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オフィスに潜む狂気
なんとかしてあげたい
しおりを挟むすぐに気づくべきだった。敵意や怒りを持っている霊はあのトイレの時や自販機の時。どちらも腕や目など体の一部で、全貌は見えていない。でもあの腕は白く細い腕だった。どう見ても中年男性の手ではなかったのだ。
拓郎さんが必死に訴えた「止めて」という発言は、娘さんの行動を止めて欲しかったのだろうと思う。これは私たちの仮説だが、重要な物が無くなって困るのは責任者の長谷川さん。でも彼女はそんなピンチを乗り越えてきてしまった。痺れを切らしたのか、蛍光管を落として直接的な攻撃に変わっていった。おそらく階段から落ちて怪我をしたのも、本人は違うと言っていたが霊による仕業だったんじゃないかと思う。
だが長谷川さんは階段から落ちても軽症だし、蛍光管も運良く避けられた。多分拓郎さんがなんとか救っているのだと思う。
「じゃ、じゃあ、斉木や楠瀬の怪我は?」
「ああ、それですが。簡単にいえば、たまたまです」
「はあ?」
「おそらく拓郎さんは単にさまざまな人に話を聞いてほしかっただけです。それに驚いてしまったお二人は偶然怪我を負ってしまった。たまたま踏み台に乗っていて落下したのと、驚きから机に衝突しそこにあったカッターで怪我をした。偶然が重なってしまったんです」
予想外、というように花田さんはぽかんと口を開けた。長谷川さんにだけ執拗に攻撃していることも考えると、あとの二人の怪我はどうものぞみさんの仕業と考えにくい。確かに普通に考えて、脚立に乗っている時に霊なんて見れば落下するのは当然だし、逃げる時にどこか物に当たってしまうのも理解できる。
「な、なるほど……?
いやでも、ちょっと待ってくださいよ。ええと整理させてください。部長のせいでのぞみさんが自殺し、それを追ってお父様も自殺した。のぞみさんが自殺した原因が部長だというなら恨まれるのは納得ですが、それならばお父様も部長を恨むはずでは? なぜのぞみさんを止めようとしてるのです?」
混乱したように花田さんは捲し立てた。九条さんは少しだけ目を細める。ポケットに手を入れ、ぼんやりとどこか遠くを眺めながら言った。
「お父様も恨んでいるでしょう。きっと想像できないほどに。
でも……娘に誰かを傷つけるようなこと、親ならしてほしくないのではないですか」
私たちは無言で俯いた。
日本には天国や地獄という考えがある。良いことをした者は天国へ、悪しき者は地獄へいくという言い伝えだ。
無論その世界を証明することは出来ないし、本当に存在するかなんて生きている人間たちにはわからない。でも、もしそれが本当なら。
死んでしまった娘に安らかな死後の世界に行くためにも、復讐などはやめておけと言いたくなるのかもしれない。
しんとした沈黙の中、伊藤さんが口をひらいた。
「のぞみさんが自殺であることは間違いないみたいです、目撃者もいますし、監視カメラ映像にも自分から電車に飛び込む様子が残ってる。その後、一人娘を亡くしたお父様は自分で腹部を刺して亡くなっています。
かなり苦しむ方法だと思いますが……あえてなのかもしれませんね。のぞみさんを助けられなかった自分を恨んで」
目頭が熱くなり、私はそれを隠すように顔を背けた。
以前入られた時、拓郎さんは幸せそうに料理をしていた。あれはきっと、のぞみさんに対する態度だった。父一人、娘一人の生活の中、彼はなんでもない日常を大切に過ごしてきたはずなのだ。
それを……なくしてしまった。
きっと私なんかには想像することができないくらい、彼は苦しんだに違いない。
「……霊の正体についてはよく分かりました。でもあの、一つ疑問があるんですが」
言いにくそうに花田さんが発言する。
「確かに、長谷川部長はのぞみさんに対してかなり厳しかったです。止められなかった僕たちにも責任がある。自殺するまで追い詰められていたんですよね。
