卵の子

中尾嘉男

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第1章

あやねのはなし

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  あたしは猫を飼っている。
  十年前にあたしが公園から拾ってきた猫だ。
  だから十年生きている。
  あたしが二十四だから、十四の時から飼っている。
「おいで、たまご。
 メシだよ」
  あたしは好物のオムライスにちなんで卵と猫になづけている。
 いまだ、あたしに懐いていない。
 卵は、卵なんか食べたことがないだろう。
 あたしがしゃがんでキャットフードのはいった皿をさしだしても、彼女はあたしに逆らうだけだ。
 ・・・ほんと、可愛くない。
「不細工ねこ」
  くちをすぼめて呟くと、卵は一瞬あたしを見遣るがそれだけで、丸まったまま大口あけて、欠伸をひとつ。
「ばか猫」
  立ち上がると卵をケッて洗面台へ。
  あたしは頭から水をかぶって猫のように水をはじいた。
  くぅ、今年も危機的な気象だってテレビがいってたけど、こりゃぁ確かに世紀末的異常気象だわ。
「あぁ、暑い」
  あたしはダイニングキッチンの椅子にすわって、包丁でジーンズの丈を、腿のあたりまで切りとって折り返した。
  上着は黄色いTシャツ一枚なので涼しげだろう、心配ない。
「あーあ、海いきたい」
  なんて独り言。
  近ごろあたしは姉に似てきたようだ。
 あまり物事を真剣にとりあわなくなったところとか、他人を見下すところとか、なにもかも済ませられるなら当たり障りなく適当にすますところとか。
  姉の名は優子。
 あたしは彼女があまり好きではない。
  高校を出て商社に入って、一人暮らしをはじめた姉は、先日そこをやめたらしい。
 いまは男と暮らしているっていうけれど、あんなワガママだらけた野良女に惚れるだなんて、いったいどんなお人好しだろう?
 まァあたしは姉とちがって美人だから引き手も数多なんだけど。

  幸福は自堕落な感傷を溶かしていく。
 だから錯覚をおこさせる。
  本当は、誰にでも優しくできる感情なんて、どんな聖人も持ちあわせてなんかいないのにね。

 あたしは煙草を吸って、想っていた。

  あたしの彼は、あたしのどこが好きなんだ。
 今度、彼にきいてみよう。



(男の部屋、ベッドのうえで)



「ねぇ、プールいかない」
  あたしは隣にいるボーイフレンドに抱きついて囁いた。
  彼は右手で煙草を吸っていて、
「いきたくない」
  ポカーンと天井をみつめていた。
「なんで」
「カナヅチだから」
「およげないんだ?」
「めんどうだろう」
「そっか、
  ・・・あたしにも煙草ちょうだい」
  彼はあたしにケースをさしだした。
  あたしは一本そこから取ると、彼のくわえていた煙草をうばって、自分のモノに接吻させて火をつけた。
「髪、きったんだ」
「いまさら言ってる」
「きれいだよ」
「そうかな?」
「似合ってる」
  そう、そんな素直なすきとおった声は、なんだかとても美しくて、あたしの魂が洗われるようだったから「あたしのどこが気に入ったの?」と、性悪な科白は喉の奥にしまってしまう。
  そう彼は、素直な自分を反射してくれる鏡のあたしが好きなんじゃないだろうか。
  あたしが彼を愛しているのと同じ理由。



(帰宅途中、さびれた街を歩いていたら)



  とまっているタクシーを一台みつけたの、
 乗りこんで家までの道程を運転手に伝えたら、
「お客さん、野球なんか観ます」と、話しかけられた。
「いえ、みません。興味ないんでラジオかえてもらえますか」
  いわれてみれば、試合の声がきこえていた。
「えっ、ちょっと、冗談はよして下さいよ。
 今シーズンのイーグルスはすごいんですよ。今までのすべてがウォーミングアップだと言わんばかりの快進撃。
 とくにレイチェル・ルフトなんかはね」
 あたしは化粧をなおしながら、
「興味ないんで変えてください」
 とだけ言った



