライン様も、私とリデイン子爵家との関係性を知らないが故に、疑問の目で私を見つめる。それを受けた私は答えるように口を開く。

「えぇ……私の娘の嫁ぎ先がリデイン子爵家でして……」

「何と……これは驚きました。貴女に娘君がいる事は伺ってはいましたが、まさかその娘君があの『ギルバード領一の美少女』だったとは――」

 クライン様は目を剥き驚きの表情を浮かべ、直後、私の顔をじーっと見つめながら更に言葉を継いだ。

「――平民でありながらも、その美貌が故に貴族から求婚を受けた……ですか。なるほど。お目に掛かった事はありませんでしたが、貴女の娘と聞いて納得しました」

 え?何に対しての納得?

 それと、正確にはアリアはマルク様に求婚されたわけではない。
 むしろその逆だった事を今ここで訂正するのも無粋な事と判断した私は苦笑を浮かべてこの場を誤魔化した。

 それにしても、わざわざこんな便りが私へ届けられるなんて、アリアの身に何かあったのだろうか。

 そんな胸騒ぎを覚えながら便りを手に自室に戻った私はそれを開封した――

 『其方と会って話がしたい。とても大事な話だ。明日朝迎えの馬車をそちらへ向かわせる』

 手紙に記された内容にアリアの事は一切窺えない。まるで私個人に用件があるかのような文脈。
 そして、これの差出人は――

「……リデイン子爵様?」

 子爵様が一体私に何の用件があって、こんな回りくどい事をするのだろうかと疑問に思う。
 頻繁ではないにせよ、愛娘に会いにリデイン邸へは定期的に訪れている。その時に子爵様とも歓談を交わしている事から、用件があるならそういった場で告げてくれてもいいはずだ。

「急ぎの用事って事?私に?」

 全くもって見当がつかない。兎にも角にも相手は貴族。平民が貴族から呼び出されたのならばそれに従うのが世の常。
 しかし、今や私は単なる平民ではない。

 そう。今の私の肩書きは『侯爵』家の使用人。

 ――明日がたまたま休日でした。という事であれば無論、明日の朝リデイン邸行きが決定付く。
 だが、明日もまた私は『侯爵』家の使用人として従事しなければない日。

 『侯爵』家での職務と、『子爵』家からの緊急呼び出し――

「このケース。一体どうすればいいのかしら?」

 どちらを優先すべきか議論が必要と感じた私はクライン様を求め自室を出た。

「――明日は特別休暇という事に致しましょう」

 クライン様はあっさりとそう私に告げた。
 
 良くて通常休暇の前借りだろうと、予見してた私は呆気に取られる。

「え?いいのですか?」

「えぇ。本来ならばリデイン卿のその申し出は当家の意の下で棄却する事ができます。ですが、あくまでそういった権限があるというだけの事。リデイン領は隣領土、友好性を保つ上でもそういった事は致しません。貴女はリデイン卿の仰せのままに従って下さい。ギルバード侯爵家の使用人として、そういう意味では明日も仕事だと思って行かれて下さい」

「はい。かしこまりました」

 私はクライン様へ深々と頭を下げた。
 


 翌朝、自室の窓から一台の馬車が正門を通過するのを確認して私は外へ出た。

「――主、ハワード・リデインの命を受け、やって参りました。……エミリア様、このまま当家の方までお連れしても宜しいでしょうか?」

 御者はメイド服でない事を確認した上で、再度、私へ意思を仰いだ。
 それに私は頷く動作で応え、御者に促されるまま馬車へ乗り込んだ。

 リデイン邸へ到着するや否や、屋敷の前には執事を中心にずらりと使用人達が並び、私に向けて一斉にお辞儀をした。

 真ん中に立つ執事が馬車から降り立った私へ歩み寄る。

「エミリア様、本日は急なお呼びたてにも関わらず応えて頂き誠にありがとうございます」

「い、いえ……」

 これまで幾度となく訪れたリデイン邸だが、ここまで大仰とした出迎えは初めての事。その様子に圧倒された私は緊急が走り、思わずぎこちない返しをしてしまう。

 その後、屋敷の中へと促され、私は先導する執事の後ろを歩き、その私の後ろに数人のメイド達が付いて歩く。
 丁重な扱いというか、まるで仰々しいその絵面に私は緊張感から変な力が入り、挙動不審に視線を辺りに散らす。

「――あれ?お母さん?」

 途中、アリアとすれ違ったが、私が来ている事を知らなかったのだろう。目を丸くしていた。その様子からして、やはりアリアは今回の件とは無関係である事がこれで確定した。

 本当に、一体何事なのだろうか?

 心当たりなどひとつもない。疑問は深まるばかりで、緊張からか鼓動も高鳴る。

「中で旦那様がお待ちです」

「……はい」

 頷き、開けられた扉を潜ると、

 バタン。

 直後、扉が閉まる音に慌てて振り返るが、

「――え?」

 閉じた扉。私ひとりだけが入室した形を確認したその時だった。

「――エミリア」

 背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
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