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オメガの所有権

第147幕

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 神崎家と柳瀬家の縁談は両家の望むところであった。そこには、神崎家には神崎家の思惑があり、柳瀬家には柳瀬家の思惑があったはずである。自身に有利な条件で交渉を進めようすることは、アルファ性のサガである。両者は互いに腹を探り合いながらも、親族になる手順を確実に整えていたはずである。

 けれど、この縁談は呆気なく破談となった。

 責任の所在は、どちらに在ったのか。オメガ性の発情期を利用した柳瀬家の失策であったのか、縁談を申し込んだはずの神崎家が番の契約を拒否したことによるものか。
 何れにせよ、両家の次期当主の青年たちは、晴れの席で共食いとも言える失態を晒し、両家の現当主たちの口を噤ませたのであった。



「薫くん、スイートポテト食べる?」

 本条は屈託のない笑顔で、菓子の箱を掲げてみせた。452号室の担当看護師は、定期的に甘い菓子を患者に差し入れる。退屈な入院生活の中で、娯楽といえば食べることぐらいのものであろう。

「ありがとうございます」

 ベッドに座って読書をしていた神崎薫は、本を閉じて薄く微笑んだ。
 看護師は、戸棚から食器を取り出しながら、横目に空の花瓶を確認する。本条看護師が萎れた白い花を片付けてから、既に一週間以上が経過していた。

 唐突に、施錠されているはずの扉が開く。
 年の離れたオメガの青年達は、びくりと肩を震わせて視線を扉に向けた。

「理事長、」

 看護師は、面食らう。

「すまないが、外してくれないか」

 白衣を纏った壮年の医師は、看護師を一瞥する。本条は、ベッドの上で硬直している神崎薫の様子を窺った。不憫な患者に良くないことが起こる予感がする。それでも、神崎総合病院の長を務める男に、意見できるはずもなく、本条は「失礼します」と頭を下げると病室を立ち去っていく。

 扉が閉まると、神崎理事長はサイドボードのガラスの水差しを手に取った。とぷとぷと、グラスに水が注がれていく音だけが室内に響く。

「久しぶりだな」

 神崎医師が、ちらりと視線を寄越すも、薫は怯えたように頷くだけであった。医師はベッドの脇の椅子に腰を掛けて、患者に水の入ったグラスを手渡した。水色の病衣を着込んだ患者は、不安げな眼差しで見上げる。
 医師は白衣の胸ポケットからPTPシートを取り出した。

「飲みなさい」

 目の前に差し出された三錠の薬に、薫は唇を震わせた。

「精神安定剤だ。多少は気分が落ち着く」

 神崎薫に拒否権などはない。じっと見下ろされる視線に堪えかねて、おずおずと錠剤を口に入れる。

「口を開けて見せなさい」

 薫は薬を飲み込むと、大人しく口を開いた。医師は口内が空であることを確かめると、小さく頷いた。

「髪を、切ったのか?」

 父親は問いかける。

「本条さんが切ってくれて」
「そうか」

 親子の会話はそれきりであった。気まずい沈黙が流れて、薫は息苦しそうに自身の胸を撫でた。

「響と番になりたいか?」
「え、」

 予想外の問いかけに、薫は父の顔を見上げた。

「響には、大学院を卒業したらオメガの正妻を娶らせる。お前には、神崎家の敷地に離れを造ってやろう。……そうだな。たまになら、響と会わせてやるし、外には出してやれないが、お前の生活は神崎が保証しよう」
「それは、つまり……兄さんの愛人になるってこと?」

 部屋の空気が凍りつく。
 実父が提案したのは、次男を長男の妾として囲わせることであった。あまりにも悍ましい提案であったが、それでも、神崎氏が考えうる限り最大級の譲歩である。
 これ以上、無理に元番と引き離そうとするならば、多少の無茶をしても響は薫を連れて姿を消してしまうだろう。それならば、薫を手元に置いて、彼等を監視する方が余程マシである。

「お前が、響を説得するんだ」

 最早、神崎響には父親の声は届かない。どんなに殊勝に振る舞っても、仮面の裏では牙を剥く。その現実を、神崎氏は認めるしかなかった。それでも、固執している薫の言葉であれば、響は聞き入れるだろう。

「…………無理だよ」

 薫は、きゅっとシーツを握り締める。再び実兄の番となり、響に恋い焦がれながら、愛人として神崎家に閉じ籠られる未来は、あまりにも孤独に思えた。
 それに、神崎薫には運命の番がいる。総てを委ねた結城博己の許しがなければ、薫は何一つ決めることはできない。

「そうか。今の話は忘れてくれ」
 
 神崎氏は、落胆の息を吐く。
 否、逃避行を企てていた神崎兄弟が受け入れる提案ではないことは理解していた。ほんの僅な可能性を提示したに過ぎない。

「……ん、……」

 ぐわんと視界が歪み、薫は前のめりに倒れ込む。医師は腕を伸ばして、その身体を受け止めた。憂いを纏う患者からは、微かな甘い香りが漂う。

「どうした?」

 男は耳元で優しく問いかける。

「……ごめ……なさい……眠くて、」

 薫の瞼は、鉛のように重くて持ち上がらない。身体からは力が抜けて、じんわりと手先が痺れていくようであった。

「もう苦しまなくていい……」

 低く優しい声色に、薫の意識は緩やかに遠退いていったのであった。

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