  途中でタクシーを下車したあたし。
 あたしは夜の街を歩いている。
  横断歩道にひっかかり、信号を待ちきれないので歩道橋をあがっていると、ちょうど中間の位置で青へと変わった。
  あたしは歩道橋をこえて家へと帰る・・・
  したら、
 玄関前の囲いのうえに、卵は丸まって眠っていた。
「卵。
 あんた一日何時間眠りゃぁ気がすむの?
 寝るときは男の胸の中だけにしときなさい」
 吐き気がするよ。
 ぺっぺっぺっ。
  自分が恋心を持って、想い、悩む?
 乙女の瞳をしんじていたなら、もっと真剣に彼のこと、愛せるだろうか。
 そんなこと、考えた。
  
・・・街灯はまぶしい。
 
 そして、むなしー。

  誰もが、そんなもの望んじゃいないのに、怠惰は感情を殺伐と乾燥させていく。
 それが心境というものなんだ。
 悲しいことに、あたしも感情がある人だからだよ。



(階段にすわって、電話ちゅう)



「だからさぁ、けっこん、しない?」
「なんで」
「世紀末にするって決めてたから」
「いまちがうよ」
「ちがうのが、ちがう(・・・)の」
「そうなの」
「そっ」
「でもムリだよ。僕にそんな余裕はないから」
「書類だけでも?」
「それがすべてじゃん。
 子供とか産みたくないしさァ」
「産むのはあたしだよ」
「コンドーム買い置きして毎日セックスだけすんのもさァ」
「楽しいじゃん」
「猿みたいだし」
「人類みなサルじゃん」
「とりあえずゴメン。
 考えてもみなよ、僕ひとりの給料で、きみと君の家族うんぬんをメンドーみる金は必要になるんだよ」
「んなこと、考えたくないもん。
 一緒にいたいだけなのに」



(自宅にて、ただいま)



「あらっ、おかえり。
 ほらっ、卵。
 あんたの子供のおかえりよ」
「・・・母さん、なんのジョーク」
「あなた髪きってから卵と顔がそっくりでしょ。
 だから」
 あたしは手で制してから、
「わるいけど疲れてんの。
 さめた、んんん、凍えるようなギャグはよしてくれる。
 でないと、このクソ暑いさなかにホットコーヒーたのむようなボケかましちゃうから」
「それってボケなの?」
「ちがう?」
「・・・」
「・・・」
「つまんない子に育っちゃったわね」
「すっんごいホメことば。
 ありがとう」



(ベッドのなか、男にだかれて)



「そんなに似てるの、そのネコ?」
「にてない」
  あたしは頬をふくらませて拗ねたふりをしてみせた。
「つれてきなよ、みてみたいなァ」
  無関心な男のゆとり。
 あたしは寄りそいながらに、じゃれる自分を演じ、そこに心地よさを感じていった。
「あんた、ウチきなよ。
 母さんも会ってみたいって」
「いってるの?」
  男は煙草を吸っている。
「いってない。話してないもん、男いるって」
「なんで?」
「あたしには彼氏がいるけど、出不精で人嫌いで仕事どころか恋人の家にも遊びにいきたがりませんって、言えばいいのね」
「・・・」
「・・・」
  あたしは煙草を吹かしている。
「僕の仕事は、家で、絵や文章をかいてファックスしたり送信したり、それで済んじゅうんだよ。
 でる必要ないじゃん」
「それでも、他人に男をみせびらかせない女の苦悩も感じてほしいわ」
「みせびらかせるほど立派じゃないよ」
「いいんだ。
 愛してさえいれば、それだけで。
 あたしには、あなたが立派なの」
「ふーん、しらなかった」



(自宅でたべる夕食はいつも、まずい)



 コンビニで缶コーヒーとカレーパンをかって、もくもくもく。
「なにこれ?」
  みしらぬ子猫が三匹いる。
「ひとりっきりじゃ淋しいかとおもってね。
 母さん、がんばっちゃった」
「あんっ、なに?」
「もう、ギャグが通じないんだから、きのう卵が産んだのよ」
「あっ、そうなの。
 十年間、赤ん坊なんて産まなかったのに。
 女だってこと、覚えていたんだね、卵も」
「あなたもはやく、私に孫の顔を拝ませてちょうだいね」
「あたし、赤んぼ嫌いなんだ」
 ごくっごくっ、ぷぅー。
 缶コーヒーをのみほした、
 余韻は心にかからない。
  あたしの頭はボーと、してた。



