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1巻
1-3
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確かに伊藤さんは、先ほどからずっとパソコンに齧りつき忙しく働いている。彼が動いているのに、新入りの私がぼうっとしているわけにはいかない。
「私に出来ることはありますか?」
「あなたは現場でその力を貸してくれれば」
「いや、今、何かこう――」
「あ、一つありました」
「はい!」
「パッキーなくなるので持ってきてください。キッチンの戸棚にあります。次は抹茶味で」
「……」
伊藤さんがあんなに必死に準備しているのに、驚くほどのマイペース。だが仕方ない、彼は上司なのだ。私は渋々立ち上がってキッチンに入り、戸棚を開けた。するとそこには、ぎゅうぎゅうに詰められた、様々な味のあのお菓子が並んでいて眩暈がした。あの人、まさかこれが主食なのだろうか?
呆れつつも抹茶味を手に取り、彼のもとに戻る。差し出すと、すぐに封を開けてまた食べ出した。引いた目でそれを眺めていると、背後で伊藤さんの明るい声が聞こえた。
「とりあえず簡単な下調べです、どうぞ!」
「ありがとうございます」
伊藤さんが差し出したのは紙の束だった。九条さんはそれを受け取ってすぐに目を通す。私がやることもなくおろおろしていると、伊藤さんが口頭で説明してくれた。
「行く前にその場所の下調べをするんだ。例えば病院が建つ前はなんだったのかーとか、最近医療ミスがなかったかーとか、病院の経営状態とかね」
「へえ、それを伊藤さんが調べてくれていたんですね」
「そういう雑務は僕の仕事だからね。この後も色々これから調べて、随時九条さんに送り続けるよ。今のところ、特に大きな医療事故もないし、病院は患者数も多くて比較的人気なところだね。ま、隠してたら分かんないけど。看護師の人手不足は否めないけど、まあ今の時代どこもそうだからね」
九条さんは黙ってしばらく紙に目を通していた。私はじっと待っていたが、ふとコーヒーカップが目に留まる。丹下さんが飲んでいたものだ。片付けを手伝おうと、それを手に持つ。奥の小さな流し場で洗うぐらいなら私でも出来る。そう思って立ち上がった時だった。
「ではそろそろ」
「あっ!」
ほぼ同時に隣の九条さんも立ち上がり、見事に体がぶつかってしまった。丹下さんが飲んでいたコーヒーは中身が少し残っていて、彼の着ていた白いトレーナーに茶色の水玉模様を作ってしまう。ズボンにもしぶきが掛かってしまった。
「ご、ごめんなさい!」
だが彼は、ちらりと自分の服を見下ろしただけで、特に怒ることも不愉快な表情をすることもなかった。一ミリも表情を変えないまま、冷静に言う。
「いえ、私が立ち上がってぶつかってしまいました。黒島さん、掛かってませんか」
「は、はい、私は大丈夫です」
「量もほんの少しですし、冷めていたので火傷もしてないから平気です」
サラリとそう言ってくれたので、申し訳なく思うと同時に、優しいところもあるんだな、と心の中で呟く。しかしこのままではシミになってしまう。とりあえずすぐに洗わねばならない。そう提案しようとしたが――
「ではそろそろ行きましょうか」
「……えっ。現場にですか?」
「はい。また新たな情報があったら伊藤さんが送ってくれますから」
驚きのあまり九条さんを見つめる。コーヒーの水玉模様をつけたまま、彼は現場に行くつもりなのだろうか。
「もー九条さん。そのまま行くのはさすがにダメですよ!」
背後から、呆れたような伊藤さんの声が響く。九条さんは小さく首を傾けた。
「そうですか? ほんの少しじゃないですか、これくらいならいいです。こういう柄の服だと思われますよ」
「思われませんよ! ほら、前買っておいた服がありますから、着替えてきてください。ズボンもですよ? そっちにも掛かってたの、見てましたからね」
伊藤さんに言われ、渋々といった様子でカーテンの向こうに消えていく彼を見て、私は信じられない気持ちでいっぱいだった。まさかそんなはずはない、と思ったのに、そのまさかだった。着替えがあるというのに、あのままで行くつもりだったのだ。髪型から身嗜みに無頓着そうだなと思ってはいたが、これほどとは。
伊藤さんが私に笑いながら言う。
「ごめんね、もう少し待ってあげて」
「そ、それはもちろんいいんですが」
「どうも自分自身には興味ない人っていうかさー。困ったよ、ほんと」
そういえば、伊藤さんが『九条さんは自分の年齢も忘れているかもしれない』って言っていたけれど、あながち冗談ではないのかもしれない。変わった人だなあと思ってはいたけれど、コーヒーのシミがついてても気にしないなんて。それとも、顔がいいと服装なんて気にしなくなるのだろうか。
そんなことを考えていると、ようやくカーテンが開き九条さんが出てくる。これでやっと出発か、と思いきや、私は出てきた彼を勢いよく二度見してしまった。なぜなら九条さんは、白い上着に白いパンツという、全身真っ白な姿で登場したからである。牛乳瓶かな?
