54 / 81
過去 - 08
しおりを挟むおはようは、朝の挨拶。
一日を楽しく送るための合言葉みたいなものだと先生が教えてくれた。
だからわたしは──
「おはよう、お母さん」
毎朝、言い続けた。
わたしはあのとき、おはようという言葉が、閉ざされた扉を開けるための唯一の鍵だと真っ直ぐに信じていた。
わたしには5つ歳の離れた兄がいた。
優しくて、頭が良くて、面白くて、強い兄。そんな兄は、とてもお母さんに可愛がられていた。わたしは頭も良くなかったし体も弱くて可愛くもなかった。
だから仕方ないと思っていた。
ご飯が少ないのも、新しい服を買ってもらえないのも、誕生日にケーキが食べられないのも、怒鳴られ、叩かれるのも……。
オマエ ガ ワルイ
お母さんの言うことは正しい。
わたしが悪い。わたしが。みんなわたしが悪いんだ。なぜなら、優秀な兄にはすべてが与えられていたから。いい子にならきゃ。兄やお母さんに自慢されるくらい。勉強も頑張って、運動も頑張って、可愛く……これは難しいけれど、せめて上の二つは。努力すればいいことだし。わたしは頑張った。懸命に。
100点満点。
兄に毎日勉強を教わって、ようやく取れた点数。兄と同じ100点。これで褒めて貰える。
よく頑張ったなと兄はわたしのことを褒めてくれた。きっとお母さんも。わたしを見直してくれる。きっと。
「ただいまお母さん! 今日はね、テストがあったんだ」
「……そう」
「100点だったんだよ! 頑張ったんだよ!」
「……」
「お母さん……?」
いつからだろう、世界が壊れ始めたのは。
それまでわたしを包んでいた温かいものが、温度を無くしてしまったのは。
わたしはよく泣いていた。痛かったからでも辛かったからでもない。ひとりになるのが怖かったからだ。孤独は幼いわたしにとって死と同じだった。捨てないで。お願いします。ごめんなさい。わたしが悪いの。お母さん。お兄ちゃん、助けて。わたしを……ひとりにしないで。
やがて、涙が出なくなった。
泣けば叩かれ、叩かれると余計に涙が溢れる、そんな日々が続くうちに、どんな目に遭っても涙は流れなくなっていた。
求めるほどに拒絶される。
わたしはしがみつく。
兄だけがわたしの味方だった。お母さんは兄の頼みだけは聞いてくれた。
お母さんがあんな風になってしまったのは、いつからだろう。昔は、お父さんがいた頃は、わたしも愛されていたような気がする。体が痛い、心が痛い。お腹、すいた……。
「おはよう、お母さん」
わたしのノックは続いた。
◇ ◆ ◇
「エレナ、起きてる?」
「いま起こされたわ。こんなに早くからどうしたの?」
背伸びをしてベッドの上で半身を起こすエレナ。
「私は、誰なの?」
「……は?」
「過去よ。私の両親は誰で、いまどこにいるの? どうして私はこの家にいるの? エレナと私の両親は知り合いなの? 私の本当の家はどこにあるの?」
「まー落ち着きなさい」
「……話して」
「ついにこの日がやってきたのね」
「……」
「実を言うと、あなたはね、ある王国のお姫様なの」
「いい加減なこと言うと怒るわよ」
「聞かなきゃよかったって思うわよ。それでも知りたい?」
「ええ」
「んー。どうやって誤魔化そうかしら」
「……」
「そんな怖い目で見ないで頂戴。私だってどう話せばいいのか悩んでるんだから。上手く話さないと嘘だとか言われそうだし」
「騙したら一生許さないから」
「……とりあえず、朝ご飯食べてからでいい?」
「ダメ」
「じゃあひとつ質問。どうして『今』なの?」
「夢を見たの」
「どんな?」
「言いたくない」
「ふぅん。それなら私からも何も話さないけど」
「……たぶん、私が小さな頃の夢」
「なるほどね。それで急に過去が知りたくなった。ちなみにどんな内容の夢だったのかしら?」
