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オフィスに潜む狂気

何をしても罵声ばかり

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 突然割れるような頭痛が自分を襲った。

 ぐらりと体が揺れて倒れそうになるのをなんとか足を踏ん張って見せる。いつのまにか呼吸がひどく乱れていて、酸素を求めるように必死に息を吸った。

(くるし……しかも、体が重い……)

 体が鉛のよう、とはこういう時に表現するんだと思った。まるで自分のものじゃないように感じる。水の中で必死に動いているようだ。

 それでも行かなきゃ。早く行かなきゃ。

 そう自分を奮い立たせて懸命に体を動かした。




「はあ? 体調不良で遅れた? 仕事できないんだから朝早く来るくらいできないの? そうやって自分に甘いからいつまで経っても成長できないのよ!」

 項垂れた頭に罵声を浴びせられた。じっと自分の履いているヒールのつま先を見つめる。以前はしっかり磨いていた革の靴は、今は先っぽが禿げていた。

「本当役立たずだわ。なんでうちにいるの? あんた採用した人事部の顔見たいわ。あと親の顔も」

 そう吐き捨てられた言葉を聞いて、自分の体がピクンと反応した。ゆっくりと顔をあげる。

 最後の一言だけ。それが私の冷え切っていた心に響いた。目の前でふんぞりかえってデスクに座っている女を見つめる。

「何よ? その目?」

「……いいえ。すみませんでした」

 再び頭を下げた。言い返したいのに返せない自分が辛い。そのまま何十分もみんなの前で怒鳴り散らされ、ようやく解放されたと思い自分のデスクに足を動かすと、やっぱりそれは鉛のように重かった。

 息苦しくなった呼吸を懸命に落ち着かせながらデスクに戻る。やっと椅子に座ることが許され、静かにため息をついた。デスクの上には命じられた雑用が山積みになっている。

 その時背後から声が聞こえた。花田さんが心配そうにこちらを見ている。

「大丈夫? 気にしないで。半分手伝うよ」

 ありがたい温かな言葉も、今は心まで届かず耳からスルリとこぼれ落ちた。私は頭を下げて言う。

「いえ、大丈夫です。ありがとうござます……」

 自分の仕事ぐらい自分でしなくては。

 誰かに手伝ってもらったりすれば、また何を言われるか分からない。





「最近痩せたんじゃないか?」

 家に帰ると、そう心配そうな声が聞こえた。

 私が顔を上げると見慣れた顔がそこにある。随分皺の増えた肌に少し笑いながら、私は答えた。

「ううん、そうかな」

「食欲もないみたいだし」

「仕事忙しくって」

 確かに、ここ最近何を食べても美味しいと思えなくなった。昼食は食堂には行かず片手でゼリー飲料を飲んだ。テレビも見ても面白くないし、友達とも会わなくなった。私が疲れていることは私が十分知っている。

 箸が進まないおかずを前に、お父さんは言った。

「いいか。そんなに辛いならやめればいい」

「……でも、大きな会社だよ。勿体無いし」

「そんなんどうだっていい。いいか、体を壊しちゃ全てがダメになる。辞めてもっとゆっくりできるところに転職すればいいんだ」

「簡単に転職なんかできないよ」

「時間かければいい。いいか、無理しちゃだめだ」

 真剣なその眼差しに、いっぱいだった頭の中にほんのわずかに隙間ができた気がした。ずっと冷たく固いままだった心がほんのり温まった気がした。

 そう、なのかな。向いてないみたいだし、辞めちゃってもいいのかな。

 心の中の疑問を読み取ったようにお父さんが笑う。

「人には向き不向きだってあるんだ。もっと自分に合ってるところは必ずある!」

 言い切ったその語尾がなんだか心強くて、私は久しぶりに笑ってご飯を完食した。私が好きな煮物だった。

 この仕事は好きだった。でも、最近向いていないのかもしれないと思うようになった。

 何をしても認められず罵声ばかり浴びせられた。周りの人たちもフォローしてくれるけど、そうなれば更に罵声の声が大きくなるだけなので次第にただ時間が過ぎ去るのを待つようになった。

 夜はあまり眠れず朝が怖い。体が重く頭痛もする。

 私はトロいのだと何度も言われた。きっとそうなんだと思う、他の人よりずっと仕事がこなせない、追いつけない。

 そんな私にも向いている場所があるのなら……

 もう一度、探してみたいと思う。

 多分「逃げるのか」とさらに怒鳴られるんだろう。でも、お父さんの心配そうな顔を見続けるより、怒られた方が何倍も楽だと思った。





 
 手に持つスマホを眺める。時刻を確認すると、あと五分ちょっとで電車は来る予定だった。

 ホームから青空が見える。それを見上げながら、最近感じることがなくなった頭痛とだるさは完全におさらばできたことを心の中で喜んだ。

 あまり人気のないホーム。平日の昼間となれば、こんなものか。朝と夜は結構混むのに。無職の自分は通勤ラッシュには無縁になった。

 あれから震える手で書いた汚い辞表を上司に渡した。職場の花田さんには、「本当に辞めたいなら、もっと上の人にも退職の意を示しておかないと辞めさせてもらえないかもしれない」と助言されたのでその通りにした。

 その助言は大変助かった。言葉通り、部長だけの提出だとスムーズに辞めさせてもらえそうになかったのだ。体調をずっと崩しているのもあり、私はすんなり退職することに成功した。

 同僚たちは寂しがってくれたし謝ってくれた。でも、私は思った以上に気分がスッキリしたことに自分自身驚いている。

 体が軽い。食欲が少し上がってきた。夜も仕事がないのだと思うと寝付きが早くなってきた。

 無理していたんだなあと今更実感する。一人苦笑しながらスマホをポケットにしまった。ぼんやりとそのままホームに立ち尽くしていた。

 少ししたら背伸びしなくてもいい職場をゆっくり探そう。お父さんも安心してた。会えなかった友達にも久々に連絡をとってみようか。今までいた場所は自分には合ってなかったんだ。

 これからは新しい道をちゃんと歩いていかなきゃ。

 そう胸に決意を抱いた時、ポケットが震えていることに気がついた。
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