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暗雲
しおりを挟むやはり、その日玲は帰ってこなかった。
圭吾さんを見送り、一人で広い家で過ごして寝た。スマホにはメッセージの一つも入ってこなかったし、今頃あいつはどこで過ごしているんだろうか。まあ、本当の妻でもない私が知らなくてもいいことだ。
そして翌日、圭吾さんを経由して『一週間の出張に出かけた』と聞かされ、落ち込むのを誤魔化せなかった。
別に怒ってないし、今まで通り過ごす覚悟はできているのだから、玲も同じようにしてほしかった。変に距離を持たれる方がキツイ。
でも電話を掛けてそれを喚き散らす覚悟もないので、一週間を静かに過ごすことに決めた。
畑山さんのレッスン、伊集院さんの華道教室、あとは時々勇太と電話、自己学習。いつも通りの日々はあっという間に過ぎていく。
玲が帰ってきたら、とにかく今まで通りの態度で過ごそう。そのイメージトレーニングだけは欠かさず行っていた。
「んー疲れた。何か甘い物でも買って帰ろうかなあ」
街中で一人そう呟いた。
華道教室を終え、一人で帰路についていた。玲が出張に出かけてからすでに六日、明日帰ってくるはずである。
この六日間、色々考えて答えも出ている。多分私は大丈夫だ、ちゃんと元の関係に戻れるはず。玲が帰ってきたら、あのキスの弁解をする余裕も与えないように憎まれ口をたたいてやろう。私は気にしてないんだと思わせねばならない。
夕方になり日が赤くなっていた。人通りの多い街の歩道を歩いていく。街灯に明かりが灯り始め、お店の看板もライトが付きだしている。もう少ししたら一気に暗くなりそうだ、なんて考えていた。
玲と住むマンションも遠目に見えてきたところで、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「舞香」
振り返って驚く。和人がそこに立っていたのだ。
もう二度と会うことはないかと思っていた人物だ。会社でたまたま会ってしまった後、当然ながら記憶から消去されていたし、まさかこんなところで再会するなんて信じられない。
「和人……」
彼はやけに優しい微笑みで私を見ていた。そしてゆっくりこちらに歩み寄る。一体何の用があるのだと、体が強張る。
「え、えーと、なに?」
「この前、悪かったな。俺も頭が混乱して、失礼な事ばかり言っちゃって」
違和感を覚えて、和人を見る。プライドが高いこの男が、私にこんなふうに謝るのが意外だった。疑いの眼で彼を見る。和人はニコリと笑ってきた。
「いや、別に今更もういいから……じゃ」
「まさか本当に結婚してたなんて知らなかった。もしかして、俺に振られたやけで結婚受けたとか?」
立ち去ろうとして、聞き捨てならないセリフが聞こえたのでつい足を止めた。顔を歪めて聞き返す。
「はあ? 何言ってんの?」
「だって、お前慎重派なのにスピード婚とかありえないって思って。それとも……もしかして、お前も被ってたの? だとしても、俺全然怒らないよ! もとはと言えば俺も悪いし」
いら立ちで唇が震えた。私は声を荒げて言い返した。
「被ってるとかありえないから。あんたと一緒にしないでくれる?」
強い口調になり、すれ違った人がこちらを見た。痴話げんかだとでも思われたのだろうか。私は和人に背を向けて、街中を歩き出す。だが奴はそのまま隣に並び、歩きながら付いてきた。
「ごめん、舞香はそんなことしないよな」
「絶対しないから」
「じゃあ、やっぱりヤケ? まあ、条件はいいよな。二階堂の御曹司」
「ヤケでもない。小学校の頃の同級生だから、全く知らない人ってわけじゃないの。もう話は終わりにして」
苛立って早口で答えた。それでも、和人は引く気配がない。
「ごめん、舞香を怒らせたいわけじゃないんだ。ヤケになって結婚させたのなら申し訳ないと思って……同時に、それだけ俺を思ってたのかなあ、って思ったら嬉しくて」
つい足を止めて、唖然とした顔で和人を見た。彼は優しくこちらに微笑みかける。ゾゾっと寒気が走った。
「……あの、私別れるときに言ったよね? あなたみたいな人はこっちからお断りだって。和人には全く未練もないし、思い出すことすらしなかったの。和人もあの子と幸せにやってるなら、もうそれでいいじゃん。お互いそれぞれ幸せでよかったね、おしまい」
「いや、本当の幸せって、俺たちが付き合ってた頃のことを言うのかな、って」
「……ちょっと何言ってるか分からない」
私は早足で歩き出す。タクシーでも捕まえようと振り返るが、走ってくる様子は見られない。
「あー舞香、落ち着いて。お前がもう結婚してるのは分かってるし、幸せならそれでいいと思ってる。でもほら、結婚相手と恋愛相手は違うっていうだろ」
そう言った彼は、私の腰に手を回してきた。寒気が走り、一瞬全身が硬直した。玲に初めてこうされたとき、あいつの手を摘まむ余裕があったが、本当に嫌な時は体は動かないものなのだと知った。痴漢にあったときって、こういう状態なんだろうか。
和人はそのまま私をすぐそばの細い道に誘導しようとする。そっちはホテル街がある道なのに気が付き、慌ててその手を払った。そして相手が何をしたがっているのか感づき、急いでその場から離れる。
「舞香、待てって」
「いやマジで無理だから。こっち来ないで!」
「別に割り切って楽しめばいいって言ってるだけだって、深く考えなくても」
「いやいや頭どうなってんのよ!」
ヒールで走るとあまりスピードが出ない。こういう時は着飾った格好じゃなく、全身三千円の方が動きやすいのだ。高級なファッションは走りにくい。
近くに交番なかったっけ、と頭で考えて走っていると、突如手首を掴まれ、痛みで振り返る。完全に目が座ってしまっている和人がこちらを見ていて、あまりの恐ろしさに言葉も出なかった。和人って、こんな顔してたっけ?
落ち着け、落ち着くんだ。人通りも多い。大声を出すかスマホで警察を呼ぼう。いくら私でも、男に腕力で勝てるわけがない。ああ、でも右手は掴まれてしまっている、スマホは取り出す余裕がない。じゃあ早く大声を出して助けを……
そう考えている間はほんの一、二秒だったと思う。だがその一瞬の隙を見て、和人が突然私に口づけた。生ぬるい感触に吐き気すら覚えつつ、私は瞬時に持っていた鞄で和人の頭を思いきり殴った。結構強く当たったようで、和人が私から手を離す。私は無我夢中で奴を思いきり突き飛ばした。彼はよろめいて地面に尻をつく。
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