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咲良の決意⑤
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「とても美味しいです、香りがいいですね」
「そうでしょう? 私のお気に入りなの」
「私も紅茶がすごく好きなんです」
「あらそうなの」
お母様は穏やかに返事をくれる。その姿に緊張がほぐれた。最初の頃は、もっと冷たい視線で私を見ていたけれど、今は普通の態度だ。
嬉しくなって再び紅茶を飲む。鼻から甘い香りが抜ける。
「突然呼び出してごめんなさいね。蒼一とはどうですか」
「あ、えっと、とてもよくして頂いてます」
「そう、まああなた方も幼なじみですからね。それなりにうまく生活しているんでしょう」
「蒼一さんは優しいですし……」
「あの子はね、優しすぎるのがちょっとね」
お母様は紅茶に角砂糖を一つ入れる。ティースプーンでゆっくりかき混ぜながら続けた。
「周りに気をつかう子です。私にですらそうでした。まあ、主人の話では仕事もちゃんとやっているようだし、跡取りとしては問題ないと思うんだけれど。ほら、会社のトップとなると厳しい判断をせねばならないこともあるでしょう?」
「そうですね……」
「そういうことも必要なんです。優しいだけでは通用しない世界です」
お母様が紅茶を飲む。私も釣られてまた飲んだ。熱いカップをそうっと戻すと、小さな声で言った。
「でも、蒼一さんなら……きっと大丈夫だと思います。お仕事のことはよくわかりませんが、一緒に暮らして彼の凄い面をたくさん見てきました。本当に素敵な人です」
根拠のない自信、でも心からそう思った。
好きでもない相手と結婚したのに、私にとことん彼は優しい。その優しさが辛い時もあるけど、全て私のことを思ってやってくれているのをわかっている。
「それに、私が小さな時からすごく遊んでくれたから! 面倒見もいいし、我慢強いですよね。年も離れた男の子なのにおままごとでずっと遊んでくれたんです」
笑顔で思い出話を語る。懐かしい家に入ってその記憶が蘇ってしまう。お姉ちゃんとテレビゲームをしたかったはずなのに、ちゃんと私の面倒を見てくれたんだから。そんな男子、普通いないよね。
私は饒舌になり、蒼一さんの話をお母様につづけた。時折相槌を打ちながら彼女は聞いてくれる。
私はお姉ちゃんほど蒼一さんと一緒に過ごしたわけではないが、それでも思い出話はたくさんあるのだ。成長するにつれ次第に蒼一さんとも距離ができたが、子供の頃の思い出は今でも大事なもの。
私一人語るのを、お母様は何も言わずに紅茶を飲んで聞いていた。しばらく経って、彼女は私の方を見ることなく、言葉を出した。
「そう。そうだったわね。あなたたちは年が少し離れているから」
「はい」
「でも夫婦としてうまく行ってるんですね」
「え、ええ」
「ではあちらはどうですか」
「え?」
そっとお母様が私を見た。目と目が合った時、なぜかは分からないが動けなくなった。私を試しているような、心を見抜くような、そんな目のように思った。
わずかに微笑みながら、お母様は言った。
「跡継ぎは、大丈夫ですね?」
私は言葉をなくした。
跡継ぎ。その単語が頭の中でぐるぐると回った。愛想笑いも、ごまかすこともできず、私はただ停止してお母様の顔を見ていた。夫婦としてうまく行っている、の意味がようやくわかった気がする。
私が固まっているのを見て、お母様の目がすうっと細くなった。そのまま沈黙が流れる。
ああ、そうだ。なぜ忘れていたんだろう。
蒼一さんは天海の一人息子でいずれは会社を継ぐ人だ。当然跡継ぎがいなければならない。まだまだ先のこととはいえ、大事なことだ。
でもわかりきっている。私たちに跡継ぎなんてできるはずがない。そんな関係じゃないからだ、夫婦ではなく同居人としてうまく行っているだけだから。
一気に全身が冷える。大事なことをすっかり忘れていた自分に恐ろしいとすら思った。目の前が真っ暗になる、とはこういう時に使うんだと知った。
お母様はふうと息を吐く。私は膝の上に置いた自分の手で拳を握った。手のひらに食い込む爪が痛い。それでも震える手を必死に抑えるにはそれしか方法がなかった。
「やっぱりねえ。パーティーであなたたちを見て、上手く装っていたけどそんな気がしてました。どこかよそよそしいんですよ。夫婦というより兄と妹です」
「…………」
「咲良さん。あの結婚式の日、あなたの提案により式を台無しにせずにすみました。それは本当に感謝しています。でも私はずっと心配だったんです、蒼一は天海の跡取りですから、夫婦ごっこじゃ困るんです」
何も言い返せない。私はただ茶色の液体を呆然と眺めていた。お母様の言葉が続く。
「もう一緒に暮らして……どれくらい経つかしら? あなたは可愛らしい人だけど、綾乃さんには似てませんね」
「は、い……」
「蒼一もしばらくは綾乃さんのことを引きずってるんだろうと思ってましたが、これだけ一緒にいて夫婦ごっこでは、もう進むことは無理でしょう」
そう言ったお母様がゆっくり立ち上がる。近くにあった引き出しから何かを取り出した。それを手に持ち、私の前に再び座る。
