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第37話
しおりを挟む夏を演出していた蝉の鳴き声もなくなり、夜になると耳を澄ませば微かに秋の虫の声が聞こえてくる、そんな時節──
カナは寝室である音声を聴いてた。
《……ですから、》
ICレコーダーに記録されている音声はたった5分ほどで、聞き終わるとリピートして、何度も語りかけてくる声に耳を傾ける。
《私、私は……》
自分とは違う、機械的な声。けれどもその割には無機質さや冷たいという印象はなかった。
《きっと……綺麗です》
挨拶から始まり、ひまわりの世話のお願い、伊月進についてのこと、リハビリに対する励まし、そして──
《……お願いしたく……ないです。でも……》
真っ白い天井を見つめながら、手術前のカナからの伝言を何度も聞く。
宇佐美エレナは、カナが目覚めたとき、複雑な事情で長い間眠っていたのだと教えてくれたが、カナは信じていない。
過去の自分。
現在の自分。
かつて双方を繋いでいた糸が切れ、離れ離れになってしまったことで、カナは自分という存在を掌握することができずにいた。
これは、記憶喪失とは、違う。
覚醒と同時に感じた、まるで誰かの生を途中から引き継いだような──空っぽの体に用意されていた心を放り込まれたような、違和感。そしてたまに頭痛とともにやってくる、強烈なデジャヴ。
以前のカナとはどんな人だったのか。
何をするにも常にそのことが頭から離れない。
唯一の手がかりは、エレナから受け取ったICレコーダーの音声だけだった。
だが、その中の自分自身は、今の自分とはまるで違う、かけ離れた人物のように思え、カナはそのことに益々戸惑うのだった。
──エレナがひまわりの種は食べれるって言うから食べてみました。あまりおいしくありませんでした──
「んー。こんな感じかな」
ボールペンを置いて、書き終えたばかりの手紙を読み直す。カナは音声の口調に似せ、伊月進への手紙を書いていた。
どうしてかわからない。
ただ。
伊月進に自分が《カナ》でないことを知られたくなかった。
カナの落ち着いた口調、丁寧な言葉遣い、相手を気遣う心──過去の自分と現在
の自分は、別人のようだったからだ。
今の『カナ』を出したら、伊月進を失望させてしまうのではないか。
そしてそれは、かつての自分が大切だと言った人、その人を悲しませてしまうことになるのではないだろうか。さらには、過去の自分を知る最も大きな手がかりを失ってしまうのではないか、という恐れもあった。
そうしたいくつかの思いが絡み合い、毎日の手紙に『カナらしさ』というフィルターをかけるしかなかった。
本当はひまわりを見て泣きもしなかったし感動もしなかった。達成感はあった。だがそれだけだ。
嘘で嘘を重ね書きする毎日。
日を負うほどに以前のカナとの距離はさらに離れていく。それにつれて、手紙を書
く際にICレコーダーの音声を反復する時間が長くなっていった。
**********
「ということでテストをしたいの。いいかしら」
宇佐美エレナは、ホワイトボードに書いた内容を消して《10:30》と新たに書く。
「どうせ拒否できないんでしょ?」
机の上に頬杖を付いてカナは聞き返す。
「まあね。あなただって、いまさら小学生なんて嫌でしょう? 年齢に見合った学校に行くには、相応の学力が伴ってないといけないのよ」
ホワイトボードマーカーを器用にくるくると回転させてから、キャップを取り付けるエレナ。
「やるわ。学校には行きたいし。ここは退屈だもの。死にそうなほど」
カナは鉛筆をエレナのように回そうとするが、上手くいかず手からこぼれ落ちる。2度試したところで、鉛筆が床に落ちて芯が折れてしまったのでやめた。
「制限時間は1科目につき45分。10分の休憩と昼食を挟んで、できれば今日中に5教科やりたいわ。体調が悪かったらすぐに言うこと。いいわね? 記憶をなくしたあなたが習得した覚えのない知識を測るためのテストだから頑張れもなにも言えないけど、真面目に解答して頂戴」
「はいはい」
「『はい』は、一回でいいわ。カ、」
エレナの言葉を遮るように、
「カナちゃんはそんな言葉遣いをしなかったわよ、でしょ? もー聞き飽きたわ。何
度言えば分かるの? 私は私だもの。前の私と比較するのはやめて」
「……そうね、ごめんなさい。だけどね、一般的な女の子はそんな返事はしないの。学校で恥をかくのはあなたなのよ」
「まるでお母さんみたい」
「お・姉・さ・ん」
「わかりましたわ、エレナお姉さま」
「……まあいいわ。じゃ、時間になったら戻ってくるから。また後でね」
「待って、エレナ」
「なーに?」
「答案用紙と解答用紙が5組あるけど、どの科目から始めればいいの?」
「好きに選んでいいわ」
「了解」
部屋を出たエレナは長い廊下を歩きながら「……私に似たんじゃないわよね」と、誰にでもなく呟いた。
「……不思議な気分」
解答用紙を埋め終え、カナは鉛筆を回す練習をしていた。制限時間の10時30分まで、まだ10以上ある。部屋には誰もいない。
よろよろと立ち上がって窓から外を見ると、一匹の黒猫がカナの方を見ていた。窓を開け、カナは猫を招き寄せるように手を伸ばす。
部屋の隅に置いてある車椅子には乗らずに、一歩一歩足場を確かめるように平坦な床を歩く。
「おいで」
一階の窓から身を乗り出す。
黒猫はその場から動かなかった。そして、急に何かに気づいたかのように、庭の植え込みの奥に消えてしまった。
諦めて、席に戻ろうと踵を返すとエナが立っていた。
「窓から逃げ出したくなるほど嫌なら、先に言ってよね」
「猫がいたの」
「ふーん。いい訳はそれだけ?」
「嘘じゃないわ」
にゃー
庭のどこかから、鳴き声が助け舟を出してくれる。
「……」
「ほら。嘘じゃないでしょ」
「……偶然よ」
「素直じゃないんだから、エレナは」
「それよりテストは終わったの?」
「もちろん。時間が余り過ぎたから2教科やっちゃったけど。ダメだった?」
「別に構わないけど、デタラメな回答じゃないことを祈るわ」
「それは保障できないかな。だって、エレナが言ったように私が学んだ知識じゃないし、自然と答えが出てきちゃったから」
**********
「合格」
採点を終えたエレナは、煮え切らない表情でそう告げる。
「やった!」
「いまいち釈然としないけど、あなたの学力は、日本全国どの高校に行っても通用するレベルに達してるわ」
「それって凄いことの?」
「まあね。安心したわ」
「……」
「……どうしたの?」
「楓高校にも……行けるかな?」
「ええ。県内の学校ならどこでも行けるわ。好きなところを選んでいいから」
「ううん、楓に行きたい。エレナもいるし」
「私はオマケでしょ。伊月に会いたいんでしょ?」
カナは顔を真っ赤にして否定する。エレナはそんなカナを抱きしめ、頑張ったわねと耳元で囁き、それからさらに強く抱きしめる。
「あと少しだから。リハビリ頑張りましょ」
「……うん。ありがとうエレナ」
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