みえる彼らと浄化係

橘しづき

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黒いモヤ

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 弟も同じように言っていた。だが母は、『あれはまき散らせる』と言っていたので、あの人は強すぎる。

「にしてもさあ、カフェのバイトだけど、めちゃくちゃ忙しくてさー目が回りそうなのー」

『遥が働いてるからじゃん? 今までそんなに繁盛してたの?』

「え、まじそういうこと? そういえば店長が、不思議そうにしてたわ……」

『さすがだねえー持ってるうー! 招き猫じゃん!』

「あれじゃない、私ってほら、石原さとみに似てるって言われるから勘違いした客が押し寄せ」

『一度も思ったことないから』

 やんややんやと、楽しい会話を重ねていると、隣から物音が聞こえた。これは玄関の扉が閉まる音だ。ちらりと時計を見上げてみると、時刻は二十二時を回っていた。

「あ、お隣さん帰ってきたな」

 つい言葉に出してしまった。

『お隣さん? ああ、前見た時、怪我してそうだったっていう、あの?』

 美和の話に頷いた。この部屋は角部屋なので、お隣さんは右隣一軒だけ。よくある一人暮らし用のアパートで、特に不満もなく暮らしている。

 三年前に越してきた時、隣に挨拶でも行こうかと思っていたけれど、心配性の父が止めた。『あえて女性の一人暮らしだとばらさなくていい、単身用のアパートなら挨拶なんか今時はしない』と言われたので、それもそうかと思い、特に何も言わなかった。

 最近までお隣とは顔を合わせたことはなかった。三年も経っているのになぜ? と不思議がられるかもしれないが、単純に生活リズムが違うようだった。それに、どうやらお隣さんは家に帰ってこない日も多いらしい。

 今まで普通の企業に勤めていた私は、朝早く出勤して夜帰宅するという、規則正しい生活を送っていた。だが、お隣は朝に家を出る様子は見られないし、夜中に帰宅することも多い。数日気配がしないことも多々ある。時折電話でもしているのか声が漏れてくることがあってどうやら男性らしい、とはわかっているものの、それだけ。おおかた彼女の所によく泊り込んだりしているのだろう。

 だがそんなお隣と、先日初めて顔を合わせることになった。

 朝早く起きる必要がなくなった自分は、最近夜更かしもよくするようになっている。遅くまで求人案内を見ていたところ、夜中の二時近くに、外から足音がしたのだ。

 普段なら、一人分の足音なんて気づかない。でもその日やけに耳についてしまったのは、その足音が何かを引きずるような音も連れていたからだ。

 本当に遅いスピードで、とん、ずる とん、ずるっと響かせている。恐らく、片足を引きずっているのだ。

 あまりにゆっくりな音だったので気になってしまった。私はなんとなく立ち上がり、玄関まで歩いてそっと扉を開けた。少しの隙間から外を覗いてみると、二軒隣りぐらいに、一人の男がいた。

 真っ黒なパーカーに、フードを深く被っている。背はまずまず高い。細身の体は、今にも倒れそうなぐらい背中を丸めており、俯いているせいもあって顔はまるで見えなかった。

 ふらふらとした様子で、右足を出したかと思うと、次に左足を引きずった。怪我をしている、とはまた違う気がした。まるで荷物を運んでるかのような引きずり方だったのだ。

 痛がるそぶりも何もなく、ただゆっくりゆっくりこちらに歩いてくる様子にぞっとした。……いや、私を震え上がらせたのは、彼の動作だけではない。

 体全体に、あの黒いもやを身にまとっていたからだ。

 慌てて扉を閉めた。
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