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聞こえない声

足音の正体

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 少し会話でリラックスできた私は、菊池さんに借りた座布団を敷き直して姿勢を整える。ブランケットを膝にしっかりかけると、壁に身を任せ力を抜いて目を閉じた。調査は体力勝負なんだから。少しでも休める時に休んでおかなきゃ……

 そう思っていた時だった。

 無音になっていた廊下に、遠くから何か音が近づいてくるのが聞こえて、私ははっと目を開いた。

 体を強張らせて停止し、耳を澄ませる。全神経を集中させて音に注目した。
 
 ゆっくりと九条さんを振り返ってみると、彼にも勿論聞こえているらしく、先ほどとはまるで違う厳しい表情に打って変わっていた。

 音は足音だ。それも、外から聞こえてくる。

 普通に考えれば、違う部屋の住民が帰宅してくる足音だと思うだろう。この部屋の前を通り過ぎて、どこかの部屋へ入っていくのだと。

 だが残念ながら、この音はそんな類のものではないと直感的にわかっていた。

 素足が歩く音なのだ。ペタペタと床を踏みつける音が小さく聞こえてくる。

 素足で外を歩いているのもおかしいし、そんな小さな音が家の中まで聞こえてくるのもおかしい。玄関の扉や壁を通り抜けて、ペタペタという音がしっかりここに伝わってくるのだ。

 来た。

 息を潜めて玄関のドアを見つめた。あそこから何かが入ってくる。ほんのわずかだが、足音は徐々に大きくなってこちらへ近づいてきていた。一直線にこの部屋を目指してきている。私と九条さんにはそれがわかった。

 再び九条さんを見てみると、彼は何も言わず小さく頷いて見せた。何もせずとりあえず観察しましょう、彼がそう言っているのがわかる。

 やや緊張で鳴り出した心を落ち着かせる。一体何がくるんだろう、なぜ菊池さんのところへくるんだろう……。

 そう息を飲んでいた時だ。

(…………ん?)

 私は小さく首を傾げた。

 もうきっとすぐ近くまで来ている足音の他に、もう一つ音が混じってきたのだ。新たなもので、それは素足で歩く音とはまるで違った音だった。

 例えるならこう、トトトトっと、体の小さな何かが走ってくるような……。歩幅も小さく、足の回転も素足に比べればずっと早い。

「増えましたね」

 九条さんが小さな小さな声でつぶやいた。私は頷く。そうだ、菊池さんも言っていた。足音は一つではないんだと。

 二つの音が混ざりこちらへ向かってくる。ゆっくりとした歩調とリズムカルな歩調。正反対とも言える音同士。

 そして二つの音が混じった足音がついに、ぴたりとこの扉の前で止まった。

 沈黙が流れる。

 決して音を立ててはいけない、そんな緊張が張り詰めた空間と化していた。膝にかかっているブランケットすら動かしたくない。極限まで上がってきた緊張で苦しさを覚えた。

 瞬きすらせずにじっと玄関のドアを見つめ続けていた私の視界に、突如何かが飛び込んできた。



「!!」



 ジャンプするかのように扉から現れた白い物体。ふわりと身軽な動きで私たちの目の前に現れたそれの黒い瞳に、私の顔がしっかり映っていた。

「ぽ」



 ポメラニアンだと??




 私は唖然として目の前のふわふわな犬を見つめた。紛れもなくポメラニアン。白い毛は体がまん丸になるほど長く柔らかそう。ぱっと見生きていると勘違いしてしまいそうな犬は、私たちを興味深そうに交互に見た。

「……光さん? なんですか、それは」

 九条さんが怪訝そうな顔で尋ねてきた。九条さんは視える体質といっても、霊自体はほとんどシルエットで見えるらしい。その代わり霊と会話できるのが九条さんの特技なのだ。

 私はやや興奮しながら説明した。

「ぽ、ポメラニアンですよ九条さん」

「ポメラニアン? 犬ですか」

「そうです、犬です! かかか、可愛い!」

 素直な感想が漏れてしまった。つぶらな瞳でじっとこちらを見つめる犬は愛らしく、あまりに邪気がない。

 九条さんは不思議そうに犬を眺めた。

「つまり、小さな方の足音は犬だったと」

「そうみたいです。お、おいで?」

 私はつい、手のひらを犬に向かって差し出してみた。呼んでどうするんだと言われれば困るが、目の前にこんな可愛い子がいて黙っていられない。

 犬は少し首を傾げた。それがまた可愛らしすぎる。そして細く小さな足で少しだけ前進すると、差し出している私の手をクンクンと匂いを嗅いだ。

 その動きはやはり生きている犬と何ら変わりはない。

 九条さんも何も言わずじっとポメラニアンを見つめている。

「可愛いです、九条さん」

「私には黒い塊のようにしか見えませんが。
 で。肝心のもう一つの足音の主は何なんです?」

 その言葉を聞いてハッとする。正直、ポメラニアンに癒されてちょっと忘れてた。

 二人で今一度玄関のドアを見つめた。犬も同時に顔をあげて同じ方向を見つめる。

 しばらくドアからは何も聞こえなかった。それでも、何者かの気配をしっかり感じる。ドアの前でじっと立ち尽くしてこちらを見ているのだ。

 ごくり、と唾液を嚥下する音が耳に届く。

 するととうとう、ドアからゆっくりゆっくりと何かが出現してきた。

 まず見えたのは風もないのに大きく靡くスカートの裾だった。色は紺色。フレアな柔らかい裾が揺れているのが目に入る。

 そして次に白く細い足。やはり靴など履いておらず素足だった。そこから徐々に現れる胴体、すっと伸びた腕。格好はワンピースであることがようやくわかった。

 現れた女性はそのまま廊下に足を踏み出し……

「あ!」

 つい自分の口から小さく声が漏れてしまった。反射的に手で口元を抑える。隣の九条さんは厳しい視線で相手を見つめていた。

 着ているワンピースは首元がどす黒くなっている。それは血液が紺色に染み付いた色だと瞬時に理解することができた。女性は無言で私たちの前に立った。



 彼女は、首から上が一切なかったのである。




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