お洒落上級者が着こなす組み合わせとは違い、上と下の白色はどこか合っていなくて浮いている。しかし当の本人は非常に満足げな顔で出発しようとしている。その後ろで伊藤さんが頭を抱えていた。
「では黒島さん、今度こそ」
「九条さん! なんで上も下も白を選んだんですか!」
「はあ、一番上に置いてあったので」
「ちょっと来てください!」
伊藤さんに引きずられ、彼はまたカーテンの向こうへと消えていってしまった。自分だってセンスがいい人間とは言えないけれど、でもあの組み合わせはない。センスがないどころの騒ぎじゃない。
少し経って二人が出てくる。九条さんは結局、出会った時のような白いトレーナーと黒いズボンに落ち着いていた。疲れたとばかりにため息をつく伊藤さんに、彼の仕事にはこういうのも含まれているのだろうかと心配になった。
九条さんは黒いコートを手に取って私に呼びかける。
「行きましょう、黒島さん」
「あ、はい……」
「いってらっしゃい、頑張って!」
そう伊藤さんに言われてつい振り返る。伊藤さんは来ないのだろうか。てっきり三人で現場に行くのかと思っていたのだが。すると、彼はニコリとあのえくぼを浮かべて言った。
「僕は他の来客があれば対応しなきゃだし、基本はここで留守番だから」
「あ、そう、ですよね……」
「いってらっしゃい!」
正直なところ、伊藤さんの明るい人柄に助けられていた私は、突然不安に襲われた。九条さんは口数も少ないし何を考えているか分からないし、あまり一緒にいて居心地がいい人とは言えないからだ。心が挫けそうになるも、ぐっと気を引き締めた。ここで働くと言ったのは自分だ、めそめそしている暇はない。
私も鞄とコートを手に持つと、すでに事務所を出てしまっていた九条さんを追いかけた。背中に伊藤さんの「頑張れ!」の声を聞きつつ、そのまま九条さんについていくと、辿り着いたのは駐車場だった。地下にある駐車場には車が所狭しと停まっている。ここのビルで働く人たちのものだろう。
スタスタと歩く黒いコートと少し距離を保ちながら歩み進めれば、彼が一台の車に触れた。
「乗ってください」
そう言って、九条さんがまず運転席に乗り込んだ。私はごくりと唾を呑み込んだ。ああ、そうだろうとは思っていたけれど、運転するんだ。彼が運転する姿は、なぜか想像がつかない。
それともう一つ驚いたのは、その車はそこそこメジャーな高級車だったのだ。顔だけで言えば九条さんに似合っているけど、お菓子ばかり食べている姿を見ていたからか、違和感を覚えてしまう。同時に、この車が買えるくらいあの事務所は儲かっているのか、という驚きもあった。
私は複雑な思いを抱きながら後部座席に乗り込んだ。助手席に座る勇気は持ち合わせていない。心地のいいシートに座り込み、シートベルトをしっかり締める。
「九条さん、運転されるんですね。なんか意外です」
「それよく言われます」
そう言うと彼はエンジンをかけて、スムーズに車を発車させた。
後部座席からハンドルを握る九条さんを見て、不覚にも少しだけときめいた。この人顔だけ見れば綺麗だもんなぁ、髪は寝癖ついてるけど。一人でそう思いながら、ふうと息をついてシートに背をもたれかけた。窓の外を眺める私に雑談を振ってきたのは向こうだった。
「黒島さんは生まれつきですか」
「え? あ、はい……物心ついた時から」
「なるほど。では分かってるかと思いますが、彼らとは基本目を合わせないのが正しい対応です。目が合えば寄ってきますからね」
「はい……九条さんも、生まれつきですか?」
「ええ」
「初めて会いました。同じ力を持った人……」
変わった人だけど、同じものが視えるというだけでこんなにも安心する。例えばテレビに出ている能力者などは、私が視る限り嘘っぱちが多かったからだ。少なくとも、九条さんは嘘をついていないことだけは確かなのだ。
「今から行った先で気になることは、なんでも私に言ってください。無理はしないで。初めての現場ですから、あまり気負うことはありません」
ハンドルを慣れた手つきで回しながらそう話す姿を見て、少し心が軽くなった。これは間違いなく、私は励まされてる。マイペースなこの人は、人をフォローするような発言はしないと思っていたから意外だ。
「……ありがとうございます」
小さく呟き視線を上げれば、ミラー越しに九条さんと目が合った。やはり、ガラスのような綺麗な瞳だ。思わず顔を背ける。九条さんは気にせず続けた。
「病院という場所のイメージはどうですか?」
「確かにいろんなものを見かけますが、攻撃的なものはあまり視たことない気がします」
「その通りです。病院でウロウロしているようなものたちは、自分が死んだことに気づいておらず、戸惑ったままそこに滞在しているのが多い。病死ならば死の覚悟が出来ている者がほとんどですし、強い恨みを持って攻撃するようなものは意外と少ない。生きている者に攻撃するものには、かなり強い力と思いがあるはずですからね。今回の場合、ある病棟のみの発生で、更に一ヶ月前からと限定的です。その病棟で何かあったか、それとも勤務するスタッフにどこからか憑いてきたのか……」
「時々肩にエゲツないものぶら下げてる人いますよね」
「私はシルエットしか見えませんから、エゲツなさが分かりませんがね」
「ああそっか。そういう視え方があることも初めて知りました」
私は素直に感心した。そういえば彼はシルエットで視えると言っていた。その代わり会話が成立することもあるそうなので、私とは少し能力が違うのだ。
