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オメガの生存本能

第70幕

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 広い室内は、しんと静まり返っていた。
 都会の夜景を見下ろす展望のよい大きな窓には、身動ぎしない二つの人影が映り込む。

 キングサイズのベッドの隅で背中を丸めて固まっているのは、発情期の火照りから解放されて、理性を取り戻したオメガであった。
 情事の後は、程度の差はあれど、どこか気まずいものである。特に、理性を手放して、自ら実兄を誘惑し、劣情の赴くままに肌を重ね合わせる禁忌を犯していれば、尚のことである。薫は、どんな顔をして実兄と顔を合わせれば良いのか、途方に暮れていた。

 響は仰向けに横たわりながらも、薫の後頭部をぼんやりと見つめていた。小さく丸まって眠る実弟の癖は、昔から変わっていない。響はセピア色の思い出を辿ると、ほとんど無意識に、薫の頭に手を伸ばした。そっと指に黒髪を絡めて梳けば、しっとりと艶のある髪は、するすると指をすり抜けていく。
 何度か繰り返し髪を梳いていた指が、ふいにチョーカーに触れる。本革の首輪はやはり頑なに薫の首を締め付けていた。

 微動だにしなかった薫は、びくりと肩を揺らした。他人の手が、博己から贈られたチョーカーに触れられて、なんとも言えない居心地の悪さを感じてしまう。ゆっくりと顔だけ振り返って、響を見上げた。上目遣いで怯えたような黒曜石の瞳には、慈愛に満ちた瞳をしている男が映り込む。

「兄さん、アフターピル持ってる?」

 薫の問いかけに、響は静かに溜め息を吐いた。やはり、発情期のオメガと、目前にいる実弟は別の生き物なのだ。番の恋人であるはずの薫は、発情期のオメガの延長のようなものであり、今は残像が垣間見えるだけであった。

「…………少し、待ってろ、」

 響は、薫から視線を逸らして、気怠げに身体を起こした。
 避妊をしない男に抱かれる薫のことを責めたが、自分自身も発情期のオメガの誘惑に抗えず、正しく避妊することができなかった。響もまた、ヒートした狼と今の自分は別の生き物であるのだ、と納得しようとした。

 響はベッドの下に脱ぎ散らかしてあった下着に足を通すと、リビングに向かう。目的のサイドボードの前に辿り着くと、しゃがみこんで、中から木製の救急箱を取り出した。箱の中は、綺麗に仕切られて整理された薬剤のケースが並ぶ。響は、指でケースをなぞると、目当ての薬を引き当てた。

 不意に、玄関の飾り棚に置いてある大きな箱が視界に入った。そうして、薫の宝箱に仕舞われたガラクタたちの存在を思い出した。

 例え、失われた残像であっても、実弟の中には、番の契約を交わしたオメガがいる。神崎薫にとって、世界で唯一の番は、神崎響である。それは、覆ることのない事実である。

 響はもう一度、薬剤のケースをなぞり、目当ての薬を引き当てた。



「ほら、」

 響から手渡されたのは、二つの白い錠剤と、水の注がれたグラスであった。

「ありがとう、」

 薫は響に視線を向けることなく錠剤を受け取り、口に含もうとした。
 けれど、ほんの一瞬、躊躇した。じっと手の中の白い薬を見つめる。そういえば、数日前のあの悪夢の夜が明けてから、アフターピルを飲んでいなかったことに気がついた。

「どうかしたか?」
「……いや、なんでもないよ、」

 薫は薬を口の中に放り込んで、グラスを傾けた。そうして、薬と一緒に、得体の知れない不安感を飲み込んでいった。薫は響に視線を向けることはしなかった。

 響は、ただ、ぼんやりと実弟が薬を飲み込んでいく喉元を見つめていたのだった。


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