Tragedian ～番を失ったオメガの悲劇的な恋愛劇～

逃避行

第155幕

　河島隼人と神崎薫の逃避行は、呆気なく幕を閉じた。薫は堤防から見下ろす男の元に自ら赴いて、顔をあげた。

「もういいのか？」
「……はい」

　落ち着いた顔のオメガに、アルファは片眉を上げた。神崎薫の瞳は正気の光が宿っており、抵抗の色も見られなかった。すべてを委ねると誓いを立てた結城博己の言葉を健気に待っていた。

「こちらへ」

　スーツ姿の使用人が、黒塗りの外車へ促した。後部座席のドアが開くと、博己は顎で薫に指示する。薫はもう一度、服についた砂を払って高級車に乗り込んだ。それでもオメガに纏わり付く砂が後部座席を汚す。

　博己が続いて乗り込むと、神経質そうな使用人が主人に問いかける。

「彼の処分は、私にお任せください」

　無機質な声に、薫は目を見開いた。
「彼」とは、河島隼人のことを指している。
　
「ベータなんかに構わなくていい」
「しかし、」
「早く車を出せ」
「畏まりました」

　薫は俯いて、ドクドクと跳ねる胸を撫でた。
　自らが巻き込んでしまった河島隼人の危機は、回避できたのだろうか。隣に座る麗しい青年は、ほんの気まぐれで、ベータの人生を狂わせてしまえるのだ。

　黒塗りの外車が静かなエンジン音を響かせる。

　博己は憂鬱そうに窓の外を眺める。不意に、海辺に座り込むベータの青年と視線が絡んだ。
　アルファ性の頂点に君臨する結城博己の手を煩わせる愚かなベータ。使用人の男が進言するように、早々に「処分」するのが正しい判断なのだろう。

　それでも、あの海辺で恨めしそうな瞳を向けてくる青年に、博己は牙を剥く気にはなれなかった。

　結城博己にとっては、河島隼人は、唯一の理解者に成り得たからである。この小賢しいオメガに傷つけられた同胞の被害者であり、アルファである自らに拳を振り上げて、博己と対等にならんとした勇敢なベータであった。

　けれど、それは博己の一方的な思い込みである。河島隼人からすれば、結城博己は絶対的な強者であり、想い人を奪い取り、虐げている憎むべき存在でしかない。

　それでも、博己からの謂れのない共感こそが、隼人の生命を救っていたのであった。