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八一〇号室
「捨てるなら、私にくれませんか」
時刻は真夜中。真冬の容赦ない寒さが肌を突き刺す。少しでも息を吐けばそれは白く空へと昇り、手先はかじかんで痛みを覚えるほどだった。空は私の気持ちとは裏腹に、星が綺麗に輝いている。
それまで人気など感じなかったのに、背後から突然抑揚のない声が聞こえ飛び上がった。冷え切った手で目の前の柵を握っていた私は、一旦そこから手を放し、すぐに振り返る。
暗闇の中に見えるその顔は真っ白だった。白い肌、白いトレーナー。羽織っているコートとパンツは黒で、モノトーンな出で立ちだった。鼻筋がすっと伸びた顔は日本人離れして綺麗だけれど、どことなく感情が読み取れない恐ろしさがあった。年は二十代半ばくらいだろうか、自分とあまり変わらなそうだ。
せっかく綺麗な顔立ちをしているのに、彼の黒髪は無造作に伸びており、彼は身嗜みに対して無頓着だろうと想像させた。
やや猫背のその人は、寒そうに手をコートのポケットに入れたままもう一度言った。
「捨てるなら。くれませんか」
男の口元から白い息が漏れる。黒い瞳で見つめられ、その真っ直ぐな視線につい、たじろいだ。自分の着ている茶色のコートが風に靡く。同時に、少し長めの前髪が巻き上がり一瞬視界を遮ったが、髪の隙間から見える男性は、じっとこちらを見つめ続けている。
「あの、捨て……?」
「捨てるんでしょう」
キッパリとそう断言したのを聞いて、はっとする。ようやく男が言いたいことが分かったのだ。私は彼から目を逸らし、冷え切った手を擦り合わせて平静を装った。
「なんのことですか? 私にはさっぱり」
「どうせいらないのなら私にください」
全く引かない彼の様子に、眉を顰めた。
「……いいえ。あなたにあげられるものは何もないので。では」
「悪いようにはしません」
「だから。なんのことか――」
「いらないんでしょう? 命」
ストレートに言われて、つい口籠る。男はふうと息をついて空を見上げた。
「こんな真夜中にこんな廃墟ビルの屋上で何をするかなんて、考えなくても分かりますよ」
「……いらないとはいえ、見ず知らずの男性にあげるつもりはないです」
死のうとしている女を手に入れてどうする気か。そんなのこのポンコツ頭でも考えれば分かる。例えば臓器売買? 風俗に沈めるとか? 冗談じゃない。私はもうこれ以上辛い目に遭いたくなくて死にたいのに、なんであえてそんな道を進むと言うのだ。いくら男が美形でもついていくという選択肢はない。
「では、失礼します」
私は口早にそう言い残すと、そそくさと男の横を通り過ぎた。時間をかけて上ってきた階段を、今度は下りねばならないのかと思うと憂鬱だ。まさか邪魔が入るとは思っていなかった。心の中でため息をつきながら、壊れかけている屋上の扉を目指した。扉は風に吹かれキイキイと揺れている。
「あなたのその能力を有効に使える仕事があります」
背中に投げられた言葉につい足を止めた。男を振り返ると、彼は無表情でポケットに手を入れたまま、じっと私を見ていた。私は呆然と呟く。
「……なにを」
「邪魔だと思っていたその能力を、逆に活かしてみませんか。どうせいらないなら、私に任せてみませんか。悪いようにはしませんよ」
丁寧な敬語と抑揚のない話し方がアンバランスだった。
……何を言っているのだろう、この人は。心臓がバクバクと騒ぎ出す。まさか、あのこと? どこからか調べたのだろうか。だとしたら、一体それを使って何をするのが目的なのだろう。悪巧みか、金儲けか。
返す言葉を失くしている私をよそに、男はポケットからゆっくり手を出し、長い人差し指をゆるく伸ばして右側を指した。私はそちらに目を向ける。
「例えば、あんな風にここに残るのがあなたの望みなんですか」
彼が指さした場所には、女がいた。うるさかった心臓の音がなお響く。
女はこちらに背を向けたまま、柵の外側に立ち俯いていた。黒髪のロングで、Tシャツにジーンズを穿いている。冷たい風がぶわっと吹いたが、彼女の髪は揺れなかった。微動だにせず立ち尽くすその姿が、正常なものではないと物語っている。ただただ無言で、女は立っていた。彼女の向こうには、真っ暗な闇があるだけ。
「待って……だめ!」
反射的にそう叫び、彼女のもとへと走り出した。だがその瞬間、彼女は飛び降りた。私は短く悲鳴を上げる。自分の口を両手で押さえながらも、ふと、周りが風の音ぐらいしか聞こえないことに気がついた。
……ああ、まさか。
キイキイと背後から音が聞こえた。屋上の扉が揺れる音だ。嫌な予感がして息を呑み、ゆっくりとそちらに目をやる。その扉から、先ほど飛び降りた女が再び入ってきたのだ。そこで初めて顔が見える。別段変わった女性ではない、そこらにいそうな平凡な女性だ。だが、その表情は暗く絶望そのものを指しているようで、一点のみを見つめて歩いていく。
そして柵を乗り越え、縁に立ち、また暗闇に飛び込んでいく。私は今度は止めなかった。止めても意味がないと分かったからだ。
「繰り返すんですよ。永遠に」
無慈悲な声が聞こえた。だが今、私の心の中を大きく支配している感情はたった一つだった。目を見開いて男を見る。私をじっと見つめるその瞳はまるでガラスのようだ、と思った。