それにしても、九条さんと二人きりだと聞いて焦っていたが、案外話せば普通に会話出来ている。伊藤さんほどの話しやすさはないけど、思った以上に会話が成り立つことに、少し安心している自分がいた。長い沈黙を覚悟していたのだ。
「普段は精密機器を用いて撮影するんですが、病院となれば無理ですね」
「撮影、ですか?」
「彼らは映像に映りやすいんですよ。高性能なものを使うと特に。二十四時間見張るわけにもいかないので、カメラを設置して起こる現象を観察することが多くあります」
へえ、と自分の口から声が漏れた。
「結構現代的な感じなんですね……私、テレビで見るようなお祓いしかイメージがありませんでした」
「あとは相性ですね。黒島さんもそうだと思いますが、存在するもの全てが視えるわけではないですから。相性がいいものは、特に向こうも積極的に訴えたりするはずです」
「へ、へぇ……生きてる者とそうでないものにも相性があるんですか……」
「私はどちらかというと、男性より女性の声の方がよく聞こえる気がします」
サラリと言ったのを聞いて、私はつい反射的に言った。
「え、それって、霊にもイケメンは好かれるってことですか?」
「イケメン?」
「えっ?」
「イケメンですか?」
「はあ」
「私がですか?」
「は、はあ」
「そうですか……ありがとうございます」
気の抜けた返事に、ずっこけそうになった。もしやあまり自覚がないのだろうか。まさかこのレベルで? 驚く私をよそに、本人はどこか不思議そうに頬を掻いた。私はなおも言う。
「やっぱりどうせ近寄るなら、かっこいい人の方がいいって彼女らも思うんでしょうか」
「考えたこともありませんでした」
「え、ないんですか……だって九条さんモテるでしょう?」
「モテると思いますか」
「あ、えっと、うーんと」
「急に口籠るんですね」
上手く誤魔化せなかった自分を嘆いた。だって、顔だけ見てそう聞いてみたけれど、思えばこの人、笑いもしないしマイペースすぎだしパッキー大好き星人だし、ちょっとモテるタイプとは違うかもと思ってしまったのだ。それでも、なんとか必死に笑顔を作って言ってみた。
「最初はモテると思いますよ」
「全然フォローになってません」
キッパリと言われてしまった。嘘がつけない自分を心の中で叱る。でも九条さんは気分を害した様子もなく、むしろ感心したように言った。
「しかしその通りです。女性が近寄ってきたとしても、すぐに散っていきます。よく分かりましたね、なぜなんでしょうか」
彼のそんな発言を聞いて、私は無言になる。今までの彼の言動が脳裏に蘇った。ここにきて、ようやく九条さんという人が少し分かってきた気がする。
この人天然だ。最高に天然な人なんだ。
多分気遣いとかも全然出来なくて、自分のことにすら疎くて、悪気も何もない、ある意味とても素直な人。自覚がないのだ、イケメンであることも、自分が変わっているということも。
「あー……パッキー食べすぎなんじゃないですかね……」
「そうですか。女性はパッキー食べすぎは敬遠するんですね。では仕方ありませんね。私何よりパッキーが好きなので、あれだけは外せません」
そう彼は断言して一人納得した。私はそれ以上何も言わなかった。
着いた場所は大きな建物の前だった。
ほんの数年前に建て替えたばかりだというその病院は、新しく綺麗で、多くの人が行き交っている。正面玄関の前にはタクシーが並び、車の乗り降りのため、何台も一時停止しては去っていく。これは患者数も随分多そうだ。
私たちは車を駐車場に停めて降り、まず正面玄関へと入っていった。中は老若男女でごった返している。歩を進めると、総合案内に立つ受付の女性がにこやかに挨拶をしてくれた。九条さんはそれに特に反応せず歩き、ある柱の前でピタリと足を止めた。そしてぐるりと辺りを見渡す。私も釣られて見てみた。
「黒島さん、今いくつ視えますか」
尋ねられた言葉に、どきりとして視線を落とした。一度小さく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。そして不自然にならないよう注意しながら、再び辺りを見渡した。
人混みの中では、彼らは生きてる人間に混じって判別しにくかったりする。時折間違えてしまうこともあるのだ。私はあえて視線を合わせないようにして、周囲を見ていく。
「……三です」
そう呟いて、私は意味もなく近くの案内板を見つめた。
「どこですか」
「えっと、右側のソファ、エレベーター前、あと玄関前に」
「なるほど」
私はちらりと、一番近くにいるソファを見た。
老婆だった。ぱっと見は他の人と混じってしまいそうな自然な様子。グレーの長い髪を一つ縛りにし、猫背でソファに腰掛けている。シワの濃い目元や口元からどこか悲愴感漂う表情で、何をするわけでもなく、ぼんやりと周囲を見つめていた。
ただその格好は、薄い肌着一枚に裸足というもので、その異質さがこの世のものではないと確信させた。油断したら生きている人間と勘違いしてしまいそうだ。だが、その存在はどことなく周りと色が違う。上手く言えないが、自分の中ではそういう感覚なのだ。
「えっと、九条さんは……」
「八ですかね」
「八ですか!?」
「まあ、私はぼんやりシルエットなので。有害なのはいないようですね。では問題の病棟に行きますか」
そう抑揚もなく話すと、彼は私の返事も聞かずに、すぐそこにあるエレベーターのボタンを押した。周りに人が多いため、私は小声で話しかける。
「九条さんの方がたくさん視えてるんですね……」
「言ったでしょう、相性ですよ。あとは強い力を持ったものはやはり、比較的認識しやすいですよね。屋上であなたと見た飛び降りるやつとか」
「そんな大きな声で言わないでください!」
