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九条尚久と憑かれやすい青年
口付け
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九条がさらに続けようとすると、それより前に綾子が口を開く。そこから真っ赤な舌がだらりと垂れ、金切り声が飛び出した。耳を塞ぎたくなるような甲高い、嫌な音だ。怒りと拒否が入り混じった声だ、と九条は感じた。酷い声につい顔を歪める。
すると再び、目の前から綾子が消えてしまう。今先ほどまであった昼の穏やかなキッチンではなく、しんとした夜中の真っ暗なキッチンに戻ってしまっている。
イマイチ会話が成立しないことに、九条は顔を顰めた。一言でも向こうの意思を聞いてみたいのだが……。
「……いや」
ハッとして振り返る。背後からまだ不穏な空気を感じ取ったからだ。いる、完全に消えてはいない。彼は急いで部屋の中へ戻り、暗い部屋全体を見回すとすぐに見つけることが出来た。
伊藤は変わらず寝ている。だがその頭のすぐ隣に、今度は正座した状態の女が顔を覗き込んでいた。長い髪を垂らし、じっと伊藤の顔を見つめている。その口元は、卑しくにやあっと笑っていた。口の端に唾液が光る。
「円城寺綾子さん。その人は義雄さんではありませんよ」
九条が厳しい声で言うと、明らかに綾子がピクリと反応した。そしてゆっくりと、まるで重い荷物のように頭を持ち上げて九条を見る。
ひるむことなく、彼は続ける。
「あなたがここにいる理由はなんですか? 伊藤さんや私に何をしてほしいのです。この部屋に、矢部義雄さんはいませんよ」
綾子は答えない。ただ九条をじいっと見ているだけだ。
九条はひたすら綾子の返事を待った。憶測ではなく綾子の口から、この世に残る理由を聞いて確信したいからだ。
だが待てども待てども、綾子は何も答えなかった。どれほど時間が経ったのか、ただ九条の方を見つめていた綾子が、またそっと俯いて伊藤を覗き込む。
そして、両手で伊藤の頬を包んだ。まるでわが子を愛でる親のような動きで、伊藤の頬を撫でる。
さらに、寝ている彼に徐々に顔を近づけていく。嬉しそうに楽しそうに、伊藤に近づいていく。
口づけるつもりだ。
その異様な動きに察した九条は、まずい、と思った。そして咄嗟に両手を一度叩き、大きな音を出した。部屋中にパン、と大きな音が響く。音は鳴ったものの、どこか鈍い音に聞こえた。
「うーん」
「伊藤さん!」
寝苦しそうな声を上げた伊藤に呼びかけると、伊藤が目を開ける。同時に、女は舌打ちをして消失してしまった。
結局聞けたのが、金切り声と舌打ちだとは。九条は一つため息をついた。
「は、はい、どうしました」
伊藤はごそりと起き上がり、九条の方を見た。開けっ放しのクローゼットに、焦った顔をした九条。それだけで、ただ事ではない何かが起こったのだと理解するには十分だ。
慌てた様子で部屋の明かりをつけ、九条の元に近づく。
「出たんですか!」
「……出ましたね。それはもう、フルコースでした」
はあ、とため息をつきながら九条は簡単に今あった出来事を話した。
死んだ場面を見せつけるように再現されたこと、伊藤のキッチンでカレーを作っていたこと、さらには寝ている彼に口づけようとしたこと。
とてつもない恐怖に伊藤は眩暈を覚えた。自分はそんな状況の中、どうしてぐっすり眠っていられたのだろう。鈍感は才能だ、と九条は言ったが、鈍感のレベルを超えている気がする。
頭を抱えながら伊藤は必死に自分を落ち着けた。
「そ、そんなことが……僕、キスされそうだったんですが……ひえ」
「あなたに固着していることは間違いなさそうですね。私にもマーキングはしていますが、伊藤さんへの想いの方が強そうです。キッチンだって、多分嫉妬したんじゃないですか」
「え……?」
意味が分からず首を傾げたが、すぐに理解して青ざめた。
すると再び、目の前から綾子が消えてしまう。今先ほどまであった昼の穏やかなキッチンではなく、しんとした夜中の真っ暗なキッチンに戻ってしまっている。
イマイチ会話が成立しないことに、九条は顔を顰めた。一言でも向こうの意思を聞いてみたいのだが……。
「……いや」
ハッとして振り返る。背後からまだ不穏な空気を感じ取ったからだ。いる、完全に消えてはいない。彼は急いで部屋の中へ戻り、暗い部屋全体を見回すとすぐに見つけることが出来た。
伊藤は変わらず寝ている。だがその頭のすぐ隣に、今度は正座した状態の女が顔を覗き込んでいた。長い髪を垂らし、じっと伊藤の顔を見つめている。その口元は、卑しくにやあっと笑っていた。口の端に唾液が光る。
「円城寺綾子さん。その人は義雄さんではありませんよ」
九条が厳しい声で言うと、明らかに綾子がピクリと反応した。そしてゆっくりと、まるで重い荷物のように頭を持ち上げて九条を見る。
ひるむことなく、彼は続ける。
「あなたがここにいる理由はなんですか? 伊藤さんや私に何をしてほしいのです。この部屋に、矢部義雄さんはいませんよ」
綾子は答えない。ただ九条をじいっと見ているだけだ。
九条はひたすら綾子の返事を待った。憶測ではなく綾子の口から、この世に残る理由を聞いて確信したいからだ。
だが待てども待てども、綾子は何も答えなかった。どれほど時間が経ったのか、ただ九条の方を見つめていた綾子が、またそっと俯いて伊藤を覗き込む。
そして、両手で伊藤の頬を包んだ。まるでわが子を愛でる親のような動きで、伊藤の頬を撫でる。
さらに、寝ている彼に徐々に顔を近づけていく。嬉しそうに楽しそうに、伊藤に近づいていく。
口づけるつもりだ。
その異様な動きに察した九条は、まずい、と思った。そして咄嗟に両手を一度叩き、大きな音を出した。部屋中にパン、と大きな音が響く。音は鳴ったものの、どこか鈍い音に聞こえた。
「うーん」
「伊藤さん!」
寝苦しそうな声を上げた伊藤に呼びかけると、伊藤が目を開ける。同時に、女は舌打ちをして消失してしまった。
結局聞けたのが、金切り声と舌打ちだとは。九条は一つため息をついた。
「は、はい、どうしました」
伊藤はごそりと起き上がり、九条の方を見た。開けっ放しのクローゼットに、焦った顔をした九条。それだけで、ただ事ではない何かが起こったのだと理解するには十分だ。
慌てた様子で部屋の明かりをつけ、九条の元に近づく。
「出たんですか!」
「……出ましたね。それはもう、フルコースでした」
はあ、とため息をつきながら九条は簡単に今あった出来事を話した。
死んだ場面を見せつけるように再現されたこと、伊藤のキッチンでカレーを作っていたこと、さらには寝ている彼に口づけようとしたこと。
とてつもない恐怖に伊藤は眩暈を覚えた。自分はそんな状況の中、どうしてぐっすり眠っていられたのだろう。鈍感は才能だ、と九条は言ったが、鈍感のレベルを超えている気がする。
頭を抱えながら伊藤は必死に自分を落ち着けた。
「そ、そんなことが……僕、キスされそうだったんですが……ひえ」
「あなたに固着していることは間違いなさそうですね。私にもマーキングはしていますが、伊藤さんへの想いの方が強そうです。キッチンだって、多分嫉妬したんじゃないですか」
「え……?」
意味が分からず首を傾げたが、すぐに理解して青ざめた。
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