「あなたも……視えるんですか……?」
私が尋ねても、男は何も答えなかった。
自分でも正気を疑うが、私は男についてきてしまった。
長い階段を無言でゆっくり下り、外にようやく出てみれば、タクシーが一台停まっていた。男は何も言わずにそこに乗り込み、「どうぞ」と私に促す。仕方なしに従うと、タクシーがゆっくり発車した。静かな車内で、私は様々な疑問を心に抱く。
まず第一に、なぜ真夜中にタクシーでわざわざこんなところに来たのだろう。ここは私が調べに調べ抜いた廃墟ビルだ。周りに人気もない。飛び降りた後誰かにぶつかる心配もなく死ねるかと思っていたのに、私の計算違いだったのか。
恐る恐る隣の男の顔を見た。やはり羨ましいほどすっと高い鼻。毛穴一つない白い肌。ハーフとか、クォーターとかかもしれない。でも瞳の色は黒色だ。
男は何も言わずにぼうっと一点を見ているだけだった。人を誘っておいてこれからどこに行くのか、名前は何なのかを教えてくれるそぶりもない……やっぱりついてきたのは間違いだったかな。
早速後悔し始めた自分は、冷や汗を掻きながらソワソワと目を泳がせた。唯一の救いとばかりに、タクシーの運転手さんの顔を見てみれば、中年のおじさんは完全に表情が固まっていた。そりゃそうか、あんな不気味なビルの前に一人待たされた挙句、客は無愛想で無言の男女だし、きっと彼が誰より後悔しているに違いない。とんでもない客を乗せてしまった、と。
私は小さく息をついて、真っ暗な窓の外を眺めた。木ばかりが聳え立つ細い道を、タクシーは慎重に進んでいく。ガラスに映った自分の顔を見て、少し眉尻を下げた。セミロングの黒髪は風に煽られてボサボサだし、化粧を施していない顔は、している時と比べて幼く見えた。
そういえば最近痩せたかもしれない、と頬を触る。隣にとんでもない男前がいるというのに、自分は地味な格好をしていることが、どんどん気になってきた。いや、身嗜みも体型も今はどうでもいいのだ。
「黒島光さん」
「ひゃっ!」
突如呼ばれて声が漏れた。それは静まり返った車内に急に声が響いたのもあるが、なんといっても、
「わ、私、名前言いましたっけ?」
教えてもない自分のフルネームを呼ばれたことに対する驚きだった。だが男は飄々とした顔でこちらを覗き込んでいる。ああ、やっぱり綺麗な顔なのにどこか掴みどころのない不思議な人だ。
「ああ、すみません。ちょっとしたツテで知りまして」
「ツテ……?」
「まあそれはいずれ分かると思います。それより、今からご案内するところは私の事務所です」
「じ、事務所って!」
やっぱり怖いところに連れていかれ、売られたりするのだろうか。怯えて飛び上がった私に、彼は首を横に振って言う。
「勘違いしないでください、私が経営している小さな事務所です。怪しいことは何もしていません」
「そ、そうですか」
ほっと胸を撫で下ろす。怪しいところに連れていかれるのかと思ったけど、違うらしい。
「えっと、どんなお仕事を……?」
「それもすぐに分かります、あなたに向いているところですよ。ところで黒島さんは、今住む場所がないですね?」
「……あの、だから、どこでそれを」
「身の回りを綺麗にしてから死にに行くなんて律儀ですね。狭い事務所ですが、しばらく寝泊まりに使ってもらっていいですよ、仮眠のためのベッドがありますから。少し働いてみて続けるか決めてください」
「……あの、どうしてそこまでしてくれるんですか?」
「あなたが優秀な能力をお持ちだと知ったので」
「だからどこで?」
「いずれ分かります」
全く要領を得ない会話はそこで途切れた。気づかない間にタクシーは明るい道に出ており、一つのビルの前に停車したからだ。ほっとしたような顔の運転手に、男はお金を差し出した。財布ではなく、ポケットからそのまま出したお金だ。
私は横目でそれを見てから窓の外を見回してみると、思ったよりずっと普通の場所だった。小さめだが小綺麗なよくあるビルだ。道路はそこそこ車通りのありそうな広さで、周りにも似たようなビルが建ち並ぶ。時間が時間だけに街灯のみでひっそりとした道だが、昼間なら結構明るいかもしれない。彼が言っていたように、怪しい場所ではなさそうだ。
隣の男はのそのそとゆっくりタクシーを降りようとして、最後の最後でタクシーの天井に頭を強く打っていた。なかなかの大きな音が車内に響き、運転手さんも思わず振り返る。普通、急いでもいないのに、そんなところにぶつけるだろうか? 唖然とした私には目もくれず、不機嫌そうにその人はポリポリと頭を掻いた。
「……痛いです」
「……痛そうですね」
「黒島さん、降りないんですか」
そう言われ、頭は打たないように気をつけながら慌てて続いた。タクシーの運転手は最後にようやく笑顔を見せて、ドアを閉めて発車させる。なんとなくそれをぼんやり見送っていると、男はそんな私を気にもかけず、一人ビルに入っていくので必死に追った。
そのまま階段を上っていく彼に素直についていくと、なんと五階分も上らされた。なぜエレベーターを使わないのだろう、確か階段のすぐ隣にあったはずなのだが。
乱れてきた呼吸をなんとか整えながらついていくと、ようやく階段から解放され、一つの扉の前に辿り着いた。看板もプレートも何もない。
「……あの、ここの名前って」