まるで声のボリュームを抑える気がない彼を、慌てて小声で諫める。周りの人がなんの話かと驚くではないか。だが彼は何も気にしてないようで「ああ、すみません」と形だけの謝罪をしてくる。絶対思ってないだろうな、と感じる言い方だ。
丁度その時、エレベーターが到着したので乗り込む。聞いていた病棟は八階だったので、ボタンを押して沈黙を守る。たくさんの人が更に乗り込み、その箱は満員になり上昇した。ほとんどの階で停止しつつ、ようやく八階に辿り着くという時、私は急に思い出してしまった。自分は今から怪奇現象を起こすような霊と会うということを。
九条さんの変人さに釣られてのほほんとしていた気がする。これまでの人生、彼らとはあまり関わらないよう生きてきたのに、自ら会いに行くなんて。小さく深呼吸をした。もし何か起きたらどうするのだろう。九条さんは祓うとか出来ないって言っていたけれど……
マイナスなことを考え緊張してしまうが、なんとか抑え込む。戸惑っているのを九条さんに勘付かれたくないと思った。仕事をしに来たのだから、嘘でも堂々としていなければならない。
到着を示す高い音と共に、私たちはエレベーターを降りる。そして鋭い視線で例の病棟を見つめた。ぎょろぎょろと目玉を動かしながら観察するも、すぐに気が抜ける。なぜなら、意外にも目の前にあるのは極々普通のナースステーションだったからだ。てっきり、早々に怖い霊と遭遇するかと思っていた。
薬品のような匂いに、心電図モニターらしき規則音。少ししてピンポーンと音が鳴り響いた。あれがナースコールの音だろうか。白衣を着た女性たちが、点滴の準備などで忙しそうにしていた。
「……なんか普通ですね」
私は小声で言う。九条さんは想定内、とばかりに頷いた。
「厄介な霊たちは、私たちのような新参者が来ると、初めは様子を窺うように大人しくなることが多いです。覚えておいてください」
「そ、そうなんですか」
「慣れた頃に現れますよ。とりあえず行きますか」
コートのポケットに手を突っ込んだまま、九条さんはナースステーションに近付いた。中にいた一人のナースがこちらを見て、一瞬見惚れるように九条さんを見つめる。
「初めまして、丹下様より話があったかと思いますが、九条です」
「あ、あら~! 随分とお若くて、なんか、それっぽくない方がいらしたのねー」
意外そうに笑うナースさんは、年は四十くらいだろうか。パソコンを少しだけ操作すると、こちらに歩み寄ってきた。そして私には目もくれず、チラチラと九条さんを見上げては微笑んだ。気持ちは分かるが、見た目で完全に騙されている。彼の中身を教えてあげたい。
「副主任の田中といいます。よろしくお願いします」
ハキハキと話す様子はまさに看護師、という感じだ。前髪を全て上げているため顔がはっきり見える。白衣はパンツスタイルで、ポケットには何やら物がたくさん詰まってパンパンだった。九条さんは愛想笑いもせず話す。
「こちらは黒島です」
「よろしくお願いします」
「早速ですが、丹下さんに伝えていた通り、監視カメラ映像の確認と、それから現場の方から話を伺いたいのですが」
「ああ、はいはい、こちらへどうぞ。一室空き部屋を用意しましたので」
田中さんはそう言いながら、私たちを促すように歩き出したのでついていく。途中で辺りを見渡すが、私が認識出来たのは一体、無害そうな霊のみだった。ただ立っているだけで、攻撃的な感じはまるでなし。辺りを観察していたらしい九条さんも私と同じ感覚らしく、一人頷いている。
「ここを使ってください、中に監視カメラの映像があります。この映像は病棟管理者しか見ないので、私たちも見たことないんですよ」
案内された部屋の入り口には『カンファレンスルーム』と書かれていた。いわゆる会議室だろうか。長テーブルが向かい合わせで並び、パイプ椅子がいくつか置かれている。机の上にはテレビ一台と、何本かテープがあった。田中さんは腕を組んで考えるように言う。
「思い出せる限り、変なことがあった時刻の映像を用意しました」
九条さんは並んだテープを手に取る。
「人影が見えるとか、鍵が開かない、でしたっけ」
「ええ、そう。人影はねー別にいいけど、鍵は困るんですよね。私もそれは初めての経験で、今回は大事になっちゃって」
人影もよくはないだろうと思うのだが、看護師はメンタルが強すぎる。だが九条さんは特に何も思わないようで、話を続ける。
「ちなみに、一ヶ月前からと丹下さんからは伺ってますが」
「あ、そうですね。他のスタッフにも聞いてみたけど、やっぱりそれくらいから始まってる気がするって」
「では、一ヶ月前にこの病棟で亡くなられた患者をリストアップしておいてください」
九条さんの台詞に、今まで豪快な話し方をしていた田中さんの表情が一瞬固まった。
「……それは、うちで亡くなられた患者さんがここに取り憑いてるってことですか?」
「そういう可能性もある、ということです」
「そうですか」
彼女はふうとため息をつく。私もそこでつい口を挟んだ。
「私に出来ることはありますか?」
「あなたは現場でその力を貸してくれれば」
「いや、今、何かこう――」
「あ、一つありました」
「はい!」
「パッキーなくなるので持ってきてください。キッチンの戸棚にあります。次は抹茶味で」
「……」
伊藤さんがあんなに必死に準備しているのに、驚くほどのマイペース。だが仕方ない、彼は上司なのだ。私は渋々立ち上がってキッチンに入り、戸棚を開けた。するとそこには、ぎゅうぎゅうに詰められた、様々な味のあのお菓子が並んでいて眩暈がした。あの人、まさかこれが主食なのだろうか?
