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アパートの一室
小話1
しおりを挟む九条氏の朝は大体が伊藤陽太に起こされるところから始まる。
それは事務所に寝泊りしている時は無論、自宅にいる時も、伊藤陽太からの電話で起こされるのだ。電話は最大音量にしているが中々起きず何度もコールせねばならないので、伊藤は他に彼を起こす方法がないかと模索中だ。
その日も彼は8回目の伊藤の電話でようやく目を覚ました。気怠そうに手を伸ばして電話を取る。
『ああっ。ようやく起きましたか九条さん…おはようございます、今日は8回目ですよ。』
「…おはようございます伊藤さん」
『もー早く来てくださいよー!』
切れた電話を寝ぼけたまま見つめる事5分。彼はようやくベッドから起き出す。
髪は寝癖で派手に跳ねていた。それでも、起きたばかりだというのに彼の凛とした横顔はほとんどの女性なら見惚れる横顔だ。
ぼうっとしながら彼は昨晩のことを思い出す。
「昨日…夜風呂に入ったか…?」
確か依頼もなく一日中事務所で伊藤の小言を聞きながら過ごした日だ。早々と仕事を切り上げて、家に帰り、気に入っていた本を読んで…
……
思い出すのが面倒だ。もう一度入っておけばいい。
彼は毎朝こうだった。思い出すのが面倒だから朝シャワーを浴びる。実際のところ夜もシャワーを浴びているのだが、それを教える者はいない。
浴室に入り熱いお湯を浴びた。ようやく頭がすっきりと目覚めてくる。歯磨きもそのまま済ませ、風呂から出て適当に体を拭くと髪は乾かすこともしないで服を着た。ドライヤーなど彼は持ってすらいない。
簡単に入浴を済ませたところでキッチンへ入り朝食をどうするか腕を組んで考える。
ポッキーで済ますか、買い置きの食パンにするか、この二択。
ポッキーばかり食べていて伊藤によく叱られる彼は食パンを取り出した。焼くのも面倒なのでそのまま齧る。
テレビを一旦つけてニュースを見た。意外と世界の情勢などの情報を入れる事は忘れない。
冷蔵庫から水を取り出して飲む。
さてようやく出かけようかと立ち上がったところで、彼はやはり甘味が恋しくなる。結局戸棚からいつものあのお菓子を取り出して食べる。これもいつものパターン。
美味しい。
ようやく満たされた九条氏は振り返り、テレビ横に飾られた観葉植物を見た。
適当なグラスに水を入れると、彼は緑の茂るそこに十分に水をあげた。
「よし」
1日おきに水を与えるべきだと調べてから、彼は水やりを忘れない。昨晩風呂に入ったかどうかも忘れるのに、水やりだけはしっかり1日ごと繰り返せる。
「行くか」
誰もいない部屋に声が響く。物もあまりないどこか寂しい家をあとにし、彼は仕事場へ向かった。
「あ!九条さんよかった、今依頼の方がいらっしゃって…」
事務所の扉を開けると伊藤がほっとしたようにこちらを見た。確かに、ソファの上には女性が一人腰掛けていた。
こんな怪しげな内容を仕事にしてるこの事務所だが、意外と依頼は絶えず飛び込んでくる。
九条氏は頷いてすぐに女性の前に腰掛けた。
中年の女性だった。
「お待たせしました、九条尚久です」
そう鋭い視線で言った彼の顔はもう仕事の顔だ。思わず依頼人はその顔に見惚れた。
自分のことには無関心でマイペースな彼だが、依頼だけはしっかりこなす。
「今回はどのような件で…」
キリッとした顔で切り出した瞬間、ふと彼は思い出した。
「あの。実は…」
「ちょっと待ってください」
話し出した依頼人を制して、彼は離れたところでパソコンをいじっている伊藤の方を見て声をかけた。
「伊藤さん」
「ん?はい、なんですか!」
「家の鍵を閉め忘れました。閉めてきてもらえますか」
「…………」
彼の1日は始まったばかり。
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