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真夜中に来る女
来る
しおりを挟む……しまった!
女ははっきりと、八重さんの方を見た。
次の瞬間、あれだけノロノロとした動きしかしなかった女はその足を驚く速さで動かした。嬉しそうな顔が一瞬でこちらへ迫ってくるのを認識する。
「いけない!!」
麗香さんの声が響く。何かを考える暇などなかった。私はただ反射的に、八重さんを背中に隠すように両腕を広げた。
髪を振り乱しながらこちらに駆けてくる女は非常に嬉しそうだった。くすんだ青色の唇がひび割れているのすら確認できるほどに距離が縮まる。途中、ボキンという鈍い音とともに女の体が傾いた。足が折れたんだろうと冷静に思えた。
ああ、死ぬかも。それだけ脳内に浮かんだ。
やっと生きていこうと心に決めてからそんなに時間も経たずに死ぬのは少し不本意だったけれど、それでも自分で選んだ道なのだと思えた。私が盾になることで後ろにいる八重さんが助かるかは分からないけれど、何もせずに隣で死んでしまうよりマシだ。
女が骨ばった手をこちらに伸ばす。爪が伸び切った汚い手だった。ああ、捕まる。そう心で呟く。
しかしその時、両手を広げた私を誰かが体を覆うようにして庇ったのに気がついた。私の頭を抱きしめる白い布が見える。温かな体温を感じた。
白い視界の隙間から、青い手がこちらに懸命に伸ばされているのを確認できた。ついにその手が白い布に触れた瞬間、麗香さんが何かを叫んだ声が響いた。
そしてガラスが割れるようなパリンという甲高い音が後に続いた。それと同時に、女は一瞬にして姿を消したのだ。嬉しそうにこちらに手を伸ばしている女の残像がそこに残っている気がした。
びしゃっと、私の膝に冷たい何かが掛かった。
しんとした静寂が訪れる。誰も何も言わず、ただ全員が呆然とした形でそのまま動けなかった。私もただその体制のままピクリとも動くこともできず、放心状態でいた。
「…………麗香、助かりました」
ため息が一つ漏れたあと、自分のすぐ頭上からそんな声が聞こえた。未だ私の頭を包んでいる白い腕はそのままだ。
「……く、じょう、さん」
私は小さくつぶやいた。それを合図としたように、彼がゆっくり私を離した。
ようやく広がった視界で、額に汗をかいて厳しい顔をした九条さんの横顔を確認する。同時に、先ほど自分の膝を濡らしたのは麗香さんの塩水だと理解した。麗香さんが香水瓶ごと女に投げつけたらしく、近くで粉々になっている瓶があった。自分の足が水で濡れている。女が間一髪消えたのは、麗香さんがなんとかしてくれたのだった。
麗香さんは呆然とした顔で私たちの方を見ていた。私の背中では、八重さんが小さな声で泣いている。
振り返って八重さんの顔を覗き込む。涙でぐっしょりになった八重さんは、唇を震わせながら私を見た。
「八重さん、大丈夫ですか?」
「ごめ、なさ……私、声を……」
「大丈夫です、みんな無事ですから……」
それは励ましの言葉にはならなかった。八重さんは泣き続け、ただひたすら謝っている。
無理もない、と思う。あんな相手、私ですら震え上がるんだから。本当ならマネキンを攻撃して帰っていくはずが、あんな展開になるなんて。
彼女の背中をさすっていると、麗香さんの戸惑った声が聞こえた。
「失敗したわ……」
麗香さんを見ると、愕然としたように目を見開いてマネキンを見つめていた。失敗、そうだ失敗。女はマネキンに惑わされなかったのだ。
麗香さんの作った身代わりが役を果たさなかった。
なぜ??
「麗香。考え直しが必要です」
九条さんが言うと、麗香さんは強い口調で言った。
「待って。今まで私が作った身代わりで欺けなかったことはないのよ! あの女よりもっと強い霊だって完全に欺けた。こんなはずでは……」
「落ち着いて。混乱するのは分かりますが取り乱してもいいことはない」
「おかしい。絶対におかしいわ……ありえない!」
大きな声で感情をあらわにしながら言う麗香さんに、八重さんが震える声で言った。
「わた、私が声を出してしまったからでは……すみません、驚いてつい、漏れてしまって」
唇を震わせながらそういう八重さんに、麗香さんが言う。
「そう、か、声を出して本体が気づかれたから……!」
納得しかけた麗香さんを見て、彼女がよほど混乱していることに気づく。そんなわけがないのだ。
私は素直に口に出した。
「麗香さん、八重さんが声を出す前から女はマネキンに興味をなくしてました。八重さんの声が原因ではないと思いますが……」
私の言葉を聞き、麗香さんがきっとこちらを睨んだ。
「現場も慣れてない素人が口出ししないでくれる?」
苛立った彼女の声にぐっと言葉を飲み込む。しかしすぐ、九条さんの厳しい声が響いた。
「麗香、言葉には気をつけなさい」
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