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その後の二人
しおりを挟む朝目が覚めた時、隣のベッドが空っぽになっていることに気がついた。
はっとして時計を見てみる。普段起きる時刻よりずっと遅くなっている。私は慌ててベッドから起き上がった。
今日は日曜日なので蒼一さんは仕事は休みだ。なので少しは寝坊しても構わないが、まさか彼より遅く起きることになるとは。私はそのまますぐに隣のリビングへ入った。
「おはようございます!」
扉を開けると、ふわりとコーヒーの香りが漂った。見てみると、ダイニングテーブルで蒼一さんが座って一人コーヒーを啜っている。私を見て笑いかけた。
「あ、おはよ」
「ね、寝坊しましたすみません……」
「僕も今さっき起きたとこだよほんと。もう朝食いらないかなーって」
「蒼一さんより寝坊するなんて」
「日曜だしいいんだよゆっくりすれば。てゆうか、昨晩無理させたからかな」
悪戯っぽく笑う彼の顔を見て、一気に昨夜の記憶が蘇り顔を熱くさせた。合わせていた視線を逸らす。そんな私を見て彼は面白そうに笑った。
「は、歯磨きしてきます!」
私は話を変えるようにそう宣言すると、すぐ近くの洗面室に入り、並んでいる歯ブラシの一つを手に取って磨き始めた。
蒼一さんと引っ越し、以前の家よりずっと狭いマンションに越してきて数ヶ月が経つ。二人きり(の予定だった)挙式も済ませ、穏やかに時を過ごしていた。
お互い遠慮することなく歩み寄りながら、それなりにうまく暮らしてきている。ようやく夫婦という形になってきた気がする。
あれ以降、お母様からのコンタクは何もない。お父様いわく、こってり叱られ搾られたお母様は落ち込んで大人しくしているらしい。顔を合わせることもないし、連絡を取ることもない。
新田さんも同じく全く関わることはない。蒼一さんとは未だ同じ職場で働いているけど、彼の話によると仕事上のことしか話しかけてこず、とにかく働くことに力を入れているとのことだった。
本当は新田さんは仕事上も何らかの対処を、と蒼一さんは言っていたのを私がお願いして止めた。確かに嘘を吐かれたりは許される行為ではないけど、それと仕事は別に考えて欲しかった。仕事もできる優秀な人だと聞いていたし。
それに……きっと、好きな人が突然婚約者の妹と結婚することになって、あの人も辛かったんだと思う。片想いは辛いことを、よく知っている。
私は結果蒼一さんに想いを受け止めてもらえたけれど、そうじゃなかったらと想像するだけで悲しい。新田さんはもう十分に辛い思いをしているはずなのだ。
彼は優しすぎる、せめて部署の移動ぐらいと言ってくれたけど頑なに止めたのは私だ。この結果で私は満足している。
身支度を簡単に整えてリビングへ戻る。冷蔵庫から水を取り出し、コーヒーを飲んでいる蒼一さんの正面に座り込んだ。
(うう……見慣れたはずなのに見慣れない)
私は言葉に困る。
だってもう暮らし始めてだいぶ経つ。今は同居人じゃなくてちゃんと夫婦として過ごしているのに、時々やっぱり現実とは思えなくなる。蒼一さんの整った顔を家の中で見ると、なんだか変な感じになる。
あまりに凝視しすぎたのか、蒼一さんがこちらを見る。ばちっと合ってしまった視線に、恥ずかしくなって目を逸らした。
「どうしたの、じっと見て」
「い、いやあ。特に理由はないっていいますか」
「ええ?」
「カッコよかったんで」
そう言ってみると、蒼一さんは小さくコーヒーを吹き出した。その様子につい笑ってしまう。彼は困ったように耳を赤くしてこちらを見てくる。
「いうようになったね咲良ちゃん。からかってるんでしょ」
「え! ちが、違いますよ!」
からかうなんてとんでもない。本心をそのまま話しただけなのだが。というか蒼一さんなんて絶対言われ慣れてる言葉だろうに、こんな反応することが意外だった。
彼は咳払いをして話題を変えるように言う。
「来週は咲良ちゃん火曜と木曜日がバイトだっけ?」
「はいそうです!」
私は元気よく答える。
引っ越して落ち着いてきてから、私も近くのお弁当屋さんでバイトを始めた。自分からやってみたい、と蒼一さんに相談したのだ。