聞こうとしたが男はそそくさと中へ入っていってしまう。私はまた慌てて追いかける他ない。彼はかなりマイペースな人らしい。
中はさほど広くはないが、掃除は行き届いている。真ん中には来客用と見られる黒い革のソファにガラスのテーブル。そこには指紋一つついていない。少し離れた窓際にはデスクと椅子がある。デスクには何やら山積みの紙類と、同じ種類のお菓子がいくつも置いてあり、ここだけ乱雑さを感じた。
私は辺りをチラチラ見ながら、勝手に座るのも気が引けて立ち尽くす。
男はゆっくりとした歩調でソファまで歩み寄ると、ドサリとそこに腰掛けた。ようやく「どうぞ」の一言が出るのかと足を踏み出した瞬間。
「……ふぁ」
彼は大きな欠伸を一つかますと、そのままソファにゴロリと横になった。身長が結構高いため、足がソファからはみ出ている。靴すら脱いでいないので、履いている黒い革靴の裏が見えた。あ、ガム踏んでる……ってそうじゃない、このまま眠られたら、私はどうすればいいのだ。
「あの!」
勇気を出して声を掛けると、彼はもうすでに閉じていた目を半分ほど開けた。
「わ、私はどうすれば!」
未だに何も聞いていないのだ。彼の名前も、ここが何なのかも、なぜ私に声を掛けたのかも、何一つ。それなのに人を放って寝始めるとは、一体どれだけマイペースなのだ。
彼はああ、と小さく声を漏らした。そして面倒くさそうに起き上がる。
「そうでした、あなたはこちらへ」
彼は立ち上がり、部屋の隅にある白いカーテンへ向かいそれを開ける。私も続いて覗いてみると、中にはキッチンが見えた。キッチンと言ってもコンロが一つだけの小さなもの。あとは食料が並べられた棚に冷蔵庫、更に奥には簡素なベッドが見えた。シーツに薄い毛布があるだけのものだ。
「あなたはここで寝てください。では」
「……え!? ここですか?」
驚いて彼を振り返るも、すでにまたあの黒いソファに戻っていく途中だった。私は慌てて話しかける。
「いや、あの、寝るって! でも――」
「こんな時間なので眠いです。おやすみなさい」
私は戸惑った。カーテン一枚で仕切られただけの部屋に、さっき会ったばかりの男と寝ろとは、さすがにどうなのだ。しかも名前も年も知らない、能面のような顔をした男と。そう抗議しようとしたが、彼がこちらを見てきて目が合った瞬間、言葉が出なくなった。
ガラスみたいな黒い瞳が綺麗だ。吸い込まれそうなほどに。白い肌は、電気のついた明るい部屋ではなお白く見える。髪は風に吹かれたせいか、酷くボサボサなのが残念でならない。
「何か問題でも?」
薄い唇がそう告げた。意識しているのは私だけだと思い知らされる言い方だ。私は何も言い返せなくなる。
「……いえ、明日、色々聞かせて頂けますか」
「ええ、もちろん。おやすみなさい」
それだけ言うと、彼はまたソファにゴロリと寝そべり、ものの数十秒で寝息を立て始めた。どう見ても狭くて寝辛そうなソファだけど、それは私がベッドを奪ってしまったからなのか。
私は彼の寝顔を見ながら、やはり間違えたかもしれないと思った。同じように『見えざるもの』が視えるのだと感激して、素性も分からないのに、ついついてきてしまった。
……でももう、しょうがない。
私は無言で白いカーテンをそっと閉めた。どうせ死ぬつもりだったのだから、どうにでもなれ、だ。そう開き直ると、少し硬めのベッドに体を横たわらせる。そしてそのまま眠りに落ちてしまったのだった。
*
私の顔は今きっと真顔だと思う。腕を組んで見下ろす先には、人形のように整った、けれども顔色が悪い男が横になっていた。寝息は聞こえる。だが、昨晩最後に見た格好と同じ姿のまま今日を迎えている。
「……大丈夫かな」
時計を見上げると、時刻はすでに昼の十二時。昨夜は確か、午前二時に寝付いたから遅かったけれど、それでももう十時間は寝ている。朝方目覚めた私は、男が起きるまで待っていようと気楽に考え、一人近くにあったコンビニまで出向き、歯ブラシなどを購入し身支度を簡単に整えた。
そして退屈と闘っていると、気がつけば昼。さすがに起こそう、と思い立つ。ソファで足をはみ出したまま寝る彼は、毛布一枚も掛けることなく熟睡していた。その肩にトントンと手を置き、もうお昼ですよ、と声を掛ける。
ところが、である。この男、眉一つ動かさない。もう少し力を強くして肩を叩いてみたが、結果は同じだった。少し苛立っていた自分は更に強く、更に強くと力を加え、最終的には彼の肩を大きく揺さぶったものの、やはり起きない。次第に苛立ちを通り越して恐怖が訪れた。
もしや何かの病気だろうか、例えば脳に障害が起こったなど。そう考えると焦ってしまう。強く揺さぶるのもよくないと考え、瞼を無理に開けてみたり、冷水で冷やした手でおでこに触れたりしたけれど、ノーリアクション。もしや私、死人と一晩過ごしたのだろうか。一番のホラーである。
いやいや、早まるな自分。死人ではない、息はしている。でも起きない。これはいい加減救急車を呼ぶべきだろうか。怖くなってしまった私は、オロオロとその場に立ち尽くした。救急車を呼ぶにしても自分はスマートフォンを持っていない。この人のがあるだろうか。勝手に探してもいいだろうか。いや、他のテナントに駆け込んで電話を借りるのはどうだ。そうだそれが一番だ、そうしよう!