「酷い夢。思い出したくもない」
「現実にあったことを夢で見ることって皆無よ。ただの悪夢だと思うけどね。私は」
「うん、そう思う。だって私は、」
「……?」
「……夢の最後に」
「最後に?」
「お母さんに……殺されたのだから」
◇ ◆ ◇
「母さん、香奈は? 香奈はどこに行ったの?」
ココ
「……」
「ねえ、母さん?」
ココ ニ
「知らないわ。それより──、夕食にしましょう。今夜は──の大好きなビーフシチューよ」
「母さん!」
ワタシ ハ
「なあに?」
「香奈はどこに行ったんだって聞いてるんだ!」
ココ ニ イル ノ
「知らないって言ってるでしょう。そのうち帰ってくるわよ」
オシイレ ノ ナカ
「さ、早く食べましょう。冷めちゃうわ」
「いらない」
タス ケテ
「え?」
「香奈が帰ってくるまで食べない」
「──、どうしてあんな子のことをそんなに気にするの?」
「香奈は僕の妹だ」
「優しいわね、──。でもね、あなたは私のことだけを思っていればいいの。あんな子のことは考えないで。お願い」
「……母さん」
「私には、あなただけがいればいいの。あなたしか残っていないの、もう……」
「……」
「あんな出来の悪い子は、いなくなってしまえばいいのよ」
「探してくる。香奈に何かあったら僕は母さんを絶対に許さないから」
イカナイ デ オネ ガイ
「……そう。やっとわかったわ」
タス ケテ
「あなたがいるから……──は、私のことを見てくれないのね」
コワ イ
「お前が!!」
コワ イ
「そうよ。お前さえ……いなければ……」
◇ ◆ ◇
そこに扉なんてなかった。わたしはただの壁にノックしていたんだ。
テストの点でも、かけっこの速さでも、容姿でもなかった。
わたしの存在そのものが母さんにとって憎悪の対象だったんだと──そのことに気づいたのは、この世界からいなくなる直前だった。
兄は間に合わなかった。
優しくて、頭が良くて、面白くて、強い兄。わたしのことをいつも心配してくれた兄──
わたしは頼るばかりで兄のために何かをしてあげることはできなかった。
ごめんなさい。
血の泡とともに言葉がこぼれ落ちる。
紅色にまみれ床を這い回っていた私を、母さんは包丁で何度も刺した。ズタズタに切り刻まれ、血と肉片が辺りに飛び散っていた。
目に映るものすべてが、紅く、ただ紅く、彩られていく。痛みはなかった。ただ、体が酷く熱かったことを覚えている。
遠のく意識の中、兄の声を聞いたような気がする。けれど、空耳かもしれない。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
シングルマザーになったら執着されています。
金柑乃実
恋愛
佐山咲良はアメリカで勉強する日本人。
同じ大学で学ぶ2歳上の先輩、神川拓海に出会い、恋に落ちる。
初めての大好きな人に、芽生えた大切な命。
幸せに浸る彼女の元に現れたのは、神川拓海の母親だった。
彼女の言葉により、咲良は大好きな人のもとを去ることを決意する。
新たに出会う人々と愛娘に支えられ、彼女は成長していく。
しかし彼は、諦めてはいなかった。
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
マグダレナの姉妹達
田中 乃那加
キャラ文芸
十都 譲治(じゅうと じょうじ)は高校一年生。
同じ高校に通う幼馴染の六道 六兎(ろくどう りくと)に密かな想いを寄せていた。
六兎は幼い頃から好奇心旺盛な少年で、しょっちゅう碌でもない事件に首を突っ込んで死にかけている。
そんな彼を守ろうと奔走する譲治。
―――その事件は六兎の「恋人が出来た」という突然の言葉から始まった。
華村 華(はなむら はな)は近くの短大に通う学生である。
華の頼みで彼らはある『怪異』の検証をする事になった。