ただ、あの。仕事を辞めた後なのに自殺する、っていうのは不思議といいますか。部長から解放された後なのにって」
花田さんの疑問は最もだった。実は、私たち三人もそれは不思議に思っていることでもある。
仕事を辞めれず自殺してしまうというのはよくあるパターンだ。辞めたいけど辞められない、そういう苦しみから逃れるために命を絶つというパターンは悲しいことによく聞いたりする。
でものぞみさんは退職している。もう長谷川さんと関わることなんてないだろうに、なぜ自殺などしてしまったのだろうか……。
九条さんが言った。
「我々も少々疑問ではありますが。でも人の心とは繊細ですから、辞めた後も絶望から抜け出せない人も多くいるとは思います」
「まあ、それはそうですね……。では、これからどうするんですか? のぞみさんの方を除霊?」
九条さんは苦々しい顔をした。
「私たちのやり方は浄霊、つまり霊の思い残したことを叶えるのが本来の方法なのですが。長谷川さんを攻撃したいという思いはさすがに叶えられませんし。何より問題なのは、のぞみさんはもう我を失うほど怒ってしまっていることです」
「我を失うほど……?」
「自分の父親が近くにいて止めていることに気づけないほどですよ。もはや周りは見えていないでしょう、彼女は長谷川さんを攻撃することしか考えていない。そうなると厄介です、強制的な除霊も視野に入れなくてはなりません」
私たちはやりきれない気持ちでいっぱいになった。
営業部で昨晩起こったトラブルはなんとか対処できたようだった。あれだけ多くの人たちが夜通し仕事をしていたので、とりあえずは一段落したことに安心した。
そうなれば今度はこっちの問題だ。長谷川さんを狙っている可能性が高いとわかった以上、ゆっくりなどしていられない。私たちは怪異の原因について話し合っていた。
会話の内容が内容だったので、花田さんに許可を取り今日は資料室で過ごしていた。資料室はあまり使う頻度が高くないので控え室には適していた。まあ、本来は部外者のみだけで入っていい場所ではないのだが。
三人で向かい合い、悲しい気持ちでいっぱいになりながら話した。
「一応、できることはしましょう。拓郎さんの方ではなく、のぞみさんの霊を見つけて説得を図る。これしかありません、できそうにないのなら強制的に除霊をどこかへお願いします」
九条さんが言い切った。そう、それぐらいしか方法が見つからなかった。
のぞみさんの心残りは恐らく長谷川さんへの復讐。叶えるわけにもいかない。説得を試みるくらいしか手段がないのだ。
だが私たちの心は不安でいっぱいだった。なぜならこの方法、恐らく高い確率で失敗するだろうとわかるからだ。
「まずのぞみさんを見つけるのも一苦労でしょうね……出てきてくれればいいんですけど」
私はため息をつきながら言った。今まで彼女が姿を現したのはトイレだったり自販機だったりで、しかも体の一部のみ。拓郎さんのように姿を確認できていない。
九条さんも珍しくやや自信なさげに言った。
「見つけたとしても、父親の声すら届かないのに私の声が聞こえるのか」
そう。それが一番の疑問だ。
近くに自分の父親がいるというのに、それすら気づかないほど彼女は長谷川さんしか見えていない。恐らくだがもうほとんど悪しきものへと変わっているのではないだろうか。もう長谷川さんを苦しめることしか頭にないのだ。
伊藤さんが悲しげに言う。
「でも、強制除霊っていうのも可哀想ですね……追い詰められて自殺したくらい苦しんでたっていうのに。そんなに追い詰めた長谷川さんにも非があるだろうに」
「本当それですよ! そりゃ、人を攻撃するのはよくないけど……でもあんまりっていうか」
私は震える声で言った。
あの時見た拓郎さんの幸せそうな笑顔。醤油の匂いのする狭いアパート。きっとそれにのぞみさんも笑顔を返していたのだと思う。幸せな二人だったはずなのに。
なんとできないのだろうか……。
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