彼が仕事に行っている間基本暇だ。今までは山下さんの料理教室があったけれど、引っ越した今はそれもなくなった。時間を持て余しているので、私も働いてみたくなったのだ。例えば蒼一さんにプレゼントをしたりするとき、ちゃんと自分が稼いだお金でなんとかしたい。
蒼一さんは許可してくれた。だがやけに心配そうにしているのだが、そんなに働くの向いてなさそうなのかな私。
ちなみに山下さんが家政婦として来ることはなくなったが、完全に彼女に懐いた私は月に一度、山下さんのお宅にお邪魔して料理を習っている。まだまだ教えてもらうことはたくさんあるし、何より会えなくなるのは寂しい。
「バイト慣れた?」
「はい、楽しくなってきました。バイト仲間とも親しくなれて」
「ふーん、大丈夫なの?」
肘をついて私を座った目で見てくる彼に、私は頬を膨らませた。
「私ちゃんと働けてますよ! 最近はもう一人前に動けてるって店長さんも」
「あー違う違う。咲良ちゃんの仕事ぶりは心配してないよ。
変な男に言い寄られてないかなって心配してるの」
彼はそんなことをやけに真剣な顔で言った。私はキョトンとしてしまう。
「え、えええ?」
「何かあったらすぐ言うんだよ」
「何もありませんよ! 私なんて、そんなの」
「咲良ちゃんは可愛いからモテるよ、僕は知ってる。だから心配してるの、変な虫がつかないかなーって」
私が可愛い、なんて絶対有り得ないことなのに、蒼一さんはよくそう口に出してくれる。どこをどう見ても平々凡々な私がモテるなんてありえないことなのだが、蒼一さんって美意識ズレているんだろうか。鏡見てほしい。
それでも彼は真顔で続ける。
「言ったでしょ、僕嫉妬深いって。呆れるかな」
「はあ……大歓迎なんで呆れるとかはないですが、なんていうか心配です」
「え?」
「蒼一さんの趣味が」
彼はようやく声を上げて笑った。私も釣られて笑ってしまう。リビングに二人の声が重なって響いた。蒼一さんは目に浮かんだ涙を人差し指で拭きながら言う。
「ていうか、お互い可愛いとかかっこいいとか言い合って何してんのって感じだね」
「あは、確かに」
「話はこの辺にしといて。今日何かやりたいことある?」
言われて考える。せっかくの日曜日、でも特にやりたいことなんてなかったなあ。昨日は二人で街に買い物に出かけたし、今日は近くのスーパーに行きたいくらいだ。
私は素直にそれを告げる。
「スーパー行くぐらいで、あとは特にないです」
「そっか、じゃあスーパーだけ行ってあとはゆっくりしよう」
「賛成!」
二人で出かける時間も好きだけれど、家でゆっくりするのも実はすごく好きだ。なんだかオフの蒼一さんは気が抜けててどこか可愛い。なんてことないテレビを眺めたり、なんてことない話をしたりする時間がとても幸せなのだ。
早めに買い物は行ってしまおう、と思いワクワクしていると、彼が思い出したように私に言った。
「あ、そうだ。ゆっくりしようって言ったばかりで申し訳ないんだけど、僕ちょっと希望があるんだけど」
私の顔を覗き込む彼を見て首を傾げる。蒼一さんは優しく微笑みながら、どこか子供のような表情で言った。
「ずっとお願いしたかったんだけど……。
ケーキ、食べたいんだ」
二人で買い物に行って色々な材料を購入する。生クリームに真っ赤な苺も忘れてはならない。そのまま帰宅すると、私は早速作業に取り掛かった。
手伝う、といった蒼一さんの申し出をありがたく思いながらも断った。これはとっくに過ぎた蒼一さんの誕生日のやり直しなのだ。私が全て作り上げたかった。
あの日、蒼一さんの言葉より他の人間のことを信じてしまった。そして彼に渡すことが出来なかったケーキ。ゴミ箱に行ってしまったあのケーキに謝りたい。
今ならもう同じ過ちは繰り返さない。私たちは思ったことをなんでも言葉にして伝え合うように心掛けている。それでもすれ違うこともあるかもしれない、でも何もせず黙っているよりずっとマシなのだ。
弱くて何も言えなかった当時の自分が懐かしい。あんな風にはもう絶対ならないという決意を、今日また誓う。
「すごい! 思った以上に本格的だった!」
数時間の時間をかけて出来上がったそれを見て、蒼一さんは目をまん丸にして声を上げた。私は久々にチャレンジしたこともあり、無事成功したことにほっと胸を撫で下ろす。前回は山下さんもいたから、一人で作るのは初めてだった。
