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弥生

第二話

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 小料理屋「だんや」の奥にある引き戸は、店舗と住居を隔たる唯一の壁である。その境界線を跨いでいけば、一畳足らずの薄暗い玄関が現れる。灯りをつけると、電球の柔らかな光が木造の床を照らしだした。十五年前に改装したのは、店舗部分だけであり、住居スペースは手が加わっておらず、昭和後期の懐かしい匂いを感じさせた。

 靴を脱ぎ、手前の急な階段を上るとギシギシと床の軋む音が響く。二階には二つの和室がある。手前は貴俊が幼少期から使っている部屋で、その奥は、俺が転がり込んだ物置部屋である。物が溢れ返っている部屋は、どうにか俺の荷物を置くスペースを確保しているような状態であった。

 大きな洋服箪笥に、トレンチコートとスーツジャケットをかける。腕時計に目を落とすと十時を過ぎていた。少し考えて、今夜は湯船に浸かることは諦めて、朝にシャワーを浴びることにする。部屋着のスウェットに着替えると、着ていたワイシャツを掴んで、再び軋む階段を下りた。

 一階にある洗面所の扉を開ければ、すきま風が吹き抜けた。ぞわりと鳥肌が立ったが、それにも随分慣れた。数年前に買い換えたドラム式の洗濯機にワイシャツを放り込んで、洗面台の蛇口を捻る。古い水道管は、すぐに温かい湯が出てくるわけではない。
 歯を磨いて、ようやく湯が出てきたところで顔を洗う。タオルで濡れた顔を拭うと、鏡に映り込むのは、酒のためか充血した瞳に、頬を赤くした顔の男の顔である。昨日の顔と今日の顔は、同じに見えた。けれど十五年前の顔からすると、随分老けてしまったような気がした。

 ────くだらない。

 年を重ねることを悲観するつもりはない。ハルくんが十九歳だという話をしたから、なんとなく十九歳の自分の顔を思い出したのかもしれない。

 使い終わったタオルを洗濯機に入れて、軋む階段を上った。貴俊の部屋の襖を開けると、ニ組のシングルの布団が敷かれたままになっている。天井照明の紐を引っ張ると、暖色の灯りが布団をぼんやりと照らした。万年床の湿った布団に寝転がり、面白くもないビジネス書を眺める。

 昔は、貴俊が店を閉めるまで一階の居間で待っていた。店を閉まるのは0時と決めていたが、店に残っている客次第なところもあって、何時に片付け終えられるのかは定かではなかった。深夜の二時に寝床に入ることもあれば、朝方の五時ということもあった。昼に勤めるサラリーマンと、夜に営業する飲み屋の料理人では、生活のリズムが重なることはないだろう。

 それでも、俺は貴俊を待っていた。
『お疲れさま』
 そんな、たった一言が言いたくて、読んでいる小説と古びた掛け時計を交互に見比べて、眠気眼を擦りながら、長い夜を過ごした。今思えば、そんな些細なことが楽しくて、そんな些細な楽しみを持てることに、幸せを感じていたのかもしれない。

 けれど、貴俊は、俺が待っていることを素直に喜んだりはしなかった。嬉しそうに、けれど、少し困ったように「待たれていると思うと、罪悪感があるから先に寝ていてほしい」と、再三、言われ続けた。半分は本音で、半分は気を遣った言葉だったのだろう。今では、都合よく貴俊の言葉を真に受けることにしている。
 読んでいた活字がぼやけて、瞼が重くなる。頭に入らなかったビジネス書を枕元に置くと、寝返りを打つ。そうすると、直ぐにでも睡魔が襲ってきた。


 ギシギシと床が軋む音がして、夢の中から意識が引き上げられた。襖が開けられる音がして、その後には、背後でゴソゴソと物音が響いた。瞼を持ち上げて、頭だけ振り返ると、布団を被ろうとしている部屋着姿の貴俊と目が合った。

「悪い。起こしたか?」

 小さく頷くと、凛々しい顔が苦笑いをつくる。寝返りを打っているうちに、ずり下がっていた掛け布団を引き上げられて、肩を覆うようにかけられる。

「まだ三時だから」

 ポンポンと幼児を寝かすように胸元を撫でられた。その大きな手を掴んで、指と指を絡み合わせると、俺の布団へ引き入れた。少し動揺した貴俊が可笑しくて、口元が緩んでしまう。

「貴俊、おやすみ…………」

 瞼は鉛のように重く、開けていられなくなる。

「ん、おやすみ」

 低く優しい男の声が耳に心地好く、繋いだ大きな手が握り返してくることに、不思議なほど安堵してしまう。

 どんなに固く繋ぎ合った手も、どうせ朝には離れてしまっているのだけれど。

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