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待ち合わせ
『まこと』
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ゆっくりした速度だ。何かが落ちたような音の次に、引きずるような音。それが繰り返し聞こえる。
おかしい。何かが変だ、この不愉快な音は一体何?
ガクガクと手が震えてくる。そこではっと、自分が持っている鞄の存在を思い出した。慌ててそこからスマホを取り出し、九条さんを呼び出す。
寝ていたけど、調査中の九条さんはいつもすんなり起きてくれるから。きっと気がついてくれるはず!
祈りながらコール音を聞いていると、すぐに相手が出た。安堵感に満ち、頬を緩ませた。
「九条さん! 今私エレベーターに閉じ込められたんです! すぐきてください、なんか様子が変で」
『はあい』
耳に届いたのは、そんな女性の声。
そしてまた聞こえてくるあの不快な音。
とん、ずるる とん、ずるるる
私は叫んで電話を放り投げた。壁に当たったスマホはそのまま地面に落下していく。立っていられなくなった自分は壁にもたれたままヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。
耳を塞ぐようにしてうずくまる。何なんだろうあの不快な音。
聞こえないようにしているのに、音は私の脳まで入ってくる。気がおかしくなりそうだった。そしてそれが、スピーカー越しだけの音ではなくなっていることに気がついた。
扉の向こうからも同じような音が聞こえる。微かだけれどわかる、私には届いている。一体何の音なの、何を引きずっているの。
そこまで思ってハッとした。昨日の女性の霊を思い出す。
外傷がひどくて、足も片方は変な方向を向いていた……
「……引きずりながら歩いている音だ」
そう気がついた瞬間、エレベーターのドアがどんどん、と叩かれた。全身が跳ね、息すらできないほどに苦しい。
いる。
ここに、
いる。
「来ないで! こっち来ないで!」
そう叫ぶと同時に、これまで一ミリも動かなかった扉が少しずつ開いていくのが見えた。息をすることすら忘れ、私はただ隙間の向こうに立つ人を見つめた。
眩しいほどの白い背景の中に立っているのは、やはりあの人だった。半袖のブラウスに黒いスカート。関節が折れ曲がった手足。昨晩見たそのままの姿の女性が何も言わずに立っている。
だが一つ、昨日と違う点があった。昨日は俯いて見えなかった彼女の顔がこちらを向いていたのだ。その悲惨な顔を見て私は叫ぶことすらできない。
女の右目辺りの顔は完全に陥没していた。真っ赤な血液がべっとりとついている。まだ出血をしているように、そこから血液がたらりと垂れて床を汚した。目を閉じたくなるようなグロテスクさに言葉を失う。
彼女は私をみている。左目だけでじっとこちらを見ている。
「ここ、来ないで、ください……」
蚊の鳴くような声をやっと絞り出す。完全に力が入らず立ち上がることすらできない。しかし、女は私の言うことを聞いてくれたのか近寄ってこなかった。エレベーターに足を踏み入れることはせず、ただその場に立ち尽くしている。
ぎょろりと、左目が動く。この空間の中をしっかり確認するように、目玉が何度も左右動いた。繰り返し繰り返し動くその姿を見て、この人の眼中に自分がいないということに気づく。
……もしかして誰かを探している?
そう、その人は必死に何かを探していた。私ではない何かを。ビジュアルの恐ろしさに恐怖心が大きかったが、一度自分を冷静に落ち着ける。だてに一年もこの仕事をやってきたわけじゃない、少しは余裕というものができている。
彼女からは攻撃的な思いは感じられない。むしろ焦燥感と悲しみだ。
その予想が当たっていたというように、次の瞬間その人の左目から大粒の涙が溢れた。真っ赤に充血した目から、とめどなく水がこぼれてくる。そしてゆっくりその体を後退させた。
「あ、待って! 何を探してるの!?」
慌てて声をかけてみるも、霊との会話は九条さんの特技だ。案の定彼女は何も反応なくゆっくり方向を変えていく。せっかくこんなに近づけたのに、何も得るものがないなんて。
焦った時、ふと昨晩のことを思い出した。九条さんが言っていたことだ。
「『まこと』?」
揺れがあった時、そう叫ぶ女性の声が聞こえたと言っていた。もし、あの声とこの人が同一人物ならば、この名前に聞き覚えがあるはず。
ビンゴだった。女性は分かりやすくびくんと肩を跳ねさせた。そして再び私の方をゆっくり向いたのだ。左目がまんまるに開かれ、こちらを見ている。
この人なんだ。あの叫び声の主、この人だったんだ。
私はそう確信し、もう一度声をかけようとした時だった。
突然女の人が口を大きく開け、その穴から甲高い叫び声を発した。だらりと垂れた真っ赤な舌が揺れる。あまりの音量と耳につん裂くような高い声に目を反射的に閉じた。もはや何かのサイレンのような声だった。
その声はやはり、昨晩聞いたあの声と同じだったのだ。
(興奮させたかも……! まことが大事なキーワードであることは間違いない)
そう確信し、頭痛のようにガンガン鳴る頭をなんとか回転させ、再び女性に話しかけた。
「それは……!」
正面を向いた時、目の前にあったのは無機質なシルバーの扉だった。今の今まで耳を突き刺していた悲鳴はいつのまにか消え去り、代わりにエレベーターの動く感覚が伝わってくる。
あ、あれ? 消えた?
