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見舞客
第111幕
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八月も半分を過ぎた頃であった。
神崎病院に、大きな花束を抱えた男が訪れる。一階フロアには、外来患者が溢れ返っていたが、彼は気にした素振りもなく病んだ人々を颯爽と横切って、ガラス張りのエレベーターに乗り込んだ。
四階の入院フロアに辿り着れば、静まり返った空間が現れる。人の気配は確かにあったが、良識的な患者たちは、生活音も遠慮がちのようである。
見舞い客らしい男が、ナースステーションの前を抜けていく。看護師たちは、一瞬、彼の姿を目に留めた。看護師たちに声をかけることもなく通り過ぎていく横顔は、麗しい青年のもので、抱えた白い花束からは薔薇のような華やかな香りが舞い散っていく。
彼が通り過ぎた後には、どの患者の見舞いだろうか、と小さな噂話が華やいだ。
男は『関係者以外立ち入り禁止』の表示スタンドが置かれている一角に辿り着く。部外者のはずの彼は、迷うことなくスタンドの後ろに回り込み、扉のリーダーにカードを翳した。解除音が響き、部外者の男は扉を開いて廊下を進んでいく。窓のない長い廊下の終点には、再び扉が現れる。扉の横には、今度は数字のキーが並び、男は少し考えて六桁の数字を打ち込んだ。電子版に「OK」の文字が表示され、男は息を吐くと扉を開いた。
先程までの殺風景な風景から一転し、ホテルのラウンジのようなスタイリッシュな空間が現れる。窓に向けてソファが幾つも並べられ、大きな窓からは小高い山の裾に広がる街並みが見渡せた。よく見れば、一人掛けのソファに腰かけた高齢の紳士がコーヒーを静かに嗜んでいる。ノスタルジックなピアノの音色に合わせて、軽く指でリズムを取っているようだった。
カウンターから優雅な足取りでスーツ姿の男が現れる。
「おはようございます」
スーツ姿の男は、まるでホテルのVIP専属のコンシェルジュさながらに上品に微笑んだ。この病棟に足を踏み入れることが相応しいか値踏みされているような視線に、花束を抱えた男は僅かに眉を曇らせた。
「お見舞いでしょうか?」
「452号室に」
「そうですか。では、こちらに、」
部屋番号を耳にして、コンシェルジュは笑みを浮かべたまま、廊下の奥へと案内する。点在する扉を通り過ぎ、奥の扉まで辿り着くと、コンシェルジュはカードを翳して施錠を解除する。明るく豪奢な廊下から、今度は薄暗くひんやりとした廊下が奥に続いていた。
「452号室はあちらの奥になります。お帰りの際は、フロントまでご連絡下さい」
コンシェルジュの案内はここまでのようで、上品に頭を下げると、背後で扉が閉められる。カチャンと施錠の音が響き渡って、見舞い客の男は足を踏み出した。
人の気配の薄い廊下を歩きながら、部屋のプレートを確認していく。程なくして、『452号室』のプレートを見つけると、立ち止まった。男はカードキーを翳して、施錠を解除する。何重にも鍵がかけられた廊下を歩き回り、漸く辿り着いた部屋は、想像よりも広く明るい病室であった。
「……呼んでないけど、」
神崎薫は扉の開閉音に反応して、瞼を開いた。ベッドに寝そべり惰眠を貪っていた薫は、起きる気もせず、目元を両腕で覆い、不満げな声を溢す。この部屋に訪れるのは、身の回りの世話をする監視役の男以外には存在しないはずであった。
男は無言でベッドに近づいた。
神崎薫は、どことなく違和感を覚えて、腕を退かせて扉の方に視線を投げた。来訪者を視界に入れた瞬間、切れ長の目が大きく開かれる。
「博己、」
薫は慌てて上半身を起こして、着衣の乱れを整えた。頭の中は真っ白になり、息苦しくて、胸を押さえる。結城博己の来訪など、想像できるはずもない。
「元気そうだな、」
博己は落ち着いた声で感想を述べると、抱えていた花束を薫に差し出した。
「ぁ、ありがとう、」
花などプレゼントされたことのない薫は、ほんの少し動揺したが、震える手で白い花束を受け取った。小振りの花々は派手さはなく、野花のような素朴さであったが、博己から贈られたという事実が、薫の動悸を激しくする。頬を仄かに紅く染めて、花束を抱え込むと、鼻先を白い花に埋める。緑の爽やか中に、ほんのり甘い香りが胸を一杯にする。
「博己、どうして、ここに、……?」
薫は上目遣いで博己を見上げた。結城博己に再会したのは一ヶ月ぶりのことであった。初めて出会った頃のように、魂が惹き付けられるのを感じて、オメガの身体は熱くなる。
「なんだ、何も聞かされていないのか」
博己は、薫の頬に手を添えた。滑るような肌は、温かく血が通っている。
大きな手は、少し冷たく感じる。
「お前のことを、買ってやったんだ」
博己の親指が幸の薄い唇をなぞった。
「……ぇ、……?」
何を言われたのか、薫は直ぐには飲み込めない。言葉が見つかる前に、唇と唇が触れ合った。二つの肢体に挟まれて、花束はくしゃりと音を立てて、白い花弁を散らしていった。