呆れつつも抹茶味を手に取り、彼のもとに戻る。差し出すと、すぐに封を開けてまた食べ出した。引いた目でそれを眺めていると、背後で伊藤さんの明るい声が聞こえた。
「とりあえず簡単な下調べです、どうぞ!」
「ありがとうございます」
伊藤さんが差し出したのは紙の束だった。九条さんはそれを受け取ってすぐに目を通す。私がやることもなくおろおろしていると、伊藤さんが口頭で説明してくれた。
「行く前にその場所の下調べをするんだ。例えば病院が建つ前はなんだったのかーとか、最近医療ミスがなかったかーとか、病院の経営状態とかね」
「へえ、それを伊藤さんが調べてくれていたんですね」
「そういう雑務は僕の仕事だからね。この後も色々これから調べて、随時九条さんに送り続けるよ。今のところ、特に大きな医療事故もないし、病院は患者数も多くて比較的人気なところだね。ま、隠してたら分かんないけど。看護師の人手不足は否めないけど、まあ今の時代どこもそうだからね」
九条さんは黙ってしばらく紙に目を通していた。私はじっと待っていたが、ふとコーヒーカップが目に留まる。丹下さんが飲んでいたものだ。片付けを手伝おうと、それを手に持つ。奥の小さな流し場で洗うぐらいなら私でも出来る。そう思って立ち上がった時だった。
「ではそろそろ」
「あっ!」
ほぼ同時に隣の九条さんも立ち上がり、見事に体がぶつかってしまった。丹下さんが飲んでいたコーヒーは中身が少し残っていて、彼の着ていた白いトレーナーに茶色の水玉模様を作ってしまう。ズボンにもしぶきが掛かってしまった。
「ご、ごめんなさい!」
だが彼は、ちらりと自分の服を見下ろしただけで、特に怒ることも不愉快な表情をすることもなかった。一ミリも表情を変えないまま、冷静に言う。
「いえ、私が立ち上がってぶつかってしまいました。黒島さん、掛かってませんか」
「は、はい、私は大丈夫です」
「量もほんの少しですし、冷めていたので火傷もしてないから平気です」
サラリとそう言ってくれたので、申し訳なく思うと同時に、優しいところもあるんだな、と心の中で呟く。しかしこのままではシミになってしまう。とりあえずすぐに洗わねばならない。そう提案しようとしたが――
「ではそろそろ行きましょうか」
「……えっ。現場にですか?」
「はい。また新たな情報があったら伊藤さんが送ってくれますから」
驚きのあまり九条さんを見つめる。コーヒーの水玉模様をつけたまま、彼は現場に行くつもりなのだろうか。
「もー九条さん。そのまま行くのはさすがにダメですよ!」
背後から、呆れたような伊藤さんの声が響く。九条さんは小さく首を傾けた。
「そうですか? ほんの少しじゃないですか、これくらいならいいです。こういう柄の服だと思われますよ」
「思われませんよ! ほら、前買っておいた服がありますから、着替えてきてください。ズボンもですよ? そっちにも掛かってたの、見てましたからね」
伊藤さんに言われ、渋々といった様子でカーテンの向こうに消えていく彼を見て、私は信じられない気持ちでいっぱいだった。まさかそんなはずはない、と思ったのに、そのまさかだった。着替えがあるというのに、あのままで行くつもりだったのだ。髪型から身嗜みに無頓着そうだなと思ってはいたが、これほどとは。
伊藤さんが私に笑いながら言う。
「ごめんね、もう少し待ってあげて」
「そ、それはもちろんいいんですが」
「どうも自分自身には興味ない人っていうかさー。困ったよ、ほんと」
そういえば、伊藤さんが『九条さんは自分の年齢も忘れているかもしれない』って言っていたけれど、あながち冗談ではないのかもしれない。変わった人だなあと思ってはいたけれど、コーヒーのシミがついてても気にしないなんて。それとも、顔がいいと服装なんて気にしなくなるのだろうか。
そんなことを考えていると、ようやくカーテンが開き九条さんが出てくる。これでやっと出発か、と思いきや、私は出てきた彼を勢いよく二度見してしまった。なぜなら九条さんは、白い上着に白いパンツという、全身真っ白な姿で登場したからである。牛乳瓶かな?