テーブルの上に紙が一枚置かれた。
「咲良さん。蒼一と、離婚していただけませんか?」
「そうでしょう? 私のお気に入りなの」
「私も紅茶がすごく好きなんです」
「あらそうなの」
お母様は穏やかに返事をくれる。その姿に緊張がほぐれた。最初の頃は、もっと冷たい視線で私を見ていたけれど、今は普通の態度だ。
嬉しくなって再び紅茶を飲む。鼻から甘い香りが抜ける。
「突然呼び出してごめんなさいね。蒼一とはどうですか」
「あ、えっと、とてもよくして頂いてます」
「そう、まああなた方も幼なじみですからね。それなりにうまく生活しているんでしょう」
「蒼一さんは優しいですし……」
「あの子はね、優しすぎるのがちょっとね」
お母様は紅茶に角砂糖を一つ入れる。ティースプーンでゆっくりかき混ぜながら続けた。
「周りに気をつかう子です。私にですらそうでした。まあ、主人の話では仕事もちゃんとやっているようだし、跡取りとしては問題ないと思うんだけれど。ほら、会社のトップとなると厳しい判断をせねばならないこともあるでしょう?」
「そうですね……」
「そういうことも必要なんです。優しいだけでは通用しない世界です」
お母様が紅茶を飲む。私も釣られてまた飲んだ。熱いカップをそうっと戻すと、小さな声で言った。
「でも、蒼一さんなら……きっと大丈夫だと思います。お仕事のことはよくわかりませんが、一緒に暮らして彼の凄い面をたくさん見てきました。本当に素敵な人です」
根拠のない自信、でも心からそう思った。
好きでもない相手と結婚したのに、私にとことん彼は優しい。その優しさが辛い時もあるけど、全て私のことを思ってやってくれているのをわかっている。
「それに、私が小さな時からすごく遊んでくれたから! 面倒見もいいし、我慢強いですよね。年も離れた男の子なのにおままごとでずっと遊んでくれたんです」
笑顔で思い出話を語る。懐かしい家に入ってその記憶が蘇ってしまう。お姉ちゃんとテレビゲームをしたかったはずなのに、ちゃんと私の面倒を見てくれたんだから。そんな男子、普通いないよね。
私は饒舌になり、蒼一さんの話をお母様につづけた。時折相槌を打ちながら彼女は聞いてくれる。
私はお姉ちゃんほど蒼一さんと一緒に過ごしたわけではないが、それでも思い出話はたくさんあるのだ。成長するにつれ次第に蒼一さんとも距離ができたが、子供の頃の思い出は今でも大事なもの。
私一人語るのを、お母様は何も言わずに紅茶を飲んで聞いていた。しばらく経って、彼女は私の方を見ることなく、言葉を出した。
「そう。そうだったわね。あなたたちは年が少し離れているから」
「はい」
「でも夫婦としてうまく行ってるんですね」
「え、ええ」
「ではあちらはどうですか」
「え?」
そっとお母様が私を見た。目と目が合った時、なぜかは分からないが動けなくなった。私を試しているような、心を見抜くような、そんな目のように思った。
わずかに微笑みながら、お母様は言った。
「跡継ぎは、大丈夫ですね?」
私は言葉をなくした。
跡継ぎ。その単語が頭の中でぐるぐると回った。愛想笑いも、ごまかすこともできず、私はただ停止してお母様の顔を見ていた。夫婦としてうまく行っている、の意味がようやくわかった気がする。
私が固まっているのを見て、お母様の目がすうっと細くなった。そのまま沈黙が流れる。
ああ、そうだ。なぜ忘れていたんだろう。
蒼一さんは天海の一人息子でいずれは会社を継ぐ人だ。当然跡継ぎがいなければならない。まだまだ先のこととはいえ、大事なことだ。
でもわかりきっている。私たちに跡継ぎなんてできるはずがない。そんな関係じゃないからだ、夫婦ではなく同居人としてうまく行っているだけだから。
一気に全身が冷える。大事なことをすっかり忘れていた自分に恐ろしいとすら思った。目の前が真っ暗になる、とはこういう時に使うんだと知った。
お母様はふうと息を吐く。私は膝の上に置いた自分の手で拳を握った。手のひらに食い込む爪が痛い。それでも震える手を必死に抑えるにはそれしか方法がなかった。
「やっぱりねえ。パーティーであなたたちを見て、上手く装っていたけどそんな気がしてました。どこかよそよそしいんですよ。夫婦というより兄と妹です」
「…………」
「咲良さん。あの結婚式の日、あなたの提案により式を台無しにせずにすみました。それは本当に感謝しています。でも私はずっと心配だったんです、蒼一は天海の跡取りですから、夫婦ごっこじゃ困るんです」
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「もう一緒に暮らして……どれくらい経つかしら? あなたは可愛らしい人だけど、綾乃さんには似てませんね」
「は、い……」
「蒼一もしばらくは綾乃さんのことを引きずってるんだろうと思ってましたが、これだけ一緒にいて夫婦ごっこでは、もう進むことは無理でしょう」
そう言ったお母様がゆっくり立ち上がる。近くにあった引き出しから何かを取り出した。それを手に持ち、私の前に再び座る。
テーブルの上に紙が一枚置かれた。
「咲良さん。蒼一と、離婚していただけませんか?」
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