神崎病院に、大きな花束を抱えた男が訪れる。一階フロアには、外来患者が溢れ返っていたが、彼は気にした素振りもなく病んだ人々を颯爽と横切って、ガラス張りのエレベーターに乗り込んだ。
四階の入院フロアに辿り着れば、静まり返った空間が現れる。人の気配は確かにあったが、良識的な患者たちは、生活音も遠慮がちのようである。
見舞い客らしい男が、ナースステーションの前を抜けていく。看護師たちは、一瞬、彼の姿を目に留めた。看護師たちに声をかけることもなく通り過ぎていく横顔は、麗しい青年のもので、抱えた白い花束からは薔薇のような華やかな香りが舞い散っていく。
彼が通り過ぎた後には、どの患者の見舞いだろうか、と小さな噂話が華やいだ。
男は『関係者以外立ち入り禁止』の表示スタンドが置かれている一角に辿り着く。部外者のはずの彼は、迷うことなくスタンドの後ろに回り込み、扉のリーダーにカードを翳した。解除音が響き、部外者の男は扉を開いて廊下を進んでいく。窓のない長い廊下の終点には、再び扉が現れる。扉の横には、今度は数字のキーが並び、男は少し考えて六桁の数字を打ち込んだ。電子版に「OK」の文字が表示され、男は息を吐くと扉を開いた。
先程までの殺風景な風景から一転し、ホテルのラウンジのようなスタイリッシュな空間が現れる。窓に向けてソファが幾つも並べられ、大きな窓からは小高い山の裾に広がる街並みが見渡せた。よく見れば、一人掛けのソファに腰かけた高齢の紳士がコーヒーを静かに嗜んでいる。ノスタルジックなピアノの音色に合わせて、軽く指でリズムを取っているようだった。
カウンターから優雅な足取りでスーツ姿の男が現れる。
「おはようございます」
スーツ姿の男は、まるでホテルのVIP専属のコンシェルジュさながらに上品に微笑んだ。この病棟に足を踏み入れることが相応しいか値踏みされているような視線に、花束を抱えた男は僅かに眉を曇らせた。
「お見舞いでしょうか?」
「452号室に」
「そうですか。では、こちらに、」
部屋番号を耳にして、コンシェルジュは笑みを浮かべたまま、廊下の奥へと案内する。点在する扉を通り過ぎ、奥の扉まで辿り着くと、コンシェルジュはカードを翳して施錠を解除する。明るく豪奢な廊下から、今度は薄暗くひんやりとした廊下が奥に続いていた。
「452号室はあちらの奥になります。お帰りの際は、フロントまでご連絡下さい」
コンシェルジュの案内はここまでのようで、上品に頭を下げると、背後で扉が閉められる。カチャンと施錠の音が響き渡って、見舞い客の男は足を踏み出した。
人の気配の薄い廊下を歩きながら、部屋のプレートを確認していく。程なくして、『452号室』のプレートを見つけると、立ち止まった。男はカードキーを翳して、施錠を解除する。何重にも鍵がかけられた廊下を歩き回り、漸く辿り着いた部屋は、想像よりも広く明るい病室であった。
「……呼んでないけど、」
神崎薫は扉の開閉音に反応して、瞼を開いた。ベッドに寝そべり惰眠を貪っていた薫は、起きる気もせず、目元を両腕で覆い、不満げな声を溢す。この部屋に訪れるのは、身の回りの世話をする監視役の男以外には存在しないはずであった。
男は無言でベッドに近づいた。
神崎薫は、どことなく違和感を覚えて、腕を退かせて扉の方に視線を投げた。来訪者を視界に入れた瞬間、切れ長の目が大きく開かれる。
「博己、」
薫は慌てて上半身を起こして、着衣の乱れを整えた。頭の中は真っ白になり、息苦しくて、胸を押さえる。結城博己の来訪など、想像できるはずもない。
「元気そうだな、」
博己は落ち着いた声で感想を述べると、抱えていた花束を薫に差し出した。
「ぁ、ありがとう、」
花などプレゼントされたことのない薫は、ほんの少し動揺したが、震える手で白い花束を受け取った。小振りの花々は派手さはなく、野花のような素朴さであったが、博己から贈られたという事実が、薫の動悸を激しくする。頬を仄かに紅く染めて、花束を抱え込むと、鼻先を白い花に埋める。緑の爽やか中に、ほんのり甘い香りが胸を一杯にする。
「博己、どうして、ここに、……?」
薫は上目遣いで博己を見上げた。結城博己に再会したのは一ヶ月ぶりのことであった。初めて出会った頃のように、魂が惹き付けられるのを感じて、オメガの身体は熱くなる。
「なんだ、何も聞かされていないのか」
博己は、薫の頬に手を添えた。滑るような肌は、温かく血が通っている。
大きな手は、少し冷たく感じる。
「お前のことを、買ってやったんだ」
博己の親指が幸の薄い唇をなぞった。
「……ぇ、……?」
何を言われたのか、薫は直ぐには飲み込めない。言葉が見つかる前に、唇と唇が触れ合った。二つの肢体に挟まれて、花束はくしゃりと音を立てて、白い花弁を散らしていった。
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