2 / 45
弥生
第二話
しおりを挟む
小料理屋「だんや」の奥にある引き戸は、店舗と住居を隔たる唯一の壁である。その境界線を跨いでいけば、一畳足らずの薄暗い玄関が現れる。灯りをつけると、電球の柔らかな光が木造の床を照らしだした。十五年前に改装したのは、店舗部分だけであり、住居スペースは手が加わっておらず、昭和後期の懐かしい匂いを感じさせた。
靴を脱ぎ、手前の急な階段を上るとギシギシと床の軋む音が響く。二階には二つの和室がある。手前は貴俊が幼少期から使っている部屋で、その奥は、俺が転がり込んだ物置部屋である。物が溢れ返っている部屋は、どうにか俺の荷物を置くスペースを確保しているような状態であった。
大きな洋服箪笥に、トレンチコートとスーツジャケットをかける。腕時計に目を落とすと十時を過ぎていた。少し考えて、今夜は湯船に浸かることは諦めて、朝にシャワーを浴びることにする。部屋着のスウェットに着替えると、着ていたワイシャツを掴んで、再び軋む階段を下りた。
一階にある洗面所の扉を開ければ、すきま風が吹き抜けた。ぞわりと鳥肌が立ったが、それにも随分慣れた。数年前に買い換えたドラム式の洗濯機にワイシャツを放り込んで、洗面台の蛇口を捻る。古い水道管は、すぐに温かい湯が出てくるわけではない。
歯を磨いて、ようやく湯が出てきたところで顔を洗う。タオルで濡れた顔を拭うと、鏡に映り込むのは、酒のためか充血した瞳に、頬を赤くした顔の男の顔である。昨日の顔と今日の顔は、同じに見えた。けれど十五年前の顔からすると、随分老けてしまったような気がした。
────くだらない。
年を重ねることを悲観するつもりはない。ハルくんが十九歳だという話をしたから、なんとなく十九歳の自分の顔を思い出したのかもしれない。
使い終わったタオルを洗濯機に入れて、軋む階段を上った。貴俊の部屋の襖を開けると、ニ組のシングルの布団が敷かれたままになっている。天井照明の紐を引っ張ると、暖色の灯りが布団をぼんやりと照らした。万年床の湿った布団に寝転がり、面白くもないビジネス書を眺める。
昔は、貴俊が店を閉めるまで一階の居間で待っていた。店を閉まるのは0時と決めていたが、店に残っている客次第なところもあって、何時に片付け終えられるのかは定かではなかった。深夜の二時に寝床に入ることもあれば、朝方の五時ということもあった。昼に勤めるサラリーマンと、夜に営業する飲み屋の料理人では、生活のリズムが重なることはないだろう。
それでも、俺は貴俊を待っていた。
『お疲れさま』
そんな、たった一言が言いたくて、読んでいる小説と古びた掛け時計を交互に見比べて、眠気眼を擦りながら、長い夜を過ごした。今思えば、そんな些細なことが楽しくて、そんな些細な楽しみを持てることに、幸せを感じていたのかもしれない。
けれど、貴俊は、俺が待っていることを素直に喜んだりはしなかった。嬉しそうに、けれど、少し困ったように「待たれていると思うと、罪悪感があるから先に寝ていてほしい」と、再三、言われ続けた。半分は本音で、半分は気を遣った言葉だったのだろう。今では、都合よく貴俊の言葉を真に受けることにしている。
読んでいた活字がぼやけて、瞼が重くなる。頭に入らなかったビジネス書を枕元に置くと、寝返りを打つ。そうすると、直ぐにでも睡魔が襲ってきた。
ギシギシと床が軋む音がして、夢の中から意識が引き上げられた。襖が開けられる音がして、その後には、背後でゴソゴソと物音が響いた。瞼を持ち上げて、頭だけ振り返ると、布団を被ろうとしている部屋着姿の貴俊と目が合った。
「悪い。起こしたか?」
小さく頷くと、凛々しい顔が苦笑いをつくる。寝返りを打っているうちに、ずり下がっていた掛け布団を引き上げられて、肩を覆うようにかけられる。
「まだ三時だから」
ポンポンと幼児を寝かすように胸元を撫でられた。その大きな手を掴んで、指と指を絡み合わせると、俺の布団へ引き入れた。少し動揺した貴俊が可笑しくて、口元が緩んでしまう。
「貴俊、おやすみ…………」
瞼は鉛のように重く、開けていられなくなる。
「ん、おやすみ」
低く優しい男の声が耳に心地好く、繋いだ大きな手が握り返してくることに、不思議なほど安堵してしまう。
どんなに固く繋ぎ合った手も、どうせ朝には離れてしまっているのだけれど。
靴を脱ぎ、手前の急な階段を上るとギシギシと床の軋む音が響く。二階には二つの和室がある。手前は貴俊が幼少期から使っている部屋で、その奥は、俺が転がり込んだ物置部屋である。物が溢れ返っている部屋は、どうにか俺の荷物を置くスペースを確保しているような状態であった。
大きな洋服箪笥に、トレンチコートとスーツジャケットをかける。腕時計に目を落とすと十時を過ぎていた。少し考えて、今夜は湯船に浸かることは諦めて、朝にシャワーを浴びることにする。部屋着のスウェットに着替えると、着ていたワイシャツを掴んで、再び軋む階段を下りた。
一階にある洗面所の扉を開ければ、すきま風が吹き抜けた。ぞわりと鳥肌が立ったが、それにも随分慣れた。数年前に買い換えたドラム式の洗濯機にワイシャツを放り込んで、洗面台の蛇口を捻る。古い水道管は、すぐに温かい湯が出てくるわけではない。
歯を磨いて、ようやく湯が出てきたところで顔を洗う。タオルで濡れた顔を拭うと、鏡に映り込むのは、酒のためか充血した瞳に、頬を赤くした顔の男の顔である。昨日の顔と今日の顔は、同じに見えた。けれど十五年前の顔からすると、随分老けてしまったような気がした。