お洒落上級者が着こなす組み合わせとは違い、上と下の白色はどこか合っていなくて浮いている。しかし当の本人は非常に満足げな顔で出発しようとしている。その後ろで伊藤さんが頭を抱えていた。
「では黒島さん、今度こそ」
「九条さん! なんで上も下も白を選んだんですか!」
「はあ、一番上に置いてあったので」
「ちょっと来てください!」
伊藤さんに引きずられ、彼はまたカーテンの向こうへと消えていってしまった。自分だってセンスがいい人間とは言えないけれど、でもあの組み合わせはない。センスがないどころの騒ぎじゃない。
少し経って二人が出てくる。九条さんは結局、出会った時のような白いトレーナーと黒いズボンに落ち着いていた。疲れたとばかりにため息をつく伊藤さんに、彼の仕事にはこういうのも含まれているのだろうかと心配になった。
九条さんは黒いコートを手に取って私に呼びかける。
「行きましょう、黒島さん」
「あ、はい……」
「いってらっしゃい、頑張って!」
そう伊藤さんに言われてつい振り返る。伊藤さんは来ないのだろうか。てっきり三人で現場に行くのかと思っていたのだが。すると、彼はニコリとあのえくぼを浮かべて言った。
「僕は他の来客があれば対応しなきゃだし、基本はここで留守番だから」
「あ、そう、ですよね……」
「いってらっしゃい!」
正直なところ、伊藤さんの明るい人柄に助けられていた私は、突然不安に襲われた。九条さんは口数も少ないし何を考えているか分からないし、あまり一緒にいて居心地がいい人とは言えないからだ。心が挫けそうになるも、ぐっと気を引き締めた。ここで働くと言ったのは自分だ、めそめそしている暇はない。
私も鞄とコートを手に持つと、すでに事務所を出てしまっていた九条さんを追いかけた。背中に伊藤さんの「頑張れ!」の声を聞きつつ、そのまま九条さんについていくと、辿り着いたのは駐車場だった。地下にある駐車場には車が所狭しと停まっている。ここのビルで働く人たちのものだろう。
スタスタと歩く黒いコートと少し距離を保ちながら歩み進めれば、彼が一台の車に触れた。
「乗ってください」
そう言って、九条さんがまず運転席に乗り込んだ。私はごくりと唾を呑み込んだ。ああ、そうだろうとは思っていたけれど、運転するんだ。彼が運転する姿は、なぜか想像がつかない。
それともう一つ驚いたのは、その車はそこそこメジャーな高級車だったのだ。顔だけで言えば九条さんに似合っているけど、お菓子ばかり食べている姿を見ていたからか、違和感を覚えてしまう。同時に、この車が買えるくらいあの事務所は儲かっているのか、という驚きもあった。
私は複雑な思いを抱きながら後部座席に乗り込んだ。助手席に座る勇気は持ち合わせていない。心地のいいシートに座り込み、シートベルトをしっかり締める。
「九条さん、運転されるんですね。なんか意外です」
「それよく言われます」
そう言うと彼はエンジンをかけて、スムーズに車を発車させた。
後部座席からハンドルを握る九条さんを見て、不覚にも少しだけときめいた。この人顔だけ見れば綺麗だもんなぁ、髪は寝癖ついてるけど。一人でそう思いながら、ふうと息をついてシートに背をもたれかけた。窓の外を眺める私に雑談を振ってきたのは向こうだった。
「黒島さんは生まれつきですか」
「え? あ、はい……物心ついた時から」
「なるほど。では分かってるかと思いますが、彼らとは基本目を合わせないのが正しい対応です。目が合えば寄ってきますからね」
「はい……九条さんも、生まれつきですか?」
「ええ」
「初めて会いました。同じ力を持った人……」
変わった人だけど、同じものが視えるというだけでこんなにも安心する。例えばテレビに出ている能力者などは、私が視る限り嘘っぱちが多かったからだ。少なくとも、九条さんは嘘をついていないことだけは確かなのだ。
「今から行った先で気になることは、なんでも私に言ってください。無理はしないで。初めての現場ですから、あまり気負うことはありません」
ハンドルを慣れた手つきで回しながらそう話す姿を見て、少し心が軽くなった。これは間違いなく、私は励まされてる。マイペースなこの人は、人をフォローするような発言はしないと思っていたから意外だ。
「……ありがとうございます」
小さく呟き視線を上げれば、ミラー越しに九条さんと目が合った。やはり、ガラスのような綺麗な瞳だ。思わず顔を背ける。九条さんは気にせず続けた。
「病院という場所のイメージはどうですか?」
「確かにいろんなものを見かけますが、攻撃的なものはあまり視たことない気がします」
「その通りです。病院でウロウロしているようなものたちは、自分が死んだことに気づいておらず、戸惑ったままそこに滞在しているのが多い。病死ならば死の覚悟が出来ている者がほとんどですし、強い恨みを持って攻撃するようなものは意外と少ない。生きている者に攻撃するものには、かなり強い力と思いがあるはずですからね。今回の場合、ある病棟のみの発生で、更に一ヶ月前からと限定的です。その病棟で何かあったか、それとも勤務するスタッフにどこからか憑いてきたのか……」
「時々肩にエゲツないものぶら下げてる人いますよね」
「私はシルエットしか見えませんから、エゲツなさが分かりませんがね」
「ああそっか。そういう視え方があることも初めて知りました」
私は素直に感心した。そういえば彼はシルエットで視えると言っていた。その代わり会話が成立することもあるそうなので、私とは少し能力が違うのだ。