決意して、事務所から出ようと扉に手を掛けた瞬間だった。触れていないその扉が突然ガチャリと開かれた。
「うわっ!」
叫んだのは私ではなかった。目の前にいた若い男の人が、目を丸くして飛び上がった。そして私に尋ねる。
「びっくりした! ど、どちら様!?」
男の人は二十歳前後だろうか。あどけない顔立ちは学生のようにも見える。茶色のモッズコートを着て、手にはコンビニの袋をぶら下げていた。黒髪に丸顔。あの能面な男と違って、表情豊かな人だった。
「あ、すみません……。私、黒島光といいます。えっと、こちらの方ですか?」
「は、はい。そうですけど」
「あの、男性の方が全然起きなくて……揺さぶっても何しても! 何かの病気かもしれません。救急車を呼んで頂けますか!?」
焦って言う私の顔を見て、彼はきょとんとした。そして部屋の中を覗き込む。ソファに寝そべる男を見て、ああ~と納得したように頷いた。
「えーと、ちょっと待ってくださいね~」
慌てる様子もなく、ニコニコしながら私にそう告げると、男の人は中へ入り持っていた袋をガラスのテーブルに置いた。そしてそれをゴソゴソと漁り、中からお菓子を取り出す。私は首を傾げてその光景を見つめる。
あのお菓子は、窓際に置かれたデスクの上に積み重なっている物と同じだ。細長い棒状のビスケットに、チョコレートがコーティングしてある、知らない人はいないメジャーなもの。パッキーという名で、味のバリエーションも苺だの抹茶だのと豊富な甘いお菓子である。
彼はその封を開けて一本取り出すと、なんとそれを寝ている彼の口にずいっと突っ込んだ。そして耳に口を近づけると、部屋が揺れるんじゃないかと思うほどのボリュームで叫ぶ。
「九条さーーん!! 朝でーーす!!」
私は唖然とその光景を見ていた。あんな起こされ方をしたら、私ならブチ切れる。でも、九条と呼ばれた男はその声に反応して、ただゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした目の光が、寝ぼけていることを物語っている。そして彼は突っ込まれたパッキーを、もぐもぐと少しずつ齧った。
大声を出した男の人はふうと息をついて、困ったようにこちらを見た。犬のように人懐こい笑顔だ。
「こうしなきゃ起きないんですよ」
「は、はあ……」
「ほら、九条さん、相談者さん来てますからどいてください。もう昼ですよー?」
九条さんは素直に立ち上がった。頭を掻きながらデスクの方に移動し、気怠そうに椅子に座ると、くるりと回転させる。
「さ、お待たせしました。どうぞこちらへ!」
男の人にニコニコとソファを勧められ戸惑う。
「あ、いや私は……」
「すみませんね~九条さんほんと寝起き悪くて。一日中寝てることもあるくらいなんですよ。どうぞどうぞ!」
どうやら私は来客と勘違いされているらしかった。さてどう説明しようか困っていると、寝起きの声で九条さんがようやく言った。
「伊藤さん。その人は客ではないです」
「へ? 客じゃないって」
「今日からここで働く黒島光さんです。よろしく」
九条さんはデスクの上に置いてあった菓子を取り出してまた食べている。だらしなく椅子にもたれて、どこかぼんやりと天井を見上げていた。伊藤さんと呼ばれた男の人は、驚いて九条さんに詰め寄った。
「ええっ、僕聞いてませんけど!」
「ええ、今言いましたから」
「なんで急にそんなことに!? 昨日の今日で、こんな女の子を!」
「昨晩ある縁がありまして」
すっかりここで働くことになっている。だが、私はまだ決めたわけではない。そもそも、どんな仕事なのかさえ知らないではないか。私は静かな声で彼らに言った。
「ここがなんの事務所かも聞いてませんし、あなたの名前すら今知りました。お話を聞かせてもらう、という約束でしたので、まだ働くかは分かりません」
私が訂正すると、しんと静まり返った部屋に、パッキーを齧る音だけが響く。伊藤さんは困ったように立ち尽くしていた。少しして、九条さんは表情を変えずに言う。
「確かにそうでしたね。失礼しました」
九条さんは半分ほどになったパッキーを一気に頬張ると、私の方に向き直った。
「九条尚久といいます。単刀直入に言いますと、この事務所は心霊調査事務所です」
「……心霊調査?」
「大体は想像がついていたでしょう?」
彼は無表情で言い放った。私は押し黙る。確かに、私のこの能力を活かせる仕事、と言われればそんな感じかなと頭をよぎった。だが、心霊調査なんて怪しすぎるし、一体何を調査するというのだろう。
「調査、って言いますと、具体的にどんな……」
「捨てるなら、私にくれませんか」
時刻は真夜中。真冬の容赦ない寒さが肌を突き刺す。少しでも息を吐けばそれは白く空へと昇り、手先はかじかんで痛みを覚えるほどだった。空は私の気持ちとは裏腹に、星が綺麗に輝いている。
それまで人気など感じなかったのに、背後から突然抑揚のない声が聞こえ飛び上がった。冷え切った手で目の前の柵を握っていた私は、一旦そこから手を放し、すぐに振り返る。
