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第4話 姉

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「……シーラ?」

「……」

 天使は窓越しに空を眺めていた。

「シーラ!」

 ようやく俺の声に気づいて振り向く。

「え? あ、何っ?」

「変だぞ。具合でも悪いのか?」

「……ん……体調が悪いとかじゃないんだけど……ただ、最近、なんか変なの。時々、自分が自分じゃないような気がして」

 あの日からだ。シーラの様子がおかしくなっていったのは。
 意味の分からない言葉を呟いたり、今のように話しかけても全く気づかないというようなことが見られるようになった。
 俺は彼女の不可解な行動が翼を失ったショックから来ているものだと思っていた。

 シーラが新しい翼を失った後、暮らしはほぼ元の状態に戻っていたと言える。一緒に食事をとり、他愛のない話で笑い合い、何となく街を歩く。そんな些細なことでもシーラと一緒だと楽しかった。
 姉の姿を模した天使。
 外見は7年前の姉だったが、共有する時間が増えてくると記憶よりも儚く感じられた。でもそれは、俺が変わったからなのだと思う。
 あの頃と今では様々なことが違う。時が流れ、俺は大人になって、一人の女性を守れるくらいには強くなった。それなのに、俺がシーラにしたことは……。

「それじゃ、俺は仕事に行くから」

「うん……あっ、」

「ん、なに?」

 俺は立ち止まった。シーラは微笑み、

「……行ってらっしゃい」

「ああ、行ってくるよ」

 常に天使シーラの後ろには、姉シーラが重なって見えた。





 ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇





 少年と、少女がいた。


 少年は少女の弟で、少女は少年の姉だった。


 弟の名はアース。姉の名はシーラ。


 両親はすでに亡く、街で働くシーラの稼ぎだけで二人は暮らしていた。


 裕福とは程遠い生活。

 けれど、二人とも不幸ではなかった。


「もう食べちゃったの?」


 少年はいつの間にか食事を平らげ、姉を眺めていた。


「うん」


「もっと食べる?」


 少女は、弟に訊ねた。


「……いい」


 食べ足りなかったが、少年は我慢した。


「無理しなくてもいいのよ、アース」


「……無理なんてしてないよ」


 シーラは食べかけのパンを二つに分け、大きい方をアースに。


「ほら、食べて」


「……姉さんこそ、働いてるんだから、もっと食べないとだめだよ」


「大丈夫よ」


 優しく、シーラが微笑む。


「ぜんぜん大丈夫じゃないよ!」


 少年は、姉のことが心配だった。


「大丈夫。姉さんはね、アースが思ってるよりずっと強いんだから」


「……ほんとう?」


「ええ、本当よ。かけっこだって、まだまだアースには負けないわよ」


「ウソだぁ」


「あー、疑ってるわねー。それなら、明日勝負しましょ?」


 こくんと少年が頷く。



 次の日。
 約束通りに、少年と少女は草原を走った。二人が住む家から、近くにある大木に向かって。
 3度走って、アースは一度も姉に勝つことが出来なかった。


「ほら、分かったでしょう。姉さんはそんなに食べなくても、こんなに元気なの。だからアースは遠慮しないで食べたいだけ食べればいいのよ。わかった?」

 姉は、弟にそう言い聞かせた。

 両親の顔を知らない弟にとって、姉は母親でもあり、友達でもあった。
 姉にとって弟は、希望だった。

 仮に、この姉弟に別れがあるとしたら、それは何年も先の出来事。
 二人とも大人になって、別々の道を歩むために、にこやかに別れを交わす。
 再会を誓い、弟の額にキスをする姉。
 きっとこんな前向きな別れが似合ったろう。


 しかし、現実は酷だった。


 姉が、病気になった。
 医者を呼んだその日のうちに、助からないと言われた。

 弟は、日に日に痩せていく姉を見ながら、どうすることも出来なかった。





 ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇





 水面に闇空が映っていた。
 深い森の中にある泉。この辺り一帯がアースたちの狩猟場だった。
 天使狩りの方法は実に単純で、水を求めてやってくる天使を毒矢で射、飛んで逃げる天使を追いかけ、捕まえる。それだけのことだったが根気のいる仕事だった。狩りにおける大半の時間は待つことに費やされ、その間、集中力を維持しなければならない。

「今夜は引き上げるか……」

 ガットが弓に張られた弦を弛めはじめた。表情から緊張が解かれる。
 俺も湖畔に注いでいた視線を離して、ガットとニタを見た。

「来ねえ日はどんだけ待っても来ねえよ。明日に期待するとしよう」

「そうですよ、そうしましょう」

 ニタがガットに同意する。

「ああ、わかったよ」



 クラが遊びに来たのは、仕事から帰った俺がベッドに入って、眠気が全身を包みはじめたころだった。
 トントンという、ドアが叩かれる音がした。
 シーラが鍵を開ける音が聞こえ、

「あら、クラじゃない」

「おはよう、シーラお姉ちゃん!」

 クラはライザ婆ちゃんの孫で、今年で6歳になる女の子だ。婆ちゃんの家を訪れたときに何度か遊んだり食事をしたりしたことはあったが、この家に来るのは初めてだった。

「一人で来たの?」

「うん! お姉ちゃん、いつでも遊びに来ていいって言ったでしょ?」

「すごいわねー。一人でちゃんと来れたんだー」

 照れ笑いするクラの姿が、目に浮かんだ。

「…そう言えば、アースお兄ちゃんは?」

「さっき仕事から帰ってきたの。いま寝たばかりだから、起きるまでお姉ちゃんと遊びましょ?」

「うんっ!」

 まもなく、シーラとクラの話し声が聞こえた。
 眠ってしまう前にクラに挨拶だけでも、と思ったがやめた。

 意識が夢に包まれはじめる中、久しぶりに、シーラが俺以外の人との会話で心から笑うのを聞いた気がした。






 ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇






 ガットに訊かれたことがある。
 どうして幼い頃の俺にソーマを手に入れることができたのか、と。
 姉が死んで、自分を見失い、無意味に時間を貪り、腐っていく自身を見るのを唯一の楽しみにしていた時期のことだ。

 実に簡単なことだったから、俺は答えた。他人事のように。
 話を終えて冷笑する俺に、ガットは哀れみの目を向けていた。

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