────くだらない。
年を重ねることを悲観するつもりはない。ハルくんが十九歳だという話をしたから、なんとなく十九歳の自分の顔を思い出したのかもしれない。
使い終わったタオルを洗濯機に入れて、軋む階段を上った。貴俊の部屋の襖を開けると、ニ組のシングルの布団が敷かれたままになっている。天井照明の紐を引っ張ると、暖色の灯りが布団をぼんやりと照らした。万年床の湿った布団に寝転がり、面白くもないビジネス書を眺める。
昔は、貴俊が店を閉めるまで一階の居間で待っていた。店を閉まるのは0時と決めていたが、店に残っている客次第なところもあって、何時に片付け終えられるのかは定かではなかった。深夜の二時に寝床に入ることもあれば、朝方の五時ということもあった。昼に勤めるサラリーマンと、夜に営業する飲み屋の料理人では、生活のリズムが重なることはないだろう。
それでも、俺は貴俊を待っていた。
『お疲れさま』
そんな、たった一言が言いたくて、読んでいる小説と古びた掛け時計を交互に見比べて、眠気眼を擦りながら、長い夜を過ごした。今思えば、そんな些細なことが楽しくて、そんな些細な楽しみを持てることに、幸せを感じていたのかもしれない。
けれど、貴俊は、俺が待っていることを素直に喜んだりはしなかった。嬉しそうに、けれど、少し困ったように「待たれていると思うと、罪悪感があるから先に寝ていてほしい」と、再三、言われ続けた。半分は本音で、半分は気を遣った言葉だったのだろう。今では、都合よく貴俊の言葉を真に受けることにしている。
読んでいた活字がぼやけて、瞼が重くなる。頭に入らなかったビジネス書を枕元に置くと、寝返りを打つ。そうすると、直ぐにでも睡魔が襲ってきた。
ギシギシと床が軋む音がして、夢の中から意識が引き上げられた。襖が開けられる音がして、その後には、背後でゴソゴソと物音が響いた。瞼を持ち上げて、頭だけ振り返ると、布団を被ろうとしている部屋着姿の貴俊と目が合った。
「悪い。起こしたか?」
小さく頷くと、凛々しい顔が苦笑いをつくる。寝返りを打っているうちに、ずり下がっていた掛け布団を引き上げられて、肩を覆うようにかけられる。
「まだ三時だから」
ポンポンと幼児を寝かすように胸元を撫でられた。その大きな手を掴んで、指と指を絡み合わせると、俺の布団へ引き入れた。少し動揺した貴俊が可笑しくて、口元が緩んでしまう。
「貴俊、おやすみ…………」
瞼は鉛のように重く、開けていられなくなる。
「ん、おやすみ」
低く優しい男の声が耳に心地好く、繋いだ大きな手が握り返してくることに、不思議なほど安堵してしまう。
どんなに固く繋ぎ合った手も、どうせ朝には離れてしまっているのだけれど。
0
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
壁穴奴隷No.19 麻袋の男
猫丸
BL
壁穴奴隷シリーズ・第二弾、壁穴奴隷No.19の男の話。
麻袋で顔を隠して働いていた壁穴奴隷19番、レオが誘拐されてしまった。彼の正体は、実は新王国の第二王子。変態的な性癖を持つ王子を連れ去った犯人の目的は?
シンプルにドS(攻)✕ドM(受※ちょっとビッチ気味)の組合せ。
前編・後編+後日談の全3話
SM系で鞭多めです。ハッピーエンド。
※壁穴奴隷シリーズのNo.18で使えなかった特殊性癖を含む内容です。地雷のある方はキーワードを確認してからお読みください。
※No.18の話と世界観(設定)は一緒で、一部にNo.18の登場人物がでてきますが、No.19からお読みいただいても問題ありません。
初恋はおしまい
佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。
高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。
※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。
今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。
陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
まったり書いていきます。
2024.05.14
閲覧ありがとうございます。
午後4時に更新します。
よろしくお願いします。
栞、お気に入り嬉しいです。
いつもありがとうございます。
2024.05.29
閲覧ありがとうございます。
m(_ _)m
明日のおまけで完結します。
反応ありがとうございます。
とても嬉しいです。
明後日より新作が始まります。
良かったら覗いてみてください。
(^O^)
ちょろぽよくんはお友達が欲しい
日月ゆの
BL
ふわふわ栗毛色の髪にどんぐりお目々に小さいお鼻と小さいお口。
おまけに性格は皆が心配になるほどぽよぽよしている。
詩音くん。
「えっ?僕とお友達になってくれるのぉ?」
「えへっ!うれしいっ!」
『黒もじゃアフロに瓶底メガネ』と明らかなアンチ系転入生と隣の席になったちょろぽよくんのお友達いっぱいつくりたい高校生活はどうなる?!
「いや……、俺はちょろくねぇよ?ケツの穴なんか掘らせる訳ないだろ。こんなくそガキ共によ!」
表紙はPicrewの「こあくまめーかー😈2nd」で作成しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる