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海辺の別荘
第160幕
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結城博己が海辺の別荘を訪れてから一週間が経とうとしていた。彼は日がな一日をリビングのソファで過ごしていた。好みのクラシックをかけながら、大海原を見渡せる窓辺で読書に耽っている。
彼がこうして、ゆったりとした日々を過ごせているのは、高等部の三年生が本格的な受験シーズンに突入し、登校自体が任意となっているからである。結城博己は既に志望校への出願を果たしており、あとは、ほぼ確定している合否結果を待つばかりであった。
対して、博己に引き取られた不遇のオメガは、一日中、宛がわれた自室に閉じ籠っていた。リビングルームを占拠している博己の読書の邪魔などできるはずもない。仕方なく、部屋の大きな窓を開け放ち、バルコニーから秋の海を眺めて過ごしていた。
同じ屋根の下で寝泊まりしているというのに、博己と薫の交流はほとんどないに等しかった。それでも三度の食事は必ず博己と食卓を囲んだ。会話らしい会話はないけれど、それでも彼等にとっては唯一顔を見合わせる時間であった。
薫がそれ以外に部屋を出ることがあるとするなら、用を足す時ぐらいのものであった。しかし、それも気軽なわけではない。
手洗い場はリビングの反対側にあるため、横切る際には、ソファに腰かけている博己の目に触れないかと緊張してしまう。
手洗い場で、濡れた手をタオルで拭うと、薫はそっと扉を開いた。リビングのソファには博己の後頭部が見える。薫は息を吐くと、音を立てないように静かに、それでいて、速足で通り抜けようとした。
「カオルさん」
唐突に呼び止められて、薫は振り返った。そこにはキッチンから現れた小柄な老婆が微笑んでいた。
「夕食の準備ができましたので、私はこれで失礼しますね。お皿は下げて置いていただければ、明日、片付けますので」
「……え、あ、それは、」
薫は困惑した。博己の所有物でしかない自身が、そのような言付けを預かって良いのか判断がつかなかった。
キッチンからはビーフシチューの良い匂いが漂っていた。家政婦の老婆の帰宅時間は早く、夕食の支度が終われば別荘を後にすることになっている。
「ミスターはお疲れのようなので」
ソファに腰かけている博己は、瞼を閉じて、読んでいた本を開いたまま膝に置いていた。
「……わかりました。博己には俺から伝えておきます」
薫は少し考えて、家政婦を苦笑いで見送った。
リビングの窓は薄く開いていた。水平線に夕日が沈みかけており、冷たい潮風が吹き抜けている。
眠っている博己は、薄手のシャツ一枚の姿であった。少し肌寒そうに感じて、薫は自室にあったブランケットをかけてやる。
それでも、博己は目を覚まさなかった。
薫はしばらく佇んでいたが、意を決したように博己の隣に腰を下ろした。ほんの少し、身体を寄せれば男の体温を感じられる。結城博己に触れたのは、この別荘を初めて訪れた日に、手酷く抱かれたのが最後であった。
薫はこの一週間、自分の役目を果たせていない。
「…………博己」
結城博己は、麗しい美貌の青年であった。
威圧的な鋭い瞳は、今は閉ざされている。このように無防備で穏やかな寝顔を目の当たりにするのは、初めてのことであった。
薫は恐る恐る、長い睫毛に触れる。
ずっとはここにいられるわけではないのだろう。この別荘は仮の住まいであったし、博己は春を過ぎれば留学してしまう。
博己は薫を「運命の番」と呼んだけれど、それは酷く忌々しげであった。そうして、その苛立ちを自身に幾度となく、ぶつけられ続けていた。
『俺が卒業するまでの遊びだよな?』
半年ほど前に告げられた言葉を反芻し、薫は俯いた。あの頃は、結城博己が満足すれば、ただ捨てられるだけのことであったが、今、捨てられるとしたなら、それは「廃棄」である。
薫の命は、さほど長くはないのかもしれない。けれど、薫はそれでもいいと思っていた。薫にとって、死は身近であり、甘美な誘惑であるのだから。
「……ッ」
肩に重みがのしかかり、薫は硬直する。博己の体温を感じ、博己の黒髪が首筋にかかる。
至近距離の形の良い唇からは、静かな寝息すら聞こえていた。
薫は、指先で博己の唇に触れる。柔らかくて温かい。もし、この命が残り僅かなのであれば、もっと博己に触れておきたかった。そんな渇望が、薫の行動を大胆にしたのかもしれない。
「ん、……」
博己は身動いだ。その瞼が今にも開きそうで、薫は血の気を引いて飛び起きると、逃げるように自室に飛び込んだ。
ドクドクと心臓が跳ねる。
勝手な真似をして、あの暴君に叱責されるかもしれない。それでも、薫は後悔などしないだろう。博己の唇に触れた指先を、自らの唇に押し当てた。
「薫……?」
博己は瞼を擦った。
薫の名を呼んだのは、馴染みのある独特の甘い香りがしたからである。膝には見慣れないブランケットがかけられおり、それが甘い匂いの正体であると気づくのに、さほど時間を要しない。
