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真夜中に来る女

まずは観察

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「今日は何もしません。話しかけることもしません。ただ観察します」

 午前二時近く。麗香さんは玄関に仁王立ちしながらそう言った。

 私と九条さんは昨晩と同じように玄関に、大川さんたちは離れた廊下の端に支え合うようにして小さくなっていた。

 そろそろ女がくるであろう時間になり、家全体がまたどこかいやな空気になっているのを感じていた。僅かにだが、あの変な匂いもし出した気がする。麗香さんは敢えて今は何もしないと言った。

「まずは敵が何者なのか確かめないと。勿論家には招きいれませんから安心して」

「直接会わなくても、何者かわかるんですか……?」

 八重さんが不安げに声を上げる。麗香さんは肩をすくめた。

「ぶっちゃけわからない可能性もあるわ。でも相手がどれくらいの力を持ってるかはわかると思います。対策はそれから考える」

 こんな不気味な状況にいるというのに、麗香さんはまるで怖がっている素振りはなかった。当然と言えば当然だが、あまり年も変わらない女性がこうも堂々としているとは。

 私はといえばすでに心臓がドキドキして吐きそうだった。昨晩見たあの女とまた会うだなんて……。今回は麗香さんもいるのだから安心要素は大きいはずなのに、まるで心休まらない。

 九条さんが無言で玄関の明かりを消した。一気に暗闇に包まれる。私は両手をぎゅっと強く握った。

「麗香、油断はしないでください」

「分かってるわ」

 小声で二人がささやく。暗闇の中でぼんやりと玄関のすりガラスが外灯で少しだけ光っている。昨日の出来事が脳裏に甦り緊張が高まる。

 大丈夫、大丈夫だから。ハンプティダンプティだから!

 そう自分を言い聞かせた時だ。

 時計が、二時十三分を指した。

 その途端、ずっと無くなっていたあの変な匂いが突如沸き出た。それもこれまでより圧倒的に強い匂い。初めて家にきた時より悪化していると思った。もはや血生臭いような吐き気を催す匂いとなっている。耐えきれず私は鼻を手で押さえた。

 そんな匂いが一気に自分を包み込んだ時、昨日と同じように細い足のシルエットが現れた。途端全身が強張る。あれだけ心の準備をしていたというのにそれは全く無意味なことだと思い知らされた。

 ゆらりと赤いワンピースの裾が揺れる。相変わらず両足はとんでもなく細く脂肪というものが見当たらない。折れそうな二本はそれでも懸命に動いて上半身を運んでいる。

「ごめんくださあい」

 やっぱり耳障りな挨拶が家中に響き渡った。またしても卒倒してしまいそうになるのを必死に堪えた。

 この女。ただ怖いだけじゃない。少し冷静に私は考えをめぐらせた。私も九条さんもあれだけ汗だくになるほど恐怖心を覚えたのは、この女から圧倒的な攻撃の気を感じるのだ。そして言葉では言い表せられないほど『死の気』が強すぎる。うっかりしていたら引きずられてしまいそうなのだ。

「ごめんくださあい!」

 麗香さんの表情を見て見たいと思った。でも私の位置から彼女の表情は見えなかった。ただ、麗香さんは最初と変わらず仁王立ちのまましっかり立っていた。

「ごめんくださああああい!」

 女は昨晩と同じようにガラス戸を叩き出した。それが揺れる音は私の心臓を揺さぶる。ごくりと唾液を飲み込んだ音がやたら自分の中で大きく響いた。それでも、あと少し。あと少たてばこの女はいなくなるから……。

 そう私が思った時、タイミングよく女の戸を叩く手がピタリと止んだ。ほっと息を吐く。これでもういなくなる……

 はずだった。



「いるね?」



 しゃがれた声は、突然そんな低い声を出した。


 びくんと体が反応する。昨晩と違う、違う……!

 女はじっと動かずにこちらを見ていた。ぼんやりと浮かび上がるシルエットが不気味で仕方がない。私たちも女も長く沈黙を守った。

 しかし次の瞬間、女はパンパンに腫れあがったまん丸の輪郭をガラスに向かって突然勢いよくぶつけたのだ。

「 ! 」

 これまでより派手な音が響いた。とうとうガラスが突き破られたのかと思ったが、その戸はちゃんとそこにまだ存在してくれていた。飛び上がった心臓がうるさく鳴り響く。

 女のロングヘアがガラスに張り付いている。額をピッタリくっつけたまま動かずに停止している。その表情までは確認できないが、なんだか女は楽しそうにしている気がした。

 次の拍子に女はまた額をガラスにぶつけた。何度も何度もこちらを攻撃するかのように顔を打ち付ける。次第に透明だったはずのガラスに赤黒い液体が付着し始める。それでも女はやめようとはしなかった。

 九条さんや麗香さんに何かを話しかけるわけにもいかず、私はただ必死に耐えてその光景を見続けた。どうか早く帰って。今日は帰って!!

 心の中で必死に祈る。

 無情になり続けるガラス戸の揺れる音は長く続いた。耳がおかしくなると思った。とうとうガラスには女の体液がべっとりと付着し、血生臭さがこっちにまで匂ってくる錯覚に襲われた。

 だがついに、女はピタリと停止する。

 ゆっくりと扉から離れる。

「いるのにいるのにいるのにいるのにいるのにいるのにいるのにいるのにいるのにいるのにいるのに……」

 ブツブツと呟く声が微かに聞こえながら、女は元きた道をゆっくり歩いて行った。

 静寂が流れる。
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