暗闇の中に見えるその顔は真っ白だった。白い肌、白いトレーナー。羽織っているコートとパンツは黒で、モノトーンな出で立ちだった。鼻筋がすっと伸びた顔は日本人離れして綺麗だけれど、どことなく感情が読み取れない恐ろしさがあった。年は二十代半ばくらいだろうか、自分とあまり変わらなそうだ。
せっかく綺麗な顔立ちをしているのに、彼の黒髪は無造作に伸びており、彼は身嗜みに対して無頓着だろうと想像させた。
やや猫背のその人は、寒そうに手をコートのポケットに入れたままもう一度言った。
「捨てるなら。くれませんか」
男の口元から白い息が漏れる。黒い瞳で見つめられ、その真っ直ぐな視線につい、たじろいだ。自分の着ている茶色のコートが風に靡く。同時に、少し長めの前髪が巻き上がり一瞬視界を遮ったが、髪の隙間から見える男性は、じっとこちらを見つめ続けている。
「あの、捨て……?」
「捨てるんでしょう」
キッパリとそう断言したのを聞いて、はっとする。ようやく男が言いたいことが分かったのだ。私は彼から目を逸らし、冷え切った手を擦り合わせて平静を装った。
「なんのことですか? 私にはさっぱり」
「どうせいらないのなら私にください」
全く引かない彼の様子に、眉を顰めた。
「……いいえ。あなたにあげられるものは何もないので。では」
「悪いようにはしません」
「だから。なんのことか――」
「いらないんでしょう? 命」
ストレートに言われて、つい口籠る。男はふうと息をついて空を見上げた。
「こんな真夜中にこんな廃墟ビルの屋上で何をするかなんて、考えなくても分かりますよ」
「……いらないとはいえ、見ず知らずの男性にあげるつもりはないです」
死のうとしている女を手に入れてどうする気か。そんなのこのポンコツ頭でも考えれば分かる。例えば臓器売買? 風俗に沈めるとか? 冗談じゃない。私はもうこれ以上辛い目に遭いたくなくて死にたいのに、なんであえてそんな道を進むと言うのだ。いくら男が美形でもついていくという選択肢はない。
「では、失礼します」
私は口早にそう言い残すと、そそくさと男の横を通り過ぎた。時間をかけて上ってきた階段を、今度は下りねばならないのかと思うと憂鬱だ。まさか邪魔が入るとは思っていなかった。心の中でため息をつきながら、壊れかけている屋上の扉を目指した。扉は風に吹かれキイキイと揺れている。
「あなたのその能力を有効に使える仕事があります」
背中に投げられた言葉につい足を止めた。男を振り返ると、彼は無表情でポケットに手を入れたまま、じっと私を見ていた。私は呆然と呟く。
「……なにを」
「邪魔だと思っていたその能力を、逆に活かしてみませんか。どうせいらないなら、私に任せてみませんか。悪いようにはしませんよ」
丁寧な敬語と抑揚のない話し方がアンバランスだった。
……何を言っているのだろう、この人は。心臓がバクバクと騒ぎ出す。まさか、あのこと? どこからか調べたのだろうか。だとしたら、一体それを使って何をするのが目的なのだろう。悪巧みか、金儲けか。
返す言葉を失くしている私をよそに、男はポケットからゆっくり手を出し、長い人差し指をゆるく伸ばして右側を指した。私はそちらに目を向ける。
「例えば、あんな風にここに残るのがあなたの望みなんですか」
彼が指さした場所には、女がいた。うるさかった心臓の音がなお響く。
女はこちらに背を向けたまま、柵の外側に立ち俯いていた。黒髪のロングで、Tシャツにジーンズを穿いている。冷たい風がぶわっと吹いたが、彼女の髪は揺れなかった。微動だにせず立ち尽くすその姿が、正常なものではないと物語っている。ただただ無言で、女は立っていた。彼女の向こうには、真っ暗な闇があるだけ。
「待って……だめ!」
反射的にそう叫び、彼女のもとへと走り出した。だがその瞬間、彼女は飛び降りた。私は短く悲鳴を上げる。自分の口を両手で押さえながらも、ふと、周りが風の音ぐらいしか聞こえないことに気がついた。
……ああ、まさか。
キイキイと背後から音が聞こえた。屋上の扉が揺れる音だ。嫌な予感がして息を呑み、ゆっくりとそちらに目をやる。その扉から、先ほど飛び降りた女が再び入ってきたのだ。そこで初めて顔が見える。別段変わった女性ではない、そこらにいそうな平凡な女性だ。だが、その表情は暗く絶望そのものを指しているようで、一点のみを見つめて歩いていく。
そして柵を乗り越え、縁に立ち、また暗闇に飛び込んでいく。私は今度は止めなかった。止めても意味がないと分かったからだ。
「繰り返すんですよ。永遠に」
無慈悲な声が聞こえた。だが今、私の心の中を大きく支配している感情はたった一つだった。目を見開いて男を見る。私をじっと見つめるその瞳はまるでガラスのようだ、と思った。
「あなたも……視えるんですか……?」
私が尋ねても、男は何も答えなかった。
自分でも正気を疑うが、私は男についてきてしまった。
長い階段を無言でゆっくり下り、外にようやく出てみれば、タクシーが一台停まっていた。男は何も言わずにそこに乗り込み、「どうぞ」と私に促す。仕方なしに従うと、タクシーがゆっくり発車した。静かな車内で、私は様々な疑問を心に抱く。