博己はブランケットを投げ捨てようとするが、それもできずに胸元で握り締めた。媚びたような甘い匂いは、甚く堪に触るのに、どうしようもなく魂が惹き付けられてしまうのだ。
彼がこうして、ゆったりとした日々を過ごせているのは、高等部の三年生が本格的な受験シーズンに突入し、登校自体が任意となっているからである。結城博己は既に志望校への出願を果たしており、あとは、ほぼ確定している合否結果を待つばかりであった。
対して、博己に引き取られた不遇のオメガは、一日中、宛がわれた自室に閉じ籠っていた。リビングルームを占拠している博己の読書の邪魔などできるはずもない。仕方なく、部屋の大きな窓を開け放ち、バルコニーから秋の海を眺めて過ごしていた。
同じ屋根の下で寝泊まりしているというのに、博己と薫の交流はほとんどないに等しかった。それでも三度の食事は必ず博己と食卓を囲んだ。会話らしい会話はないけれど、それでも彼等にとっては唯一顔を見合わせる時間であった。
薫がそれ以外に部屋を出ることがあるとするなら、用を足す時ぐらいのものであった。しかし、それも気軽なわけではない。
手洗い場はリビングの反対側にあるため、横切る際には、ソファに腰かけている博己の目に触れないかと緊張してしまう。
手洗い場で、濡れた手をタオルで拭うと、薫はそっと扉を開いた。リビングのソファには博己の後頭部が見える。薫は息を吐くと、音を立てないように静かに、それでいて、速足で通り抜けようとした。
「カオルさん」
唐突に呼び止められて、薫は振り返った。そこにはキッチンから現れた小柄な老婆が微笑んでいた。
「夕食の準備ができましたので、私はこれで失礼しますね。お皿は下げて置いていただければ、明日、片付けますので」
「……え、あ、それは、」
薫は困惑した。博己の所有物でしかない自身が、そのような言付けを預かって良いのか判断がつかなかった。
キッチンからはビーフシチューの良い匂いが漂っていた。家政婦の老婆の帰宅時間は早く、夕食の支度が終われば別荘を後にすることになっている。
「ミスターはお疲れのようなので」
ソファに腰かけている博己は、瞼を閉じて、読んでいた本を開いたまま膝に置いていた。
「……わかりました。博己には俺から伝えておきます」
薫は少し考えて、家政婦を苦笑いで見送った。
リビングの窓は薄く開いていた。水平線に夕日が沈みかけており、冷たい潮風が吹き抜けている。
眠っている博己は、薄手のシャツ一枚の姿であった。少し肌寒そうに感じて、薫は自室にあったブランケットをかけてやる。
それでも、博己は目を覚まさなかった。
薫はしばらく佇んでいたが、意を決したように博己の隣に腰を下ろした。ほんの少し、身体を寄せれば男の体温を感じられる。結城博己に触れたのは、この別荘を初めて訪れた日に、手酷く抱かれたのが最後であった。
薫はこの一週間、自分の役目を果たせていない。
「…………博己」
結城博己は、麗しい美貌の青年であった。
威圧的な鋭い瞳は、今は閉ざされている。このように無防備で穏やかな寝顔を目の当たりにするのは、初めてのことであった。
薫は恐る恐る、長い睫毛に触れる。
ずっとはここにいられるわけではないのだろう。この別荘は仮の住まいであったし、博己は春を過ぎれば留学してしまう。
博己は薫を「運命の番」と呼んだけれど、それは酷く忌々しげであった。そうして、その苛立ちを自身に幾度となく、ぶつけられ続けていた。
『俺が卒業するまでの遊びだよな?』
半年ほど前に告げられた言葉を反芻し、薫は俯いた。あの頃は、結城博己が満足すれば、ただ捨てられるだけのことであったが、今、捨てられるとしたなら、それは「廃棄」である。
薫の命は、さほど長くはないのかもしれない。けれど、薫はそれでもいいと思っていた。薫にとって、死は身近であり、甘美な誘惑であるのだから。
「……ッ」
肩に重みがのしかかり、薫は硬直する。博己の体温を感じ、博己の黒髪が首筋にかかる。
至近距離の形の良い唇からは、静かな寝息すら聞こえていた。
薫は、指先で博己の唇に触れる。柔らかくて温かい。もし、この命が残り僅かなのであれば、もっと博己に触れておきたかった。そんな渇望が、薫の行動を大胆にしたのかもしれない。
「ん、……」
博己は身動いだ。その瞼が今にも開きそうで、薫は血の気を引いて飛び起きると、逃げるように自室に飛び込んだ。
ドクドクと心臓が跳ねる。
勝手な真似をして、あの暴君に叱責されるかもしれない。それでも、薫は後悔などしないだろう。博己の唇に触れた指先を、自らの唇に押し当てた。
「薫……?」
博己は瞼を擦った。
薫の名を呼んだのは、馴染みのある独特の甘い香りがしたからである。膝には見慣れないブランケットがかけられおり、それが甘い匂いの正体であると気づくのに、さほど時間を要しない。
博己はブランケットを投げ捨てようとするが、それもできずに胸元で握り締めた。媚びたような甘い匂いは、甚く堪に触るのに、どうしようもなく魂が惹き付けられてしまうのだ。
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