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第40話

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「10秒前」

 腕時計の秒針を目で追いつつ、車椅子の細いタイヤに両手を添え、その瞬間に備える。

 宇佐美家うさみけ脱出計画第3弾。

 1と2は失敗に終わった。2度の失敗から得た教訓を生かし、新たな計画を立てた。お手伝いさんは買い物に出かけている。エレナは書斎だ。チャンスは今しかない。

「あと3秒……2秒……」

 予定通り、屋敷の2階の一室で目覚まし時計が悲鳴を上げる。同時に、私は屋敷の裏門に向かって車椅子を走らせる。

 エレナはたぶん、目覚ましが鳴り続けていることを不思議に思って部屋を出て、音を頼りに2階の突き当たりの部屋に向かって歩く。

 玄関とは対角線上に位置する場所だ。
 そこからであればどんなに速く走っても、私が裏門を出ることを阻止することはできない。

 案の定、易々と裏門から敷地外に出ることができた。
 脱出成功。

「勝った」

 3度目の挑戦でようやくエレナを出し抜くことが叶った──と思った瞬間、車椅子のどこかから電子音が鳴り響く。

 慌てて音源を探る。持ってきた小さなバッグの中に真新しいスマートフォンと水筒が入っていた。こんなものは入れてない。

 スマホは1通のメールを受信していた。私は画面に表示されている封筒のアイコンを開く。触るのははじめてなのに、使い方はなんとなく理解できた。

『コレと水筒は私からのプレゼントよ、大事にしてね。裏門開けておいたから。夕飯までには帰ってきなさい。理解ある優しいお姉さまより』

「……」

 エレナの巨大な手のひらの上で佇む自分の姿を想像する。でもすぐに思考を切り替えて、そうこなっくちゃ、と思うことにする。


**********


 乾いた風が前髪を揺らす。
 ゆったりと見慣れない景色が流れていく。

 夏の終焉間際の残滓を吸い込み、まとめて吐き出す。草の匂いが鼻孔を抜けていく。アスファルトから揺らめきながら湧き出る熱。解放感と僅かな不安。首筋にかいた汗をハンカチで拭う。私は麦藁帽子を深く被り直して歩道を進む。

 思わず駆け出したい衝動に駆られる。しかし私はまだろくに歩けない。
 ふらふらと、生まれたての動物のように頼りなく立ち上がり、十数歩歩くことができる程度だ。

 私は走る自分を想像する。
 風を切って通りを走り抜ける様は、思いの中でこんなにも自然なこととして受け入れることができるのに、体がまだそれを拒絶していることに苛立ちを感じる。

 間もなく、外に出てはじめて他人を目にする。
 腰の曲がったお爺さんが前方から歩いてくる。お爺さんは私に気づき、遠くからお辞儀をする。私もつられて頭を下げる。

 距離が近くなり挨拶をしてみると『こんにちは』と返ってくる。私は嬉しくなってもう一回挨拶をした。

 この世界には私やエレナやお手伝いさん以外にもたくさんの人がいる。そしてこの街のどこかに伊月進いつきすすむが住んでいる。今は夏の終わり。じきに秋が訪れる。

「……」

 このまま会いに……いこうか。

 でも車椅子の私を見て、伊月いつきはどう思うだろう。驚くだろうか。悲しむだろうか。私に会えて喜んでくれるだろうか。私は会って嬉しいと感じるのだろうか。最後の問いに、急に不安になる。

 私は、いつ、彼女の最後の言葉を届ければいいのだろうか。

 なだらかな下り坂を少しずつ下りていく。
 来た道を忘れないよう時々止まって周囲を眺める。スピードを落とし、注意深く進む。なるべく真っ直ぐ、歩道のある大通りを選ぶ。

 大きなトラックが何台も黒い煙を引きずりながら走り去っていく。私はそのたびにハンカチで口元を押さえることになった。

 途中で水筒をバッグから出して麦茶を飲む。自動販売機はあるけれど、私はお金を持っていない。見たこともない。

 しばらくのあいだ黙々と車輪を回す。
 スマホで確認すると時刻は15時を過ぎていた。2時間以上、ほとんど休むことなく前に進み続けた。様々なものを見た。多くの人と挨拶を交わし、すれ違った。

 後ろを振り返る。当然の如く屋敷は見えない。

 ずいぶん遠くまで来てしまったけど不安はなかった。いざというときは、エレナに電話をすれば迎えに来てくれる。

 私は小さな公園に入り、水道で喉を潤す。
 水筒の中身はとっくにカラだ。

 車椅子を降りて立ち上がり、ベンチに座る。心地よい風が周囲の木々の枝葉を大きく揺さぶる。公園の中心に、水の帯を垂直に吹き上げるだけのシンプルな噴水があった。

 霧状になった水飛沫が風に乗って次々と頬に当たる。
 少し目線を持ち上げると霧の中に虹が見えた。私は両手を合わせ、声に出さずに願い事を言う。ただなんとなく。その刹那的な光景は、願えばどんな願いでも叶えてくれるような、そんな強い力を私に感じさせた。

 太陽の輝きが弱まりはじめ、影たちは逃げるように何かの後ろに隠れていく。
 どこかで犬が吼えると、鳥たちは一斉に空に帰っていく。笑顔を向け合い、走り回る子どもたち。学生服を着た女の子が、隣のベンチに座ってカバンから本を出して読みはじめる。

 景色は留まることなく絶えず変化して無限の表情を湛える。
 やがて空が闇と混ざり青みを失う。

 虹はもう見えないし、子どもたちの姿もなかった。水道水を入れた水筒も再びカラになっていた。 

 スマホでエレナに電話をかける。エレナは私の居場所も聞かずにすぐ迎えに行くと言って切ってしまう。

 どうして私のいる場所がわかったのか知らないけれど、10分ほどでエレナが車で迎えに来てくれた。

 エレナ軽く微笑んだだけで何も言わない。
 私も何も喋らなかった。

 今度は目の前で裏門を乗り越えて外に出てやろうと思いながら、私は助手席に腰を埋め長く深い眠りに落ちた。

 呆気なく私の一人旅は終わりを告げ、翌日からまた苦しいリハビリの日々が続く。
 
 
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