まず第一に、なぜ真夜中にタクシーでわざわざこんなところに来たのだろう。ここは私が調べに調べ抜いた廃墟ビルだ。周りに人気もない。飛び降りた後誰かにぶつかる心配もなく死ねるかと思っていたのに、私の計算違いだったのか。
恐る恐る隣の男の顔を見た。やはり羨ましいほどすっと高い鼻。毛穴一つない白い肌。ハーフとか、クォーターとかかもしれない。でも瞳の色は黒色だ。
男は何も言わずにぼうっと一点を見ているだけだった。人を誘っておいてこれからどこに行くのか、名前は何なのかを教えてくれるそぶりもない……やっぱりついてきたのは間違いだったかな。
早速後悔し始めた自分は、冷や汗を掻きながらソワソワと目を泳がせた。唯一の救いとばかりに、タクシーの運転手さんの顔を見てみれば、中年のおじさんは完全に表情が固まっていた。そりゃそうか、あんな不気味なビルの前に一人待たされた挙句、客は無愛想で無言の男女だし、きっと彼が誰より後悔しているに違いない。とんでもない客を乗せてしまった、と。
私は小さく息をついて、真っ暗な窓の外を眺めた。木ばかりが聳え立つ細い道を、タクシーは慎重に進んでいく。ガラスに映った自分の顔を見て、少し眉尻を下げた。セミロングの黒髪は風に煽られてボサボサだし、化粧を施していない顔は、している時と比べて幼く見えた。
そういえば最近痩せたかもしれない、と頬を触る。隣にとんでもない男前がいるというのに、自分は地味な格好をしていることが、どんどん気になってきた。いや、身嗜みも体型も今はどうでもいいのだ。
「黒島光さん」
「ひゃっ!」
突如呼ばれて声が漏れた。それは静まり返った車内に急に声が響いたのもあるが、なんといっても、
「わ、私、名前言いましたっけ?」
教えてもない自分のフルネームを呼ばれたことに対する驚きだった。だが男は飄々とした顔でこちらを覗き込んでいる。ああ、やっぱり綺麗な顔なのにどこか掴みどころのない不思議な人だ。
「ああ、すみません。ちょっとしたツテで知りまして」
「ツテ……?」
「まあそれはいずれ分かると思います。それより、今からご案内するところは私の事務所です」
「じ、事務所って!」
やっぱり怖いところに連れていかれ、売られたりするのだろうか。怯えて飛び上がった私に、彼は首を横に振って言う。
「勘違いしないでください、私が経営している小さな事務所です。怪しいことは何もしていません」
「そ、そうですか」
ほっと胸を撫で下ろす。怪しいところに連れていかれるのかと思ったけど、違うらしい。
「えっと、どんなお仕事を……?」
「それもすぐに分かります、あなたに向いているところですよ。ところで黒島さんは、今住む場所がないですね?」
「……あの、だから、どこでそれを」
「身の回りを綺麗にしてから死にに行くなんて律儀ですね。狭い事務所ですが、しばらく寝泊まりに使ってもらっていいですよ、仮眠のためのベッドがありますから。少し働いてみて続けるか決めてください」
「……あの、どうしてそこまでしてくれるんですか?」
「あなたが優秀な能力をお持ちだと知ったので」
「だからどこで?」
「いずれ分かります」
全く要領を得ない会話はそこで途切れた。気づかない間にタクシーは明るい道に出ており、一つのビルの前に停車したからだ。ほっとしたような顔の運転手に、男はお金を差し出した。財布ではなく、ポケットからそのまま出したお金だ。
私は横目でそれを見てから窓の外を見回してみると、思ったよりずっと普通の場所だった。小さめだが小綺麗なよくあるビルだ。道路はそこそこ車通りのありそうな広さで、周りにも似たようなビルが建ち並ぶ。時間が時間だけに街灯のみでひっそりとした道だが、昼間なら結構明るいかもしれない。彼が言っていたように、怪しい場所ではなさそうだ。
隣の男はのそのそとゆっくりタクシーを降りようとして、最後の最後でタクシーの天井に頭を強く打っていた。なかなかの大きな音が車内に響き、運転手さんも思わず振り返る。普通、急いでもいないのに、そんなところにぶつけるだろうか? 唖然とした私には目もくれず、不機嫌そうにその人はポリポリと頭を掻いた。
「……痛いです」
「……痛そうですね」
「黒島さん、降りないんですか」
そう言われ、頭は打たないように気をつけながら慌てて続いた。タクシーの運転手は最後にようやく笑顔を見せて、ドアを閉めて発車させる。なんとなくそれをぼんやり見送っていると、男はそんな私を気にもかけず、一人ビルに入っていくので必死に追った。
そのまま階段を上っていく彼に素直についていくと、なんと五階分も上らされた。なぜエレベーターを使わないのだろう、確か階段のすぐ隣にあったはずなのだが。
乱れてきた呼吸をなんとか整えながらついていくと、ようやく階段から解放され、一つの扉の前に辿り着いた。看板もプレートも何もない。
「……あの、ここの名前って」
聞こうとしたが男はそそくさと中へ入っていってしまう。私はまた慌てて追いかける他ない。彼はかなりマイペースな人らしい。
