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茶事

第142幕

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 柳瀬家の離れ座敷は、庭園の最奥に位置していた。柳瀬婦人の案内されるままに母屋の正面玄関から外に出ると、裏手の細道を歩かされる。観賞用に手入れがされた庭園とは対称的に草木が伸びた細道は、昼であってもどこか薄暗く来訪者を拒んでいるようであった。

「こちらが離れですわ」

 柳瀬婦人が示した先の家屋は、ひっそりと存在し、まるで隠匿された座敷牢を思わせる。
 貴婦人は躊躇した様子もなく着物の袖から鍵を取り出した。

「詩織はあちらの奥の部屋に、」

 引き戸を開くと、向こう側には慎ましい土間が存在し、その奥には廊下が続いている。
 柳瀬婦人は、長身の青年に先を譲ると、静かに微笑んだ。
 響は、促されるままに屋敷に足を踏み入れる。

「では、ごゆっくり」

 そっと背中を撫でた手が一際、強く押し込まれた。背後で、カラカラと扉が閉まる音がして、振り返るも、そこには柳瀬婦人の姿はない。どうやら彼女の案内はここまでのようであった。
 響は息を吐くと、襟を整えた。

「お邪魔します。……神崎響です」

 少し大きめの声で名乗れば、廊下の奥の方から、微かに声が聞こえた気がしたが、しばらく間を置いても、出迎えはない。

「詩織さん、?」

 響は花束を抱えたままに靴を脱ぐと、廊下の奥に足を進める。不意に、甘い香りが鼻腔をくすぐり、どくんと心臓の音が一際大きく響いた。
 オメガを住まわせている屋敷だからであろうか。屋敷に染み着いている独特の香りには、少しばかり馴染みがあった。響は誘われるように廊下の奥へ奥へと足を進めた。実弟の放つ甘美な香りに近しく、酷く惹きつけられる。そうして、奥の襖を開けた瞬間、濃密な甘く卑猥な香りが放たれた。

「…………これは、……」

 響の腕から、抱えた花束が滑り落ちた。
 薄暗い部屋の中で、仄かな暖色の照明が灯る。中央には布団が敷かれており、その上には項垂れたように座り込んでいる女がいた。長い髪の女は、のっそりと顔をあげると、小さく喉を鳴らした。

「……はぁ、……」

 女の瞳は涙で潤み、頬は上気していた。着崩れた朱色の襦袢からは未発達の少女の手足が覗く。汗ばんだ肌に、栗色の髪が張り付き、オメガ独特の妖艶さを醸し出す。そこに居るのは、写真で見た可憐で清楚な少女とは、全くの別の「魔物」であった。

「響さん、……?」

 甘く掠れたような高い声はよく通る。少女は、よろめきながらも立ち上がると響に泣きそうな顔で微笑んだ。

 神崎響は全てを理解する。
 このオメガの娘は発情期を迎え、自らを喰らう狼を迎え入れている。それが何を意味するのか、わからないほど初心ではない。「これ」は見合いなどではないのだ。もっと確実な既成事実を作り出す儀式であったのだ。

 足を震わせながら近づいてくる相手は、華奢な娘である。それでも響は、足が竦み、その場で立ち尽くしていた。
 少女の足がもつれ、倒れこもうとすれば、咄嗟に響は彼女を抱きとめる。腕には発達途上の小ぶりの乳房が押し当てられ、太ももには女の股が触れていた。
 くしゃりと足元で音がした。アルファとオメガは、祝いの花束を踏みつけていた。

「ごめんなさい……あつくて、」

 オメガの少女は溢れ落ちそうなほど大きな瞳で、アルファの青年を見上げた。神崎響は、見合い写真で見たよりも遥かに美男子であった。少女の胸は高鳴り、腹の奥が疼いて膣を濡らし、熱い吐息が漏れる。
 少女は無意識に男を誘惑する。オメガにとって、それは例え親の仇であっても抗うことは敵わない本能である。

「首輪……していないのか、」

 発情期のオメガ性のフェロモンは、アルファ性には劇薬でしかない。狼の目は、みるみると赤く染まり、血は沸騰したように熱く滾る。響は眼前の白い首筋から目を離すことができない。甘い香りは狼を酔わせ、腹の奥底から抗えない狩猟欲が沸き上がらせる。額と脇からは汗が吹き出し、激しい動悸に耳鳴りが響く。ただ、ただ、暴力的な衝動のままに目の前の獲物の首に喰らいつき、捕食してしまいたくなる。

 また、同じ過ちを繰り返すのか。

 脳内に冷ややかな声を聞いた気がした。

「……ッ」

 響は咄嗟に自らの手の甲に噛みついた。鋭い犬歯は薄い皮を破り、肉からは赤い血が滴る。焼けるような痛みと、鉄の臭いは狼に僅かな理性を引き戻させる。

「……ひびき、さん…」

 詩織は熱に浮かされたように、切なげに響を見つめる。手の甲を噛みしめる狼の瞳は血のように赤く、妖艶なオメガを鋭く射抜いていた。それでも、部屋に充満する官能的な香りは、あまりにも濃密で、すぐにでもアルファの理性を失わせるだろう。
 女の股から愛液が溢れ太ももを伝い、男のスラックスを濡らす。

「やめてくれ……ッ」

 響は、華奢の少女を押し退けて、部屋から飛び出した。詩織はその場にへたり込み、去り行く獣を手を伸ばした。

「…………待って、」

 この疼きを止められるのは、子種を持つ「雄」しかいない。

「お願い……」

 うら若き乙女は、まだ蕾であった。それでも甘い蜜を溢れさせながら、その場でうずくまり、持て余した熱に、独りで喘いでいることしかできなかった。


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