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温かな手
しおりを挟むケーキも食べ終えた後、片づけを手早く手伝ってくれた圭吾さんはすぐに帰宅してしまった。皆でもう少しゆっくり紅茶でも、と止めたが、彼は足早に家から出て行った。
とりあえずお開きとなり、玲と私はそれぞれ入浴した。緊張していたけど、玲もそれなりに喜んでいるようで安心だ。彼にとっては庶民的な祝い方が斬新だったかもしれない。
ドライヤーで髪を乾かした後、パジャマでリビングへ入った。水を飲もうかと冷蔵庫に手を伸ばしたとき、ソファの上でテレビもつけず、ぼんやり私があげたペンを眺めている玲がいた。私はグラスに水を注ぎ、それを持って彼の隣りに腰かけた。
「趣味、変じゃないでしょ?」
私が笑って見せると、彼がこちらを見る。柔らかな顔で言った。
「飯も美味かったし、これもすごくいい。ありがとう」
だから、面食らうって。これはキャラ崩壊しているぞ、いつもの玲はどこへ行ったのだ。
「そ、それはよかった。玲があんなに美味しそうに食べてくれるなんて意外だったよ」
「美味しそうじゃなくて美味しかったんだ」
「そ、そう」
玲はペンを持ったまま、ぼんやり前を見た。私は水を飲んで涼んでいる。
「圭吾と出かけたってことは知ってた」
「え!? 言ってなかったはずだけど」
「見れば分かる、アイコンタクトがバレバレだ」
バレていたとは。この男洞察力がある。
「でも、まさか自分への贈り物のためだとは思ってなかった」
「ええ? そうでもなきゃ私と圭吾さんがなんの用があって二人で出かけるっていうのよ」
「そりゃ……お前はいつも圭吾を褒めてるし、形だけの結婚だし……」
そこまで言って、玲は口ごもる。何を言いたいのかイマイチ分からず、私は首を傾げた。
「色々聞いてさ、本当は高級レストランがいいかなーとか考えたんだけど、圭吾さんが家の方がいいって言うから」
「そっか」
「祝えてよかったよ。玲にはお世話になってるしね。三千万で私にいい仕事を与えてくれた。あれが無かったら、私は今頃ズタボロ人生だったよ」
初めは戸惑ったけど、それに決して楽な仕事ではないけど、私は十分感謝している。
「……舞香」
「今更だけどさ、パーティーで私を力いっぱい励ましてくれたのも、すごく嬉しかったんだよね。玲って性格悪いじゃん、育ってきた環境も違うし」
「サラリと性格悪いとかいうな」
「でも私と同じ価値観を持ってるんだ、って安心した。こう言ったら玲は怒るかもしれないけど、玲と私ってちょっと似てるとこあると思うんだよね。お互い親に苦労してるってとこがさ」
少し笑ってみる。まあこっちは金も無かったからその分苦労もあったけど、玲は玲で違う苦労があったに違いない。親に振り回され、もがいていたのは同じだと思う。
玲はこちらを見ないまま、ぽつんと言った。
「知ってるか。小学生の頃、授業参観で、親が来なかったのは俺とお前だけなんだ」
「え?」
隣を見ると、彼は懐かしむように目を細めた。
「親が来なかったことが凄く恥ずかしくて、周りの同情の目も辛くて、そんな時隣のクラスの女子の家も来なかったって噂で聞いた。俺は落ち込んでる者同士仲良くしてやろうと思って、舞香を見に行った。そしたら、お前は全く落ち込んでなかったし、ゲラゲラ笑ってたんだよ」
「まあ、授業参観なんて来てもらったこと一度もなかったしなあ……」
「それがまた酷く悔しくてな。完全に逆恨みなんだけど、舞香にむかついて、だから貧乏人だって揶揄い始めたんだ。お前はこっちの揶揄いにも全然負けず飛び蹴りしてくるわけだけど」
「それで泣いて帰ったのね」
「だから泣いてないって!」
玲が笑う。私もつられて笑った。
「それから何度も舞香にちょっかいかけに行ってはやられて帰ったな。ゴリラ女は強すぎた」
「ゴリラて」
「でも今思うと、俺舞香が羨ましかったんだ。吹っ切って強くいる舞香みたいになれたら楽だろうな、って思ってた」
ややか細い声は、玲には珍しい。私は玲のように、何もない壁をぼんやり見ながら言った。
「それはね、私は一人じゃなかったから。勇太がいたでしょ。だから、参観日に親が来ないのは勇太も一緒だって思えた。だから耐えられたってだけ。玲は一人で耐えなきゃいけなかったから、きっと辛かったと思う」
クズな親に期待することはすぐに諦め、勇太との暮らしを守ることが優先だった。勇太がいることで大変なことは多かったが、いることで救われたことの方が多かった。勇太の存在がなければ、私はここまで強くなれていない。
玲が小さく笑う。
「弟思いだな。お前は本当に強い。この仕事を持ち掛けたのはほんの思いつきだったが、お前に任せてよかったと思う」
「……まあ、普通のご令嬢はあのイビリに耐えられないだろうね」
「だろうな、普通はそうだよ。正々堂々受けるのはお前くらいなんだよ」
なんだか楽しそうに玲が笑う。するとふと、ソファに置いてあった自分の手に、玲の手が重なった。大きな熱い手が自分を包み込む。
驚きと、でも突っ込んではいけない気がして、私は黙っていた。徐々に指を絡め、しっかりと手を握られる。困り果てつつも、それを握り返してみると、少しだけ驚いたように彼の手が反応した。
今は周りに人もいないのだから、夫婦のフリなんてしなくていいはず。それでも、しっかり握ってくる手を振り払えるわけもなく、溶け合う体温に身を委ねた。
「……誕生日なんて、そんなにいい思い出なかったけど、今日はいい一日だった。ありがとう」
「……どういたしまして。普段もそれくらい素直ならいいのに」
「俺はいつだって素直だよ」
「嘘だ、ひねくれものめ」
「うるさいゴリラ女」
「ゴリラ女に負けてたくせに」
「人間がゴリラに勝ってたまるか」
そう言いあいながら、私たちの手は離れなかった。一体この行為に何の意味があるのか、問いただす勇気も雰囲気もなかった。
普段と変わらぬ会話の中で、私たちはお互いしっかり手を握ったまま、熱を共有した。
そして――心の奥底で、このまま離れがたい、なんて思っている自分に気づきながら。
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