中はさほど広くはないが、掃除は行き届いている。真ん中には来客用と見られる黒い革のソファにガラスのテーブル。そこには指紋一つついていない。少し離れた窓際にはデスクと椅子がある。デスクには何やら山積みの紙類と、同じ種類のお菓子がいくつも置いてあり、ここだけ乱雑さを感じた。
私は辺りをチラチラ見ながら、勝手に座るのも気が引けて立ち尽くす。
男はゆっくりとした歩調でソファまで歩み寄ると、ドサリとそこに腰掛けた。ようやく「どうぞ」の一言が出るのかと足を踏み出した瞬間。
「……ふぁ」
彼は大きな欠伸を一つかますと、そのままソファにゴロリと横になった。身長が結構高いため、足がソファからはみ出ている。靴すら脱いでいないので、履いている黒い革靴の裏が見えた。あ、ガム踏んでる……ってそうじゃない、このまま眠られたら、私はどうすればいいのだ。
「あの!」
勇気を出して声を掛けると、彼はもうすでに閉じていた目を半分ほど開けた。
「わ、私はどうすれば!」
未だに何も聞いていないのだ。彼の名前も、ここが何なのかも、なぜ私に声を掛けたのかも、何一つ。それなのに人を放って寝始めるとは、一体どれだけマイペースなのだ。
彼はああ、と小さく声を漏らした。そして面倒くさそうに起き上がる。
「そうでした、あなたはこちらへ」
彼は立ち上がり、部屋の隅にある白いカーテンへ向かいそれを開ける。私も続いて覗いてみると、中にはキッチンが見えた。キッチンと言ってもコンロが一つだけの小さなもの。あとは食料が並べられた棚に冷蔵庫、更に奥には簡素なベッドが見えた。シーツに薄い毛布があるだけのものだ。
「あなたはここで寝てください。では」
「……え!? ここですか?」
驚いて彼を振り返るも、すでにまたあの黒いソファに戻っていく途中だった。私は慌てて話しかける。
「いや、あの、寝るって! でも――」
「こんな時間なので眠いです。おやすみなさい」
私は戸惑った。カーテン一枚で仕切られただけの部屋に、さっき会ったばかりの男と寝ろとは、さすがにどうなのだ。しかも名前も年も知らない、能面のような顔をした男と。そう抗議しようとしたが、彼がこちらを見てきて目が合った瞬間、言葉が出なくなった。
ガラスみたいな黒い瞳が綺麗だ。吸い込まれそうなほどに。白い肌は、電気のついた明るい部屋ではなお白く見える。髪は風に吹かれたせいか、酷くボサボサなのが残念でならない。
「何か問題でも?」
薄い唇がそう告げた。意識しているのは私だけだと思い知らされる言い方だ。私は何も言い返せなくなる。
「……いえ、明日、色々聞かせて頂けますか」
「ええ、もちろん。おやすみなさい」
それだけ言うと、彼はまたソファにゴロリと寝そべり、ものの数十秒で寝息を立て始めた。どう見ても狭くて寝辛そうなソファだけど、それは私がベッドを奪ってしまったからなのか。
私は彼の寝顔を見ながら、やはり間違えたかもしれないと思った。同じように『見えざるもの』が視えるのだと感激して、素性も分からないのに、ついついてきてしまった。
……でももう、しょうがない。
私は無言で白いカーテンをそっと閉めた。どうせ死ぬつもりだったのだから、どうにでもなれ、だ。そう開き直ると、少し硬めのベッドに体を横たわらせる。そしてそのまま眠りに落ちてしまったのだった。
*
私の顔は今きっと真顔だと思う。腕を組んで見下ろす先には、人形のように整った、けれども顔色が悪い男が横になっていた。寝息は聞こえる。だが、昨晩最後に見た格好と同じ姿のまま今日を迎えている。
「……大丈夫かな」
時計を見上げると、時刻はすでに昼の十二時。昨夜は確か、午前二時に寝付いたから遅かったけれど、それでももう十時間は寝ている。朝方目覚めた私は、男が起きるまで待っていようと気楽に考え、一人近くにあったコンビニまで出向き、歯ブラシなどを購入し身支度を簡単に整えた。
そして退屈と闘っていると、気がつけば昼。さすがに起こそう、と思い立つ。ソファで足をはみ出したまま寝る彼は、毛布一枚も掛けることなく熟睡していた。その肩にトントンと手を置き、もうお昼ですよ、と声を掛ける。
ところが、である。この男、眉一つ動かさない。もう少し力を強くして肩を叩いてみたが、結果は同じだった。少し苛立っていた自分は更に強く、更に強くと力を加え、最終的には彼の肩を大きく揺さぶったものの、やはり起きない。次第に苛立ちを通り越して恐怖が訪れた。
もしや何かの病気だろうか、例えば脳に障害が起こったなど。そう考えると焦ってしまう。強く揺さぶるのもよくないと考え、瞼を無理に開けてみたり、冷水で冷やした手でおでこに触れたりしたけれど、ノーリアクション。もしや私、死人と一晩過ごしたのだろうか。一番のホラーである。
いやいや、早まるな自分。死人ではない、息はしている。でも起きない。これはいい加減救急車を呼ぶべきだろうか。怖くなってしまった私は、オロオロとその場に立ち尽くした。救急車を呼ぶにしても自分はスマートフォンを持っていない。この人のがあるだろうか。勝手に探してもいいだろうか。いや、他のテナントに駆け込んで電話を借りるのはどうだ。そうだそれが一番だ、そうしよう!
