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窮地

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 私は左手の甲で強く唇を拭いた。リップの色が肌に移る。だがそんなことを気にしている余裕もなく、私は和人を睨みつけた。そして、床に転がっているやつの胸倉を掴み上げ、低い声で言った。

「誰かに頼まれてるの?」

「…………え」

「そうだね? あんたのやってることはめちゃくちゃだ。和人はプライドが高いし、今更自分が昔振った女にまとわりつくなんてらしくないんだよ。しかも拒否られてるのに無理やりだなんて」

 沸騰しそうな自分の頭は、案外冷静に回っていた。自分の考えを淡々と述べる。

 そう、そうだ、何かがおかしい。なんで今更私にまとわりつく必要がある。この男には守ってあげたい可愛い彼女だっている。私は結婚してる。別れるとき、私は未練なんて感じさせず別れた。なのに今更接触してくる意味が分からない。それに、何とか必死に事実関係を作ろうとしているのがバレバレだ。

 彼は何も言わなかったが、わずかに口角をあげた。いら立ちがさらに増し、私は舌打ちする。

「大体想像つくからいい。三秒以内に去らないと大声出す」

 奴を離す。和人は襟を正すと、そのまま立ち上がる。そして私に一言だけ言った。

「金持ちと結婚するのも大変だな。お前は一生幸せになんてなれないのかもな」

 それだけ言うと、彼はさっさと歩いて行ってしまった。その背中を睨みつけながら、周りから視線を集めてしまっていることを思い出す。注目されるなんてごめんだと、すぐにその場から立ち去った。

 ヒールの音を響かせながら、とにかく足を進める。あの和人の言い方からして、やはり間違いなくあいつは自分の意思であんなことをしたわけではないのだろう。この前たまたま再会したところを、見られたか人づてに聞いたかして、和人の存在を知ったのかもしれない。

 持っていた鞄からハンカチを取り出し、再度唇を強く拭いた。痛みを覚えるほどだった。付き合ってた頃はキスぐらいしていたというのに、今はこんなにも嫌悪感で満ちてしまう。玲とのキスを上書きされたようで最悪だった。まあ、玲とだって憧れるほどのいいシーンではなかったのだけれど。

「それより、和人のあの行動、一体誰がどういう意図で仕組んだんだろう」

 私が元カレと関係を持てばいいと思って誘わせたのだろうか? それだけなら、計画として浅い気がする。私が彼に未練などないってことは明白だと思うし、断ってしまえばそれで終わりだと思うのだが。

 じゃあ一体、相手は何を思って……。

 考えながら素早く足を動かしている時だった。背後からやってきた車が、突然私の横で停車したのだ。黒い高級車だった。

 嫌な予感がして、足を止める。

 後部座席の窓がゆっくりと下がる。そこから顔を出した人を見て、私は和人を使った人間が誰だったのかすぐに理解した。

「こんばんは、舞香さん。お急ぎのようですね? お送りします」

 にっこりと笑いながら赤いリップを光らせる。楓さんが、私に微笑みかけていた。

 普段のぶりっ子な声色や表情とは違った。余裕のある、そしてこちらを見下したオーラを身に纏っている。

「……こんばんは楓さん。マンションはもう見えてるので、大丈夫です。お心遣いありがとうございます」

「あなた、分かってらっしゃるでしょう? 乗らないといけないって」

 無言で彼女の顔を見る。何か話したいことがあるようだ。

 和人が私をホテルに連れ込むのは先ほど失敗したばかりだし、一体何を思っているんだろう。彼女からは普段とは違い、威圧感を感じる。

 運転席から男性が降りてきて、ドアを開けてくれた。私はため息を吐きながら、その戦に応じることにした。楓さんの隣りに乗り込む。

 車はすぐに発進したが、明らかに私のマンションとは逆方向に進みだす。高級な革のシートに座り込み、隣を見てみれば、彼女は涼しい顔をして真っすぐ前を見ていた。

「どこに行くんでしょうか」

「ああ、ちゃんとマンションまでお送りしますよ。ただ、お話がしたいので、少しだけ迂回しますね」

「……車に乗せて頂いて助かりました。さっき、変な男にまとわりつかれて怖かったんです」

 私はそう笑って見せる。楓さんもこちらを向いてにやりと笑った。

「ああ……それは大変でしたね」

「どうやら誰かの指金のようなんです。怖いですよね」

「まあ、怖いですね。でも相手はなぜそんなことをしたんでしょうね?」

「なぜだと思いますか、楓さん」

 探り合いが続く。相手は余裕たっぷりな態度で、私に答えていく。

「お知り合いなんでしょう?」

「……以前、少しだけお付き合いした男性でした」

「なるほどー。復縁を迫られた、ってことですかあ」

「でもおかしいんですよ。奴には付き合ってる女性だっているのに、急にあんなことしてきて。私が別れた相手に靡かない事なんて分かり切っていると思うのに」

 私がわざとらしくいうと、突然相手は声を低くさせた。今まで見てきた頭空っぽのぶりっ子とは全く違った言い方だった。

「あなたは想像以上に目障りです」

 急に出てきた本音に、つい驚きを隠せず隣を凝視する。足を組みなおし、楓さんはじっと真顔でこちらを見つめている。

 楓さん相手のバトルなんて、余裕だと思ってきたのに、どうも様子が違う。

「人の婚約者を取る、という行為がどれほど愚かで敵を作るか、底辺のあなたには分からないんでしょうか。個人だけの問題じゃない、会社同士の利益もある。会社の利益はすなわち社員のためにもなるんです。うちの家と結ばれれば、二階堂はもっと大きくなれる」

「……一理あるかもしれません。でも、玲には玲の人生があります」

「あなたたちは本当に愛し合って結婚されたの?」

「もちろんです」

「へえ」

 そう冷たく言った楓さんは、持っていた鞄からスマホを取り出す。それを操作して私にある画面を見せつけた。

 つい先ほど、私が無理やり和人にキスされたシーンだった。

 私は表情を変えない。そして、慌てることなく冷静に言った。

「これで玲と私の仲を引き離すおつもりですか? ちゃんと説明すれば、玲は分かってくれます。彼は私の話は聞いてくれるので」

 妻の不貞の瞬間、とでも思ったのだろうか。本当はホテルに入る所を撮りたかったのかもしれないが、失敗に終わったので、キスで何とか証拠としたんだろう。

 だが向こうも表情を崩さなかった。スマホを鞄に仕舞い込む。

「まあ、これ一枚だけじゃそうでしょうね」

「え……?」

 そう言って、カバンから何やら書類を取り出す。報告書、という文字がちらりと見えた。そして私にそれを差し出してくる。

 彼女は目を細めて、ゆっくりとした口調で言った。

「大島和人さんと別れた日と、玲さんとの入籍日が同日なのはどう説明なさるの?」
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