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オフィスに潜む狂気

おかえり

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「おかえり!」

 にこやかに笑う顔が目の前にある。

 見えたのは広すぎないキッチン。銀色のシンクに、鍋が置かれたコンロ。火がついてグツグツと煮えている音が聞こえる。醤油のようないい匂いが鼻につく。

 まな板の前に包丁を持ったまま笑いかけてくる男性がいた。

 昨晩見た男性だった。

「…………な」

「お腹すいたろー? 今出来上がるからな。待ってろ」

 そう笑いかけてくる人は、穏やかな顔で昨晩の恐ろしさは何も感じない。それどころか幸せに溢れているような顔だった。

 周りを見ればどこか懐かしさを感じる広さの家だった。キッチンのすぐ前に小さなダイニングテーブル。奥にはテレビに少し年季の入ったソファ。それは私がお母さんと過ごしてきたと同じ匂いを感じた。明るい日差しが窓から差し込んでいる。

 ここは? 一体なんなの?

 混乱している私に、男は野菜を切りながら話しかけてくる。

「どうした。手洗ってこい」

 彼が幸せそうに話しかける相手は一体誰なのだろう。私を見越して、誰を見ているのだろう。

「……あなたは、誰ですか?」

 私は声を絞り出す。それでも包丁のリズムカルな音は止まない。

「教えてください。あなたはなぜあそこにいるんですか? 何を止めて欲しいんですか?」

 幸せそうなこの光景を壊したのはなんなのか。教えてくれなければわからない、私たちは浄霊の手伝いができない。

 私はめげずにさらに尋ねた。

「教えてください! あなたは誰に殺されたんですか!」

 私の叫び声を聞いて包丁の音がピタリ、と止んだ。

 すると男はゆっくりとこちらを振り返った。穏やかで優しい顔立ちだ。私はその表情をじっと見つめる。九条さんみたいに話す能力はないけど、今なら聞き出せるかもしれない。そう思った。

 もしこの人が誰かに殺されたとして、その犯人を探しているのなら。なんとかして私たちが見つけたい。第二の被害者が出ないうちになんとか……!

 そう思っていた時だった。

 男は突然、満面の笑みのまま持っていた包丁を自分の腹部に思い切り突き立てた。着ているポロシャツから真っ赤な血が流れ出す。私は息を止めた。

 深く刺さっている包丁から出る血は床にぽたぽた垂れてそこを汚していく。唖然としてその光景を眺めた。

「な、にを……」

 私がそう呟いた直後、男は包丁の柄の部分を両手でしっかり持つと、それをさらに思い切り自分の腹に押し込んだのだ。

「きゃああああ!」

 口を手で覆って悲鳴を漏らす。さらに出血は増して彼の足元に血の水溜りを作った。

 混乱してただその光景を見ていることしかできない。

「な、何を……やめ、救急車……!!」

 パニックになってそう狼狽える私を、男はじっと見ていた。彼の瞳に自分が映っている。少しして膝がゆっくり崩れ落ちる。私は慌ててそこに駆け寄った。

「待って……どうして!」

 それでも彼は何も答えなかった。もう虚な表情となってしまった彼は、ぼんやりと私を眺めながらゆっくり体を倒す。何も答えてくれることもなく、目を開いたまま意識が遠のいていくのが分かった。

「しっかりして!」

 私が叫んだ瞬間、彼の目からは涙が一つだけ落ちた。





「光さん!!」

 びくんと体が跳ねたのを自覚する。目を開けると、そこには私の顔を覗き込む九条さんと伊藤さんの顔が見えた。

 見慣れた天井、視界の端にいつもの冷蔵庫が見えた。

「……あ」

 私が反応したのを見て、二人がはあーっと息を吐いた。特に伊藤さんは真っ青な顔をしている。私は一人納得して呟いた。

「はいられ、ましたか……」

 九条さんが厳しい顔をして頷いた。ここ最近、私はあまり入られることがなかった。それは以前有名な霊能者である朝比奈麗香さんに、「マイナスなことを考えている時に入られやすい」と教わったからだ。なるべくネガティブなことを考えないようにしていた。その効果からか、めっきり入られなくなっていたのだが。

 よほど波長が合ってしまったのだろうか。

 私はようやく上半身を起こした。やはり、いつもの仮眠室だった。べったりと額に張り付いた髪を触る。全身汗びっしょりだった。

 今自分が見てきたもののショックから抜け出せない。目の前で起きた状況の凄まじさ。夢とは思えなかった、まだ鼻に血の匂いが残っている気がする。

 九条さんが苦い顔をして言った。

「まさか会社からここまでついてきてしまったようですね。私か光さんかわかりませんが」

「そうですね……事務所で入られたのは初めてです」

「よほど訴えかけたいことがあったのか」

「その割に、見た内容はよくわからないものでした……あの人が小さな家で料理をしてて、私をお帰りと迎えてくれるんです。その後すぐ、自分で包丁でお腹を刺して倒れました」

「自分で?」

 九条さんがギョッとしたように言う。後ろにいる伊藤さんは眉を顰めていた。私はため息をついて顔を手で覆う。

「あなたは誰なんですかって、何を止めて欲しいんですかって聞いたんですけど……上手くいきませんでした。結局あの人が何を訴えたいのかよくわからないままです」

 九条さんが黙って考え込んだ。その隣から伊藤さんがすっと近寄り、ペットボトルの水を差し出してくれる。私は素直に受け取ってそれを飲んだ。全身がカラカラに乾いたようになっていたので、その水がひどく染みてくる。

 しばらくして九条さんが口を開いた。

「伊藤さんが用意した一覧を光さんが確認しようとした時、ファイルが消えたんでしたね?」

 伊藤さんが答える。

「ええ、そうです。長谷川さんが来てから移動したり辞めたりした中年男性の一覧です。でもその中に死人とかいませんでしたけど……」

「素直に考えてファイルの消失は霊が絡んでると見た方がスムーズでしょう。それは見られたくなかったのか、あるいは見る必要がないと教えたかったのか。つまりはその一覧の中に彼はいない……」

「まあ、あの中に死人がいない時点で無関係かなとは思ってたんですけど。営業部だけに出現するという点では、営業部に関係ある人かなと考えたんですけどね」

 再び沈黙が流れた。確かにタイミング的に見てもファイルの消失は霊が絡んでいると思うけど……。そんなまどろっこしいやり方するならまた話してくれればいいのに。死者の思惑を汲み取るのは難しいものだ。
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