それにしても、九条さんと二人きりだと聞いて焦っていたが、案外話せば普通に会話出来ている。伊藤さんほどの話しやすさはないけど、思った以上に会話が成り立つことに、少し安心している自分がいた。長い沈黙を覚悟していたのだ。
「普段は精密機器を用いて撮影するんですが、病院となれば無理ですね」
「撮影、ですか?」
「彼らは映像に映りやすいんですよ。高性能なものを使うと特に。二十四時間見張るわけにもいかないので、カメラを設置して起こる現象を観察することが多くあります」
へえ、と自分の口から声が漏れた。
「結構現代的な感じなんですね……私、テレビで見るようなお祓いしかイメージがありませんでした」
「あとは相性ですね。黒島さんもそうだと思いますが、存在するもの全てが視えるわけではないですから。相性がいいものは、特に向こうも積極的に訴えたりするはずです」
「へ、へぇ……生きてる者とそうでないものにも相性があるんですか……」
「私はどちらかというと、男性より女性の声の方がよく聞こえる気がします」
サラリと言ったのを聞いて、私はつい反射的に言った。
「え、それって、霊にもイケメンは好かれるってことですか?」
「イケメン?」
「えっ?」
「イケメンですか?」
「はあ」
「私がですか?」
「は、はあ」
「そうですか……ありがとうございます」
気の抜けた返事に、ずっこけそうになった。もしやあまり自覚がないのだろうか。まさかこのレベルで? 驚く私をよそに、本人はどこか不思議そうに頬を掻いた。私はなおも言う。
「やっぱりどうせ近寄るなら、かっこいい人の方がいいって彼女らも思うんでしょうか」
「考えたこともありませんでした」
「え、ないんですか……だって九条さんモテるでしょう?」
「モテると思いますか」
「あ、えっと、うーんと」
「急に口籠るんですね」
上手く誤魔化せなかった自分を嘆いた。だって、顔だけ見てそう聞いてみたけれど、思えばこの人、笑いもしないしマイペースすぎだしパッキー大好き星人だし、ちょっとモテるタイプとは違うかもと思ってしまったのだ。それでも、なんとか必死に笑顔を作って言ってみた。
「最初はモテると思いますよ」
「全然フォローになってません」
キッパリと言われてしまった。嘘がつけない自分を心の中で叱る。でも九条さんは気分を害した様子もなく、むしろ感心したように言った。
「しかしその通りです。女性が近寄ってきたとしても、すぐに散っていきます。よく分かりましたね、なぜなんでしょうか」
彼のそんな発言を聞いて、私は無言になる。今までの彼の言動が脳裏に蘇った。ここにきて、ようやく九条さんという人が少し分かってきた気がする。
この人天然だ。最高に天然な人なんだ。
多分気遣いとかも全然出来なくて、自分のことにすら疎くて、悪気も何もない、ある意味とても素直な人。自覚がないのだ、イケメンであることも、自分が変わっているということも。
「あー……パッキー食べすぎなんじゃないですかね……」
「そうですか。女性はパッキー食べすぎは敬遠するんですね。では仕方ありませんね。私何よりパッキーが好きなので、あれだけは外せません」
そう彼は断言して一人納得した。私はそれ以上何も言わなかった。
着いた場所は大きな建物の前だった。
ほんの数年前に建て替えたばかりだというその病院は、新しく綺麗で、多くの人が行き交っている。正面玄関の前にはタクシーが並び、車の乗り降りのため、何台も一時停止しては去っていく。これは患者数も随分多そうだ。
私たちは車を駐車場に停めて降り、まず正面玄関へと入っていった。中は老若男女でごった返している。歩を進めると、総合案内に立つ受付の女性がにこやかに挨拶をしてくれた。九条さんはそれに特に反応せず歩き、ある柱の前でピタリと足を止めた。そしてぐるりと辺りを見渡す。私も釣られて見てみた。
「黒島さん、今いくつ視えますか」
尋ねられた言葉に、どきりとして視線を落とした。一度小さく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。そして不自然にならないよう注意しながら、再び辺りを見渡した。
人混みの中では、彼らは生きてる人間に混じって判別しにくかったりする。時折間違えてしまうこともあるのだ。私はあえて視線を合わせないようにして、周囲を見ていく。
「……三です」
そう呟いて、私は意味もなく近くの案内板を見つめた。
「どこですか」
「えっと、右側のソファ、エレベーター前、あと玄関前に」
「なるほど」
私はちらりと、一番近くにいるソファを見た。
老婆だった。ぱっと見は他の人と混じってしまいそうな自然な様子。グレーの長い髪を一つ縛りにし、猫背でソファに腰掛けている。シワの濃い目元や口元からどこか悲愴感漂う表情で、何をするわけでもなく、ぼんやりと周囲を見つめていた。
ただその格好は、薄い肌着一枚に裸足というもので、その異質さがこの世のものではないと確信させた。油断したら生きている人間と勘違いしてしまいそうだ。だが、その存在はどことなく周りと色が違う。上手く言えないが、自分の中ではそういう感覚なのだ。
「えっと、九条さんは……」
「八ですかね」
「八ですか!?」
「まあ、私はぼんやりシルエットなので。有害なのはいないようですね。では問題の病棟に行きますか」
そう抑揚もなく話すと、彼は私の返事も聞かずに、すぐそこにあるエレベーターのボタンを押した。周りに人が多いため、私は小声で話しかける。