おかしい。何かが変だ、この不愉快な音は一体何?
ガクガクと手が震えてくる。そこではっと、自分が持っている鞄の存在を思い出した。慌ててそこからスマホを取り出し、九条さんを呼び出す。
寝ていたけど、調査中の九条さんはいつもすんなり起きてくれるから。きっと気がついてくれるはず!
祈りながらコール音を聞いていると、すぐに相手が出た。安堵感に満ち、頬を緩ませた。
「九条さん! 今私エレベーターに閉じ込められたんです! すぐきてください、なんか様子が変で」
『はあい』
耳に届いたのは、そんな女性の声。
そしてまた聞こえてくるあの不快な音。
とん、ずるる とん、ずるるる
私は叫んで電話を放り投げた。壁に当たったスマホはそのまま地面に落下していく。立っていられなくなった自分は壁にもたれたままヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。
耳を塞ぐようにしてうずくまる。何なんだろうあの不快な音。
聞こえないようにしているのに、音は私の脳まで入ってくる。気がおかしくなりそうだった。そしてそれが、スピーカー越しだけの音ではなくなっていることに気がついた。
扉の向こうからも同じような音が聞こえる。微かだけれどわかる、私には届いている。一体何の音なの、何を引きずっているの。
そこまで思ってハッとした。昨日の女性の霊を思い出す。
外傷がひどくて、足も片方は変な方向を向いていた……
「……引きずりながら歩いている音だ」
そう気がついた瞬間、エレベーターのドアがどんどん、と叩かれた。全身が跳ね、息すらできないほどに苦しい。
いる。
ここに、
いる。
「来ないで! こっち来ないで!」
そう叫ぶと同時に、これまで一ミリも動かなかった扉が少しずつ開いていくのが見えた。息をすることすら忘れ、私はただ隙間の向こうに立つ人を見つめた。
眩しいほどの白い背景の中に立っているのは、やはりあの人だった。半袖のブラウスに黒いスカート。関節が折れ曲がった手足。昨晩見たそのままの姿の女性が何も言わずに立っている。
だが一つ、昨日と違う点があった。昨日は俯いて見えなかった彼女の顔がこちらを向いていたのだ。その悲惨な顔を見て私は叫ぶことすらできない。
女の右目辺りの顔は完全に陥没していた。真っ赤な血液がべっとりとついている。まだ出血をしているように、そこから血液がたらりと垂れて床を汚した。目を閉じたくなるようなグロテスクさに言葉を失う。
彼女は私をみている。左目だけでじっとこちらを見ている。
「ここ、来ないで、ください……」
蚊の鳴くような声をやっと絞り出す。完全に力が入らず立ち上がることすらできない。しかし、女は私の言うことを聞いてくれたのか近寄ってこなかった。エレベーターに足を踏み入れることはせず、ただその場に立ち尽くしている。
ぎょろりと、左目が動く。この空間の中をしっかり確認するように、目玉が何度も左右動いた。繰り返し繰り返し動くその姿を見て、この人の眼中に自分がいないということに気づく。
……もしかして誰かを探している?
そう、その人は必死に何かを探していた。私ではない何かを。ビジュアルの恐ろしさに恐怖心が大きかったが、一度自分を冷静に落ち着ける。だてに一年もこの仕事をやってきたわけじゃない、少しは余裕というものができている。
彼女からは攻撃的な思いは感じられない。むしろ焦燥感と悲しみだ。
その予想が当たっていたというように、次の瞬間その人の左目から大粒の涙が溢れた。真っ赤に充血した目から、とめどなく水がこぼれてくる。そしてゆっくりその体を後退させた。
「あ、待って! 何を探してるの!?」
慌てて声をかけてみるも、霊との会話は九条さんの特技だ。案の定彼女は何も反応なくゆっくり方向を変えていく。せっかくこんなに近づけたのに、何も得るものがないなんて。
焦った時、ふと昨晩のことを思い出した。九条さんが言っていたことだ。
「『まこと』?」
揺れがあった時、そう叫ぶ女性の声が聞こえたと言っていた。もし、あの声とこの人が同一人物ならば、この名前に聞き覚えがあるはず。
ビンゴだった。女性は分かりやすくびくんと肩を跳ねさせた。そして再び私の方をゆっくり向いたのだ。左目がまんまるに開かれ、こちらを見ている。
この人なんだ。あの叫び声の主、この人だったんだ。
私はそう確信し、もう一度声をかけようとした時だった。
突然女の人が口を大きく開け、その穴から甲高い叫び声を発した。だらりと垂れた真っ赤な舌が揺れる。あまりの音量と耳につん裂くような高い声に目を反射的に閉じた。もはや何かのサイレンのような声だった。
その声はやはり、昨晩聞いたあの声と同じだったのだ。
(興奮させたかも……! まことが大事なキーワードであることは間違いない)
そう確信し、頭痛のようにガンガン鳴る頭をなんとか回転させ、再び女性に話しかけた。
「それは……!」
正面を向いた時、目の前にあったのは無機質なシルバーの扉だった。今の今まで耳を突き刺していた悲鳴はいつのまにか消え去り、代わりにエレベーターの動く感覚が伝わってくる。
あ、あれ? 消えた?
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