ダイニングテーブルの上にホールケーキを置き二人でそれを囲む。蒼一さんは目を輝かせてスマホを取り出し何枚も写真を取り出した。想像以上の反応に私も笑ってしまう。
「撮りすぎです、歪なところもいっぱいあるからやめてください」
「待ち受けにするね」
「やめて!」
「じゃあこの前撮った咲良ちゃんの寝顔を」
「いつのまに撮ったんですかそんなのー!!」
私が慌ててスマホを取り上げようとするのを蒼一さんが笑う。わかってきたことだけど、彼は普段あんなに大人でビシッとしてるのにプライベートは意外と子供っぽい。よく笑うし私をからかってくる。夕飯に好物が出ると嬉しそうにするし一度気に入ったお菓子はずっと食べてる。
そんな素顔が見れるのがこの上なく楽しかった。今まで気を張っていたのが溶けていくみたい。
「冗談冗談。さ、写真も撮ったし早速食べたいな」
「はい、じゃあ切りますね」
仕切り直して、私はケーキに包丁を入れた。断面図もそこそこよく出来ている。私はほっとしてお皿に取り分けていく。
二切れ分を無事取り分けると、フォークと共に目の前におく。蒼一さんはしっかり手を合わせていただきます、と呟いてすぐに食べた。
「すごい! 美味しい!」
「あ、よかった……今日山下さんいないし実は心配でした」
「スポンジもふわふわだし生クリームもなめらかで甘さがちょうどいいよ。イチゴと凄くよく合ってる。めちゃくちゃ美味しい!」
目を細めてそう言う蒼一さんはすぐにおかわりをしてくれた。そんな様子にほっとしながら自分も食べてみる。うん確かに、結構いい出来だ。
流石に二人で一度に完食は無理だったので残りは冷蔵庫にしまったが、それでも蒼一さんは半分近くを平らげた。結構な大きさだったのに、こんなに食べるとは予想外だ。
二人でソファに並んで座りコーヒーと紅茶を飲む。私はティーカップを持ちながら隣の彼に言った。
「たくさん食べましたね……! 夕飯入りますか?」
「ちょっと食べ過ぎたかもね。今後悔してる」
お腹をさすってそういう姿に笑った。まだ甘味の残る口腔内を紅茶で流していく。苦味が美味しい。
蒼一さんもコーヒーを啜りながら言う。
「あんなに美味しいの、前は捨てさせてごめんね」
ポツリと言ったのを聞いて首を振った。どこか悔しそうに言う横顔が目に入る。
「私が一人で勝手にやったんですから。それに今日リベンジできたのはよかったです、蒼一さんがリクエストしてくれてよかった」
心の底からそういうと、彼がこちらを見る。持っていたマグカップをテーブルに置くと、私が持っている紅茶もそっと取って置いた。不思議に思いながらそのままでいると、彼は無言でキスを落としてきた。
コーヒーの苦味。蒼一さんはコーヒーが好きなのでよく飲んでいる。私は飲めないはずのその苦手な味が、こういう時だけは愛しく感じる。なんて単純なんだろう。
未だドキドキしてしまうその行為に身を任せていると、離れた彼が両腕に私を抱きしめた。サラリと揺れる髪が頬を掠める。
熱い体温に包まれていると、蒼一さんが小声で呟く。
「あーあ」
「え?」
「また欲しくなってきた」
「あんなにケーキ食べたのにですか!?」
私が驚いて言うと、蒼一さんが体を離す。どこか楽しげに彼は言った。
「ケーキじゃなくて、こっちね」
そして、もう一度私に軽くキスをする。
私は瞬時に顔を熱くさせた。視線を逸らしてしどろもどろに言う。
「そ、それは……昨晩も召し上が、られたのでは……」
「ほんとだね。でもしょうがないよね」
けろりとして言う。その笑顔になんと答えていいかわからない私はただあたふたと慌てたが、蒼一さんが決定事項のように言った。
「今日は一日家でゆっくり、だもんね」
さっきまで子供っぽいと思っていたその表情がどこか変わったのを見逃さない。
悔しい、結局こういうところも残念ながら好きなのだ。
休みの日、冷蔵庫に眠るショートケーキ、飲み掛けのコーヒーと紅茶。
なんてことない光景が、私にとっては幸せそのもの。
<完>
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