それは町外れの公園『カップルでその公園でキスをすると、運命の相手ならば永遠に結ばれる。そうでなければ……』
華の姉、華村 百合(はなむら ゆり)がそこで襲われ意識不明の重体に陥っているのである。
―――噂の検証の為に恋人のフリをしてその公園に訪れた彼らは、ある初老の男に襲われる。
逃げた男が落として行ったのは一冊の生徒手帳。それは町の中心部にある女学校。
『聖女女学校』のものだった。
そこにこの事件の鍵がある、と潜入する彼らだが……。
少しイカれた素人探偵と振り回される幼馴染、さらにキャラが濃い面々の話。
星詠みの東宮妃 ~呪われた姫君は東宮の隣で未来をみる~
鈴木しぐれ
キャラ文芸
🌸完結しました!🌸平安の世、目の中に未来で起こる凶兆が視えてしまう、『星詠み』の力を持つ、藤原宵子(しょうこ)。その呪いと呼ばれる力のせいで家族や侍女たちからも見放されていた。
ある日、急きょ東宮に入内することが決まる。東宮は入内した姫をことごとく追い返す、冷酷な人だという。厄介払いも兼ねて、宵子は東宮のもとへ送り込まれた。とある、理不尽な命令を抱えて……。
でも、実際に会った東宮は、冷酷な人ではなく、まるで太陽のような人だった。
戸惑いの神嫁と花舞う約束 呪い子の幸せな嫁入り
響 蒼華
キャラ文芸
四方を海に囲まれた国・花綵。
長らく閉じられていた国は動乱を経て開かれ、新しき時代を迎えていた。
特権を持つ名家はそれぞれに異能を持ち、特に帝に仕える四つの家は『四家』と称され畏怖されていた。
名家の一つ・玖瑶家。
長女でありながら異能を持たない為に、不遇のうちに暮らしていた紗依。
異母妹やその母親に虐げられながらも、自分の為に全てを失った母を守り、必死に耐えていた。
かつて小さな不思議な友と交わした約束を密かな支えと思い暮らしていた紗依の日々を変えたのは、突然の縁談だった。
『神無し』と忌まれる名家・北家の当主から、ご長女を『神嫁』として貰い受けたい、という申し出。
父達の思惑により、表向き長女としていた異母妹の代わりに紗依が嫁ぐこととなる。
一人向かった北家にて、紗依は彼女の運命と『再会』することになる……。
可愛すぎるクラスメイトがやたら俺の部屋を訪れる件 ~事故から助けたボクっ娘が存在感空気な俺に熱い視線を送ってきている~
蒼田
青春
人よりも十倍以上存在感が薄い高校一年生、宇治原簾 (うじはられん)は、ある日買い物へ行く。
目的のプリンを買った夜の帰り道、簾はクラスメイトの人気者、重原愛莉 (えはらあいり)を見つける。
しかしいつも教室でみる活発な表情はなくどんよりとしていた。只事ではないと目線で追っていると彼女が信号に差し掛かり、トラックに引かれそうな所を簾が助ける。
事故から助けることで始まる活発少女との関係。
愛莉が簾の家にあがり看病したり、勉強したり、時には二人でデートに行ったりと。
愛莉は簾の事が好きで、廉も愛莉のことを気にし始める。
故障で陸上が出来なくなった愛莉は目標新たにし、簾はそんな彼女を補佐し自分の目標を見つけるお話。
*本作はフィクションです。実在する人物・団体・組織名等とは関係ございません。
サイクリングストリート
けろよん
キャラ文芸
中学を卒業した春休み。田中結菜は自転車を買ってもらった。
普通だと信じていたその自転車。それになぜか兄の悠真の意思が宿り、彼は行方不明になった。
結菜は事件の謎を解き明かすためにその自転車に乗って町を走ることにした。
兄の彼女の姫子やサークル仲間の葵と出会い、結菜は一緒に事件に関わっているとされる魔王と呼ばれている少女を探すことになる。
少女達と自転車の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる