献身

nao@そのエラー完結

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御者

十六

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 帝都は復興と共に大都会へと変貌を遂げておりました。西洋化が汽車の線路が引かれ、自動車が走る道路が整備され、新しいビルディングが立ち並ぶのです。その新しい風は、遠く離れた伊豆の国にも吹き抜けておりました。

 伊豆に初の映画館が開館されたとあって、心待ちにしていた直之様はいつになく浮き足だっていたのです。

「弘、準備はできたか」

 小さな鏡に向かって髪を整えておりますと、直之様が扉を開いて覗き込んでこられました。このように使用人の部屋に直之様が足を踏み入れるのは久しいことで、私は些か面食らいました。どうやら手配した馬車が早く到着してしまったようで、直之様が自ら私を呼びに来てくださったのです。

 直之様は、シャツにモダンな柄のベストを合わせておりました。いつにも増して大人びた格好をされている直之様が微笑ましく思え、口元が緩んでしまいます。

「本当に私がご一緒でよろしいんですか」

 本来なら、私の馬車で直之様を映画館までお連れするところでしたが、直之様は私に同行するように仰いました。

「僕と出かけるのはイヤか」
「まさか、直之様に誘っていただけて光栄でございます」

 直之様が疑い深そうに眉を曇らせるものですから、苦笑いを浮かべてしまいました。私は本当に光栄に思っておりました。映画に誘えるような親しいご学友がいないとはいえ、直之様が下男である私を誘ってくださるとは思っておりませんでしたから。

「まだそんなものを持っているのか」

 枕元に置いてある朱色の雑誌に目を留めて、直之様は呆れたように仰いました。表紙は色が剥げて傷み、反り返っておりました。それでも私にとっては、忘れ難い夏の日の宝物でございます。

「僕の本を貸してやろうか」
「いいえ、読む時間がありませんから」
「そうか」

 直之様の申し出はお断りいたしました。直之様のように勉学の素養もございませんでしたし、御本の感想を問いかけられても頓珍漢な返答しかできそうもございません。
 両手で口を覆ってクスクスと笑われた日のことが思い起こされます。たとえ事実であっても、年下の直之様に阿呆だと笑われるのは堪えられないのです。私にもまだ、その程度の自尊心は持ち合わせていたのでありました。



「外国映画ですが、よろしいですか」

 窓口の係りの男は、私たちを見上げながら半笑いで問いかけました。活動写真の主流は邦画でありましたし、外国映画などを好むのは高等学校を卒業した知識人でございます。ですから、私たちのような子供が見るような映画ではないと笑われてしまったのです。

「構いません。二枚ください」

 不快そうに片眉をあげる直之様の代わりに、私は金を払い、チケットを受けとりました。不人気の外国映画は平日にしか上映しておりません。学校より帰宅してから、急いで遠い映画館まで足を運ぶような力の入れようでございましたから、直之様が不機嫌になってしまうのも仕方のないことでしょう。

 案内された館内は満席とはいかなくとも、多くの席が埋まっているようです。後方の空いている席を見つけて、直之様と並んで椅子に腰かけました。薄暗い室内に大きなスクリーンが垂れ下がっているのを目の当たりにすれば、胸が踊るようでありました。

 私は活動写真すら観たことがありませんでしたから、その衝撃は大きいものでした。ジリジリと機械音が響き、映し出された写真が動き出したときには、目が飛び出てしまうほど驚きました。

 スクリーンの中で繰り広げられるのは、外国の滑稽話でございます。字幕は早くてあまり読み取れませんが、俳優たちの大袈裟な動きが笑いを誘います。
 無教養の私には、笑い処がわからぬ箇所もありましたが、直之様はクスクスと始終愉しそうに笑っておられます。薄闇の中で、スクリーンの光を反射して照らされた少年の横顔は、息を忘れるほど美しいものでした。涼やかな目元に通った鼻筋。形の良い小さな唇は柔らかく持ち上がっておりました。私は内容のわからぬ映画より、直之様の横顔ばかりを盗み見てしまいました。
 それでも、このように近くにいるからこそ、私とは住む世界の違う紳士であるのだと、改めて突きつけられる思いがしたのでございます。


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