Tragedian ～番を失ったオメガの悲劇的な恋愛劇～

海辺の別荘

第162幕

　ランチタイムに学園から飛び出して、突如行方を眩まし、無断で外泊した河島隼人が、素知らぬ顔で学生寮に戻れば、Ｂ棟はざわめいた。遠巻きに様々な憶測が飛び交ったが、教師や両親に事情を問い詰められても、隼人は押し黙ったままであった。ともすれば、課される罰も重たいものとなる。学生寮より一週間の外出禁止と、反省文の提出を余儀なくされたのであった。
　そうして、ようやく外出許可が下りた隼人は、豪邸を見上げていた。再び訪れることはないだろうと思われた神崎邸を前にして、緊張した面持ちで呼吸を整える。

　隼人がインターホンを押し込んだ瞬間、ガレージのシャッターが静かに上がっていく。そうして、豪奢な屋敷からシルバーの外車が一台滑り出していった。運転席には、表情に翳りのある壮年の紳士。

　隼人は、その横顔にハッとしたが、走り去る外車に追い付けるわけもなく、見送ることしかできなかった。

「どちら様ですか？」

　インターホンの向こう側からは聞き覚えのある老婆の声がした。

「あの、河島隼人です。薫くんのクラスメイトの……」
「しばらくお待ち下さい」

　通話が切れてから、河島隼人は随分待たされた。

「また来てくれたのね」

　玄関の扉が開き、出迎えたのは、長い黒髪の美しい女であった。

「あの、薫のお父さんに話があります」

　隼人は挨拶もそこそこに本題に切り込んだ。

「ごめんなさいね。主人は、今出て行ったところで」
「そうですか」

　やはりシルバーの車で走り去っていったのは、薫の父親であったのだ。隼人は、申し訳なさそうに微笑む女を、じっと見つめた。

「どうかしたの？」

　薫の母親は不思議そうに首を傾げた。

「どうして薫を……あの男に引き取らせたりなんかしたんですか？」

　神崎婦人は何を云われているのか理解できない。夢見る少女は、いつでも蚊帳の外で、何も知らされていなかった。

「君は……」

　扉の向こう側から声が聞こえた。隼人が神崎邸を覗き込めば、階段の中央で手すりに凭れている男と目があった。隼人は男を睨み付ける。

「薫のこと、邪魔になったんですか。自分が結婚するから？」

　神崎響は眉を曇らせる。訳知り顔で敵意を剥き出しにしているのは、実弟のかつての同室者の青年である。

「母さんは席を外してくれ」
「え、でも、……」

　神崎婦人は、夫に息子の監視を言付かっていた。それでも、有無を言わさぬ狼の強い眼差しに射抜かれれば、口を噤むほかなかった。