446 / 449
九条尚久と憑かれやすい青年
会社
しおりを挟む翌日、実家から出社した伊藤は、必死に仕事をこなしていた。
まずは目の前の仕事を何とか捌かねばならない。引っ越し日も迫ってきているし、新しい部屋の掃除にもいかなければならないので、今は転職より日々を送るのに必死だった。
だが彼の心の奥では、決意が徐々に大きくなっていた。
まだ動き出せていないが、引っ越して落ち着いた頃、もう一度だけしっかり考えて決めよう。後悔のないようにしたい。
そんなことを考えながら、自席に座ったままパソコンを必死に打ち込んでいた時、同僚から声を掛けられた。
「伊藤さん! なんか、伊藤さんに会いたいって人が玄関に来てるみたいですよ」
「え? 僕?」
顔を上げて予定を考え直すが、特に今日誰かと約束をしていたことはない。それと同時に、九条が尋ねてきたことが脳裏に蘇った。そういえば、まだ依頼料を支払いしていない。
もしや彼が直接?
伊藤は慌てて席を立つ。
「お名前は?」
「九条さんと言う方です」
「やっぱり! ありがとうございます!」
彼はそのまま急ぎ足で飛び出した。
エレベーターを呼び出し、待っている間に心の中で少し不満を出す。連絡先を知っているんだから、電話の一本でもくれればいいのに、何もこんな仕事中に来なくても。でも、あの人マイペースだから、何も考えてないのかなあ。
はあとため息をつきながらやってきたエレベーターに乗り込み、一階まで箱が下降していく。扉が開いたところで足を踏み出した時、彼の全身は止まった。
受付前に立っている女の後姿に見覚えがある。
小柄な身長、巻かれた茶色の髪、可愛らしいおしゃれな服装。顔は見えないものの、伊藤にとって忘れるはずのない人物。
それを見て、彼は黙って後退した。まだ開きっぱなしだったエレベーターにそのまま戻る。ちょうど乗り込んできた他の社員が、不思議そうにそんな伊藤を見ていた。
なぜだ。なぜ、彼女がここに。
ぶわっと全身の毛穴から汗をかく。例えば、謝りに来た? わざわざ職場まで? まず、自分は勤め先のことなど言った覚えはない。なぜここが分かったんだ。
だが、思えばあの部屋に貼られていた写真たちはあらゆるシーンの伊藤があった。つまり尾行されていたことが何度かあったんだろう。職場など、とっくに知られていたのでは。
でも自分はカレーを捨てたことで好意を持たれなくなったはずだ。なのに今更なぜ……
(あ……もしかして)
彼女はまだ九条を諦めていない? あれだけキッパリ振ったのに、まだ想いを寄せていたとしたら? いや、もしかしたら恨んでいるのかも。さすがに九条のことは、まだ名前ぐらいしか分からないだろう。その九条について情報を持っているのは……自分だ。
「あの? 降りないんですか?」
男性社員が伊藤にそう声を掛ける。その瞬間、戸谷がゆっくりこちらを振り返ろうとしていることに気付いた。
声すら出せなくなった伊藤は、ぶんぶんと強く頷いて見せた。
男性社員は何かを察したのか、閉じるボタンを押し、エレベーターの扉が閉まっていく。戸谷がこちらを見そうになる。早く、早く閉まってくれ。
彼女が完全にこちらを振り返るより前に、扉が閉まってエレベーターは上昇を始めた。伊藤はバクバク鳴った心臓に手を当て、深呼吸をする。
警察に相談……して何とかなるだろうか? これぐらいの被害では、恐らくよくて厳重注意だろう。逆上させかねない。
あのマンションは引っ越すことが決まっている。あとばれているのは、この会社だけだ。
(……こんなことがきっかけで、決意したくなかったんだけどなあ)
固まっていた小さな決意は、なお大きくせざるを得なかった。
88
お気に入りに追加
533
あなたにおすすめの小説
意味がわかると怖い話
邪神 白猫
ホラー
【意味がわかると怖い話】解説付き
基本的には読めば誰でも分かるお話になっていますが、たまに激ムズが混ざっています。
※完結としますが、追加次第随時更新※
YouTubeにて、朗読始めました(*'ω'*)
お休み前や何かの作業のお供に、耳から読書はいかがですか?📕
https://youtube.com/@yuachanRio
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
みえる彼らと浄化係
橘しづき
ホラー
井上遥は、勤めていた会社が倒産し、現在失職中。生まれつき幸運体質だったので、人生で初めて躓いている。
そんな遥の隣の部屋には男性が住んでいるようだが、ある日見かけた彼を、真っ黒なモヤが包んでいるのに気がついた。遥は幸運体質だけではなく、不思議なものを見る力もあったのだ。
驚き見て見ぬふりをしてしまった遥だが、後日、お隣さんが友人に抱えられ帰宅するのを発見し、ついに声をかけてしまう。
そこで「手を握って欲しい」とわけのわからないお願いをされて…?
転生したけど赤ちゃんの頃から運命に囲われてて鬱陶しい
翡翠飾
BL
普通に高校生として学校に通っていたはずだが、気が付いたら雨の中道端で動けなくなっていた。寒くて死にかけていたら、通りかかった馬車から降りてきた12歳くらいの美少年に拾われ、何やら大きい屋敷に連れていかれる。
それから温かいご飯食べさせてもらったり、お風呂に入れてもらったり、柔らかいベッドで寝かせてもらったり、撫でてもらったり、ボールとかもらったり、それを投げてもらったり───ん?
「え、俺何か、犬になってない?」
豹獣人の番大好き大公子(12)×ポメラニアン獣人転生者(1)の話。
※どんどん年齢は上がっていきます。
※設定が多く感じたのでオメガバースを無くしました。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
適者生存 ~ゾンビ蔓延る世界で~
7 HIRO 7
ホラー
ゾンビ病の蔓延により生きる屍が溢れ返った街で、必死に生き抜く主人公たち。同じ環境下にある者達と、時には対立し、時には手を取り合って生存への道を模索していく。極限状態の中、果たして主人公は この世界で生きるに相応しい〝適者〟となれるのだろうか――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。