献身

nao@そのエラー完結

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御者

十一

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 松本先生と直之様の再会は、実に十三年ぶりでございました。けれども、お二人は、まるで時間の隙間などなかったかのように、親しげに談笑していらっしゃいます。
 松本先生が冗談のひとつも口にすれば、直之様は子供のようにクスクスと肩を震わせて無邪気に笑います。
 元来、直之様は寡黙なお人柄です。ですから、このように饒舌にお話しされる姿を目にするのは、珍しいことでありました。病的な青白い頬は、仄かに赤らみ、輝く瞳の先には、人当たりの良い笑顔を貼り付かせた青年紳士があるのです。

 私はというとお二人の傍で立っていることしかできません。松本先生から頂いた赤い薔薇を花瓶に生けながら、不躾にもひっそりと聞き耳を立てておりました。

「松本先生は、あの大震災の後はどうされていたのですか?」

 直之様の声はどこか媚いるような色が含まれております。
 関東大震災の被害は悲惨なものでございました。伊豆が津波に洗い流されてしまった頃、帝都は火の海に包まれていたのです。震災によって倒壊した瓦礫から火の手が上がり、瞬く間に帝都を焼け野原へと変えてしまったのでした。

「大震災が起きた頃は、丁度、帝都を離れていて難を逃れていたのだよ」
「……そうでしたか。ご無事でなによりです」
「たくさん手紙をもらっていたのに返事も書けずに悪かったね」
「いいえ、お忙しいのは承知していましたから」

 もしかすると直之様は、旦那様を通じて松本先生の所在は存じていたのかもしれません。寂しそうに微笑む直之様に胸が痛みます。直之様は帝都大学に籍を置くような教養を身に付けられております。ですから、気づいていないわけがないのです。この松本という男が直之様に手紙の一つも寄越さなかったのは、ただ、伊豆に残された私たちが、取るに足らない存在だったというだけのことなのです。

「ああ、失敬。忘れるところだった。お父様から手紙を預かっていてね」

 松本先生は、胸から一通の封筒を取り出すと、直之様に差し出しました。直之様は、遠慮がちに受け取って、手紙を開きます。少し緊張した面持ちの直之様でございましたが、その顔からは、みるみると血の気が引いていき、ついに、苦しそうに胸を押さえて咳き込んでしまわれました。

「大丈夫かい?」

 私よりも早く、松本先生が直之様の背中を擦りました。震える背中に、旦那様からのお手紙は良くない知らせであることが窺えました。

「……すみません。席を外していただけませんか。少し、ひとりになりたいのです」
「ああ、いいとも。そうだね。今日はこの辺でお暇するよ。また今度ゆっくりと積もる話でもしようじゃないか」

 松本先生は、直之様の背中を優しくトントンと撫でると立ち上がります。直之様は、青年紳士と私の顔を不安気に見比べました。

「弘くん、鞄を持ってくれるかな」

 親しげに肩を叩かれれば、私は鞄をお持ちして、松本先生の背中についていくしかありません。

「お兄さん」

 背中で聞いた細い声に、私は振り返ることができませんでした。直之様も気づいておられるのです。きっと、このお約束も社交辞令でございましょう。松本先生のご用事は済んでしまわれたに違いないのです。




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