「九条さんの方がたくさん視えてるんですね……」
「言ったでしょう、相性ですよ。あとは強い力を持ったものはやはり、比較的認識しやすいですよね。屋上であなたと見た飛び降りるやつとか」
「そんな大きな声で言わないでください!」
まるで声のボリュームを抑える気がない彼を、慌てて小声で諫める。周りの人がなんの話かと驚くではないか。だが彼は何も気にしてないようで「ああ、すみません」と形だけの謝罪をしてくる。絶対思ってないだろうな、と感じる言い方だ。
丁度その時、エレベーターが到着したので乗り込む。聞いていた病棟は八階だったので、ボタンを押して沈黙を守る。たくさんの人が更に乗り込み、その箱は満員になり上昇した。ほとんどの階で停止しつつ、ようやく八階に辿り着くという時、私は急に思い出してしまった。自分は今から怪奇現象を起こすような霊と会うということを。
九条さんの変人さに釣られてのほほんとしていた気がする。これまでの人生、彼らとはあまり関わらないよう生きてきたのに、自ら会いに行くなんて。小さく深呼吸をした。もし何か起きたらどうするのだろう。九条さんは祓うとか出来ないって言っていたけれど……
マイナスなことを考え緊張してしまうが、なんとか抑え込む。戸惑っているのを九条さんに勘付かれたくないと思った。仕事をしに来たのだから、嘘でも堂々としていなければならない。
到着を示す高い音と共に、私たちはエレベーターを降りる。そして鋭い視線で例の病棟を見つめた。ぎょろぎょろと目玉を動かしながら観察するも、すぐに気が抜ける。なぜなら、意外にも目の前にあるのは極々普通のナースステーションだったからだ。てっきり、早々に怖い霊と遭遇するかと思っていた。
薬品のような匂いに、心電図モニターらしき規則音。少ししてピンポーンと音が鳴り響いた。あれがナースコールの音だろうか。白衣を着た女性たちが、点滴の準備などで忙しそうにしていた。
「……なんか普通ですね」
私は小声で言う。九条さんは想定内、とばかりに頷いた。
「厄介な霊たちは、私たちのような新参者が来ると、初めは様子を窺うように大人しくなることが多いです。覚えておいてください」
「そ、そうなんですか」
「慣れた頃に現れますよ。とりあえず行きますか」
コートのポケットに手を突っ込んだまま、九条さんはナースステーションに近付いた。中にいた一人のナースがこちらを見て、一瞬見惚れるように九条さんを見つめる。
「初めまして、丹下様より話があったかと思いますが、九条です」
「あ、あら~! 随分とお若くて、なんか、それっぽくない方がいらしたのねー」
意外そうに笑うナースさんは、年は四十くらいだろうか。パソコンを少しだけ操作すると、こちらに歩み寄ってきた。そして私には目もくれず、チラチラと九条さんを見上げては微笑んだ。気持ちは分かるが、見た目で完全に騙されている。彼の中身を教えてあげたい。
「副主任の田中といいます。よろしくお願いします」
ハキハキと話す様子はまさに看護師、という感じだ。前髪を全て上げているため顔がはっきり見える。白衣はパンツスタイルで、ポケットには何やら物がたくさん詰まってパンパンだった。九条さんは愛想笑いもせず話す。
「こちらは黒島です」
「よろしくお願いします」
「早速ですが、丹下さんに伝えていた通り、監視カメラ映像の確認と、それから現場の方から話を伺いたいのですが」
「ああ、はいはい、こちらへどうぞ。一室空き部屋を用意しましたので」
田中さんはそう言いながら、私たちを促すように歩き出したのでついていく。途中で辺りを見渡すが、私が認識出来たのは一体、無害そうな霊のみだった。ただ立っているだけで、攻撃的な感じはまるでなし。辺りを観察していたらしい九条さんも私と同じ感覚らしく、一人頷いている。
「ここを使ってください、中に監視カメラの映像があります。この映像は病棟管理者しか見ないので、私たちも見たことないんですよ」
案内された部屋の入り口には『カンファレンスルーム』と書かれていた。いわゆる会議室だろうか。長テーブルが向かい合わせで並び、パイプ椅子がいくつか置かれている。机の上にはテレビ一台と、何本かテープがあった。田中さんは腕を組んで考えるように言う。
「思い出せる限り、変なことがあった時刻の映像を用意しました」
九条さんは並んだテープを手に取る。
「人影が見えるとか、鍵が開かない、でしたっけ」
「ええ、そう。人影はねー別にいいけど、鍵は困るんですよね。私もそれは初めての経験で、今回は大事になっちゃって」
人影もよくはないだろうと思うのだが、看護師はメンタルが強すぎる。だが九条さんは特に何も思わないようで、話を続ける。
「ちなみに、一ヶ月前からと丹下さんからは伺ってますが」
「あ、そうですね。他のスタッフにも聞いてみたけど、やっぱりそれくらいから始まってる気がするって」
「では、一ヶ月前にこの病棟で亡くなられた患者をリストアップしておいてください」
九条さんの台詞に、今まで豪快な話し方をしていた田中さんの表情が一瞬固まった。
「……それは、うちで亡くなられた患者さんがここに取り憑いてるってことですか?」
「そういう可能性もある、ということです」
「そうですか」
彼女はふうとため息をつく。私もそこでつい口を挟んだ。
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