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第8話
しおりを挟む職員室にエレナ先生はいなかった。
実験室にも鍵がかかっていて、誰かが中にいる気配はない。
「あら、伊月。久しぶり」
前が見えないほど大量の紙を抱えたエレナ先生が後ろに立っていた。
「ちょうどいいとこにいるわね。私のポケットから鍵出して、そこ開けて」
エレナ先生が軽く身を振ると、白衣の右ポケットから鍵の束がぶつかり合う音がする。俺は白衣のポケットを探り、鍵束を掴み出し、実験室とタグの貼られた鍵を使ってドアを開けた。
実験室のテーブルには、積み上げられた紙の束が2つ聳えている。エレナ先生は、その隣に、抱きかかえていた新たなアンケート用紙をどさりと並べ置く。
「ふー」
「ほんとに全部の教室まわったんですね」
「当たり前じゃない。みんなに面倒くさいことをさせておいて、私だけ楽してるわけにはいかないわ」
例によって先生は、ガスバーナーにマッチで火をつけ、お茶を湯煎し始める。
普通にお湯を沸かして急須で入れた方が早いと思うが、そういうことではないのだろうと言い控えた。
「ところで、先生」
「ごめんね。なにも言わず帰っちゃって」
「カナと何を話したんですか」
「悪いけど、言えないわ」
「何でですか?」
「それがあの子のためだからよ」
「俺に隠す必要があることなんですか、それ。先生はカナの正体を突き止めてくれるって言ったじゃないですか」
「そんな約束したかしら」
「した」
「そう。だったらごめんなさい」
「そうじゃなくて、」
謝罪の言葉なんて求めてない。
「あの子は無害。あなたに危害を加えることはないわ。話にあった自爆のことだけど、爆弾なんて詰め込まれてないから。安心しなさい」
「……はい」
「知りたいことが沢山あるでしょうけど、今は、待ちなさい」
──なにを待てと言うのだろうか。
──カナが家から出て行くのを、だろうか。
お湯が沸騰する。
エレナ先生は、るつぼ挟みでフラスコを掴み上げ、ビーカーにお茶を注ぐ。
「飲んでく?」
「帰ります」
出て行こうとすると、
「伊月、」
「なんです?」
「何があっても、あの子を追い出そうとしたりしちゃ、ダメよ」
こちらの質問には答えないくせに、一方的に押し付けがましいことを言ってくる先生に対して、次第に腹が立ってくる。
「そんな約束できないですよ。俺はあのアンドロイドのこと、何にも知らないんですから」
「じゃあ、好きになさい」
「そうします」
「ひとつ教えてあげるわ。あの子を直せる人は、亡くなってもういない。これだけは覚えておきなさい」
「関係ないです、そんなこと」
はき捨てるように言うと、先生の目つきが鋭くなる。
「ガキね」
「今頃気づいたんですか?」
「もう少しマシなガキかと思ってた」
「先生に言われても、説得力ないです」
「……ぶん殴るわよ」
「やればいいじゃないですか? 大変ですね、教師って。俺だったら停学程度で済みますけど、先生が俺を殴ったら確実にクビでしょうね」
「それ、脅し?」
「さあ」
エレナ先生は立ち上がり、俺の前までやってくる。
そして、
顔面を思い切りぶん殴られた。
後ろにあった棚に背中を打ち、棚の上から空のビーカーが落ちてきて、床にぶつかって割れる。
「ふざけんな!!」
エレナ先生が叫ぶ。
誰かに殴られたのは、小学生のとき以来だ。
教師が生徒を殴るなんてありえない、どこかでそう思っていたから、俺はひどく動揺した。が、それを見せないようにして先生を睨みつける。
口元をぬぐうと、血が出ていた。
「頭、冷えた?」
「俺はずっと冷静です」
強気に言ってみせる。
「クビくらいで私が怖気づくと思わないことね。他の教師には有効でも、私には無意味」
倒れた俺に手を差し伸べてくる。
その手を掴み、力を込めて引っ張り、先生を前のめりに転ばせる。
ごつ。
豪快に額をぶつける音。
「痛った……」
「これでおあいこだな」
「やってくれたわねー。か弱い女の子に対して」
額を押さえ、口を尖らす。
「普通、か弱い女の子は、男をグーで殴ったりしませんよ。昔、親父に殴られたときより痛いですから」
エレナ先生は、半身の体勢から、割れたビーカーのガラス片を避けて実験室の床に寝そべる。
「あー、すっきりした」
「生徒でストレス発散すんな」
先生は少しの間、黙って天井を見つめていた。
俺がビーカーの破片を拾い集めようとすると、立ち上がり、箒と塵取りを持ってくる。
「伊月もイライラしてたでしょ?」
「先生のイラつきに感化されただけです」
「悪かったわね。教師だって悩み事はあるし、何もかもがうまくいかなくて、イラつくことだってあるのよ」
「カナのこと、話しづらいことなんですか?」
「それがねー。話してあげたいんだけど、まだ解析と情報整理が途中で。手続きとか、調査とか、あとで面倒が起きないように、根回し中」
「ガキは役に立てませんか?」
エレナ先生はガラス片の入った塵取りを部屋の隅に置き、すっかり冷めた緑茶を一気に飲み干す。
「今のところはね。でもそのうち嫌でもあなたの出番が来るから」
「……嫌でもってのが引っかかります」
「気にしない気にしない。学生のうちは四六時中好きなことやって笑ってればいーのよ。学校に目を付けられない程度に勉強して、面倒なことには首を突っ込まない」
「先生にそれができてたとは思えませんけど」
「だから教えてあげてるんじゃない。可愛い私の生徒に」
「可愛い生徒をぶん殴らないでください」
「私をすっ転ばした時点で、既に相殺されてるし」
「うわ、でた」
「自分であいこって言ったじゃない。日本、いえ世界の至宝である私の頭部に攻撃を加えたのだから終身刑ものだけど、特別に許してあげる。よかったわね」
「……」
すっかりいつものエレナ先生に戻っていた。
「どうしたの? 頭打って、おかしくなった?」
「なってません」
「あ、先に言っておくけど、惚れないでよね」
「ありえません」
「そこまではっきり断言されると、それはそれでむかつくわね」
「じゃあ、好きです、先生」
「棒読みで言わない。それと『じゃあ』を付けない」
「好きです、先生」
「ごめんなさい、好みじゃないの」
「ひでぇ」
「あはは。伊月って、ほんっとに面白いわね」
「先生には負けますよ。そうだ。来週からの昼の放送、楽しみしてます」
「ありがと」
「俺、帰ります」
殴られたときに部屋の隅まで滑っていったカバンを拾う。
「……伊月、人間って何なのかしらね」
「なんですか、突然」
「どう思う?」
「先生に分からないことなら、俺には到底わかりませんよ」
苦笑する先生に頭を下げ、
「さようなら先生。また来週」
「気をつけて帰りなさい」
廊下に出ると、グラウンドから運動部の気合の入った掛け声が聞こえた。
俺も帰宅部の活動をはじめることにした。
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