決意して、事務所から出ようと扉に手を掛けた瞬間だった。触れていないその扉が突然ガチャリと開かれた。
「うわっ!」
叫んだのは私ではなかった。目の前にいた若い男の人が、目を丸くして飛び上がった。そして私に尋ねる。
「びっくりした! ど、どちら様!?」
男の人は二十歳前後だろうか。あどけない顔立ちは学生のようにも見える。茶色のモッズコートを着て、手にはコンビニの袋をぶら下げていた。黒髪に丸顔。あの能面な男と違って、表情豊かな人だった。
「あ、すみません……。私、黒島光といいます。えっと、こちらの方ですか?」
「は、はい。そうですけど」
「あの、男性の方が全然起きなくて……揺さぶっても何しても! 何かの病気かもしれません。救急車を呼んで頂けますか!?」
焦って言う私の顔を見て、彼はきょとんとした。そして部屋の中を覗き込む。ソファに寝そべる男を見て、ああ~と納得したように頷いた。
「えーと、ちょっと待ってくださいね~」
慌てる様子もなく、ニコニコしながら私にそう告げると、男の人は中へ入り持っていた袋をガラスのテーブルに置いた。そしてそれをゴソゴソと漁り、中からお菓子を取り出す。私は首を傾げてその光景を見つめる。
あのお菓子は、窓際に置かれたデスクの上に積み重なっている物と同じだ。細長い棒状のビスケットに、チョコレートがコーティングしてある、知らない人はいないメジャーなもの。パッキーという名で、味のバリエーションも苺だの抹茶だのと豊富な甘いお菓子である。
彼はその封を開けて一本取り出すと、なんとそれを寝ている彼の口にずいっと突っ込んだ。そして耳に口を近づけると、部屋が揺れるんじゃないかと思うほどのボリュームで叫ぶ。
「九条さーーん!! 朝でーーす!!」
私は唖然とその光景を見ていた。あんな起こされ方をしたら、私ならブチ切れる。でも、九条と呼ばれた男はその声に反応して、ただゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした目の光が、寝ぼけていることを物語っている。そして彼は突っ込まれたパッキーを、もぐもぐと少しずつ齧った。
大声を出した男の人はふうと息をついて、困ったようにこちらを見た。犬のように人懐こい笑顔だ。
「こうしなきゃ起きないんですよ」
「は、はあ……」
「ほら、九条さん、相談者さん来てますからどいてください。もう昼ですよー?」
九条さんは素直に立ち上がった。頭を掻きながらデスクの方に移動し、気怠そうに椅子に座ると、くるりと回転させる。
「さ、お待たせしました。どうぞこちらへ!」
男の人にニコニコとソファを勧められ戸惑う。
「あ、いや私は……」
「すみませんね~九条さんほんと寝起き悪くて。一日中寝てることもあるくらいなんですよ。どうぞどうぞ!」
どうやら私は来客と勘違いされているらしかった。さてどう説明しようか困っていると、寝起きの声で九条さんがようやく言った。
「伊藤さん。その人は客ではないです」
「へ? 客じゃないって」
「今日からここで働く黒島光さんです。よろしく」
九条さんはデスクの上に置いてあった菓子を取り出してまた食べている。だらしなく椅子にもたれて、どこかぼんやりと天井を見上げていた。伊藤さんと呼ばれた男の人は、驚いて九条さんに詰め寄った。
「ええっ、僕聞いてませんけど!」
「ええ、今言いましたから」
「なんで急にそんなことに!? 昨日の今日で、こんな女の子を!」
「昨晩ある縁がありまして」
すっかりここで働くことになっている。だが、私はまだ決めたわけではない。そもそも、どんな仕事なのかさえ知らないではないか。私は静かな声で彼らに言った。
「ここがなんの事務所かも聞いてませんし、あなたの名前すら今知りました。お話を聞かせてもらう、という約束でしたので、まだ働くかは分かりません」
私が訂正すると、しんと静まり返った部屋に、パッキーを齧る音だけが響く。伊藤さんは困ったように立ち尽くしていた。少しして、九条さんは表情を変えずに言う。
「確かにそうでしたね。失礼しました」
九条さんは半分ほどになったパッキーを一気に頬張ると、私の方に向き直った。
「九条尚久といいます。単刀直入に言いますと、この事務所は心霊調査事務所です」
「……心霊調査?」
「大体は想像がついていたでしょう?」
彼は無表情で言い放った。私は押し黙る。確かに、私のこの能力を活かせる仕事、と言われればそんな感じかなと頭をよぎった。だが、心霊調査なんて怪しすぎるし、一体何を調査するというのだろう。
「調査、って言いますと、具体的にどんな……」
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