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咲良の憂鬱⑤
しおりを挟む帰宅すると、少しして家のインターホンが鳴った。のぞいてみると、エプロンをつけた中年の女性が立っていた。私も見覚えのあるその人は、朝蒼一さんが言っていた家政婦の人だとわかった。
お姉ちゃんと一緒に蒼一さんの家に遊びに行った時何度も会っている。優しくて気のいいおばちゃんって感じの人で、とても話しやすい人だ。昔から天海家の家政婦として通っている。
私は急いでドアを開けた。私の顔を見て、その人はにっこり笑った。丸い顔でショートカット、笑うと目がなくなるその顔は人懐こくて安心感がある。
「こんにちは! 蒼一さんから聞いてやってきました、山下といいます!」
「こ、こんにちは、藤田咲良です」
「あははは、やですねえ。もう天海でしょうー!」
大きな口を開けて笑う山下さんに、私も釣られて笑った。彼女は両手にビニール袋を持っている。そして中へと入って靴を脱いだ。
「蒼一さんから夕飯を作るようにって言われてきたんですよ」
「はい、伺っています。その、すみませんお手数をお掛けして」
「いいえー! 私の仕事ですもの。それに、あんな小さかったお二人が結婚してるなんてなんか嬉しくて」
山下さんはふふっと肩をすくめて笑った。私は苦笑する。
「あは、本当はお姉ちゃんのはずでしたけど……」
「大変だったようですね。咲良さんは大丈夫? 困ってることあったら私に言ってくれていいんですよ。まあ、あっちには行きにくいと思いますが……」
やや言葉を濁らせた山下さんが何を言いたいのかわかった。本邸の方には蒼一さんのご両親がいる。家政婦の山下さんでさえ、私に対する冷めた目を理解しているのだ。
少し返答に困っていると、山下さんが思い付いた、というように顔を明るくした。
「あとで私の携帯の番号を書いておきますから! ね、困ったこととかはなんでも電話して。そうしましょう!」
優しい気遣いに頭を下げた。蒼一さんが山下さんを呼ぶようにしたのも、彼女のこういう性格を理解しているからかもしれないと思った。
「よろしくお願いします」
「さあじゃあ夕飯をさっと作っちゃいましょうかね」
両手に荷物を持ったままさっさとキッチンへ歩いていく山下さんの背中を慌てて追いかけながら、私は彼女に言った。
「あの山下さん」
「はい?」
「その、恥ずかしながら私あんまり料理とか得意じゃなくて」
「まだお若いですから」
「教えていただけませんか、蒼一さんの好きな料理」
キッチンについて台に荷物を置いた山下さんは、驚いたように私を見た。私は再び頭を下げる。
「できれば基礎から……あの、お忙しい中申し訳ないんですけど……少しでいいので。慣れたら私が夕飯を作るようになりたくて」
料理教室へ申し込もうかと思ったが、それよりこれが一番いい手だと思ったのだ。
幼少期から蒼一さんを知っている家政婦さんなら、蒼一さんの好みもわかっているはず。味付けはそこから覚えるのが一番いい。
山下さんは少しの間目を丸くして私を見ていたが、すぐににっこり笑った。
「ええ、そうしましょう。一緒にやりますか!」
「あ! ありがとうございます!」
私はその言葉を聞いて急いで自分もエプロンをつけた。まずはできることから少しずつ。
例え心も体も繋がっていない形だけの夫婦でも、私は頑張りたいと思った。
夜も更けたころ。玄関の鍵が開く音がした。
ベッドで横になっていた私は飛び起きる。蒼一さんが帰ってきたのだと思った瞬間、心臓が爆発するんじゃないかと思った。
廊下を歩く足音が響く。そんな僅かな物音さえ、私の緊張を高めるだけだ。
私はそっとベッドから足を下ろして寝室を出た。寝てていい、なんて言われたけれどそんなことできるわけがない。足音を立てないようにそうっとリビングへ移動していった。
キッチンでガサガサと物音がする。どうしようか迷った末、どうしても確認したいことがあったためひょこっと顔を出した。まだスーツを着ている蒼一さんが、夕飯をとるところだった。私を見て目を丸くする。
「咲良ちゃん。起きてたの」
「お、おかえりなさい」
「ただいま」
なんてことない挨拶が私の心を揺さぶる。でもそれを悟られないよう冷静を装って私は言った。
「寝てたんですけど、さっきちょうどトイレに起きてしまって」
「そうなの」
「ホットミルクでも飲もうかと思って……いいですか?」
「はは、なんで聞くの。いいに決まってるでしょ、咲良ちゃんの家でもあるんだから」
笑いながら言った蒼一さんの笑顔に息苦しさを覚えながら、私は冷蔵庫に向かった。牛乳をレンジで温めて、食事している蒼一さんの正面に腰掛ける。
山下さんが作っておいてくれた多くのおかずを、蒼一さんは丁寧な箸使いで食べていた。私はホットミルクに無駄に息を吹きかけて時間をかけながらゆっくりと飲んでいく。
「お仕事、遅くまでお疲れ様です」
「ああ、今週は特に忙しいだけで、いつもはこんなにじゃないから」
「そうなんですか、毎日こんなに働いてたら体壊しちゃうって心配でした」
「父はスパルタだけどね。休みはちゃんとあるから大丈夫」
蒼一さんは天海家の跡取りなので、会社経営するお父様の下で働いている。正直私は経営だとかまるでわからない素人なので、仕事内容に関しては聞いても理解できないだろう。
「咲良ちゃんは今日何してたの」
「えっと、荷物を整理して、ちょっと買い物に行ったり」
「うん、そっか。それでいいよ。自由にやってくれればいいからね」
そう言いながら、彼の持っている黒い箸が、一番隅に置いてあるきんぴらごぼうを掴んだ時、私は少しだけマグカップを持つ手に力を入れた。
パクリと口に運ばれ咀嚼される。蒼一さんは何も言わず、そのまま次の二口目を食べた。
「山下さんはどうだった?」
「あ、なんかあったらいつでも頼ってって、電話番号教えてもらいました」
「そうか、よかった。あの人は昔からうちに来てて、僕も散々お世話になってる家政婦さんだけど、気が良くていい人だからね」
「はい、わからないこととか山下さんに聞こうと思います」
「それがいいね」
優しく笑ってくれる蒼一さんに笑い返す。彼はそのまま食事を続けた。みるみるおかずたちは減っていき、全てが彼の胃袋へと収まる。
きんぴらごぼうが入っていた小皿も、綺麗になっていた。
それをチラリと眺め、ほっと息をつく。
「ごちそうさまでした」
「あ! お皿は洗います、それくらいさせてください」
「ほんと? じゃあ甘えて、僕はお風呂に行ってこようかな」
蒼一さんはそう言ってリビングから出て行った。残された食器たちを片付けながら、私は一人頬を緩めた。
山下さんに教わりながら、私が唯一作った料理はきんぴらごぼうだった。
ちょっと形とか歪だったけど、蒼一さんは完食してくれた。多分、美味しくできていたんだな。
今まで知らなかった。大切な人に作った料理を完食されることが、こんなに嬉しいことだなんて。
嬉しさに笑い、部屋の隅にしまっておいたノートを取り出す。今日教わったレシピがそこには書かれていた。
少しずつ。少しずつでいいから頑張ろう。まだ私自身奥さんと呼ばれるにはあまりに不出来。これから頑張って立派な女性になろう。
そしていつか、蒼一さんがお姉ちゃんを忘れてくれる日を待って。
私はノートを仕舞い込むと、からになったお皿たちを洗うために腕まくりをした。
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