(公園のベンチに二人座っている)



 なんだか映画のワンシーンのようだと胸がときめいた。
 いつまでも二人で一緒に夕焼けを見ていたい。
 そして、おなじ一日をあじわいたい。
 愛のふかさが共通点になるように。
 ずっとお互いのことを思いやれればいいのにねなんて、あたしは思う。
 ロマンチストな戯れ事だと彼は笑う。
 あたしは涙目になって、そんなこと言わないでと反発する。
 つめたくされると切なくなるから。

 あたしの心は揺れうごいている。
 彼以外の相手を欲している訳ではなかったが、あたしは自分に不満しかない女だからそうなんだ。
 それから彼を見ているだけで、簡単に一日は過ぎ去っていった。



(なに、これ?)



「どらっぐ、だよね」
「こっちのはカゼ薬かもよ」
「・・・ためしてみたい」
「やめときなよ」
「じゃぁ、やめとこ」

  なんてウソ。
 あたしはカプセルを口にほうりこんだ。
 したら意識がもうろうとして、薄もやの中で呼吸をとめて倒れている、いくつもの旅人の影をみたよな錯覚におそわれた。

 ああ、ちいさな波の音が聴こえてくる。
 波の静けさは孤独な闇模様、
 どこまでいけば時代の束縛を払うことができるだろう。
 あたしはいつも虚ろな箱だ。



(大通り、繁華な街のそんなとこ)



「進化の宿命って知っている?」
「なにそれ?」
「テレビでやってた、遺伝子とかなんとか」
「ブー、興味ない」
「アイスクリームかってあげるから話をききなよ」
「ハーゲンダッツのいっちゃん高いやつね」
「まァいいさ」
 ふたりはアイスクリーム屋の前へ、交差点ってのは苦手だなァ。
 みんな別々の道をもっていて好き勝手にゆきかうの。
 ときたま自分の道を忘れて顔もしらない誰かに引き込まれそうになる、不愉快なんだ。
「かってきてね、バニラ」
  入り口までで立ち止まって、彼だけを店のなかにいれたのだけど、後ろに見知った影をみつけて慌てて自分も店にとびこんだ。
「どうしたの、まっていればよかったのに」
「しっ、だまって、嫌いな奴がいるんだよ」
「子供みたいなことを、だれ?」
「いいたくないよ」
  それは姉の友人の橘春菜という女、もう結構な年だろうに、不相応な服装をして子供っぽい。
 透明感のある服や、つくっているのか地なのかわかりづらい満面の笑みも気に入らない。
 いまは結婚して子供がふたり、男の子と女の子。
 それらを連れて歩いている。
「なんか嫌な感じでしょ」
「そう、君が望んでいる生活があそこにあるからかと思ったよ」
 あたしは彼の背中にかくれて聞いていた。
 彼は笑っていなかった。



(久しぶりに姉が家にやってきた)



「今なにしてんの?」
「ウエイトレス」
「ながく続くといいね」
「どうだろうね」
 姉はいつも飄々としている。
 他人に苦痛を悟らせない、それでいて自由人。
「あたしの涙の半分くらいは疲れてもいいんだよ、お姉ちゃん」
「なにそれ?」
「なんとなくそんな感じ受けるから」
「ませたこと言うようになったんだね」
「もう結構な年なんだよ」
「耳どしまって言葉もあるからね。
 あまり世の中をみていないうちから自分を老人にするんじゃないよ」
 姉はいつも見透かしたものの言い方をする。
 あたしよりも立派という訳ではないけれど、なぜか頭があがらない。
 恋も色々しているようだ。
 あうたび男がかわっている。
「ねぇ、今日はなにしにきたの」
 おもいだしたようにきく。
「別に、ただ綾の顔がみたくなっただけ」
 そして姉は、いつもおどけてはぐらすのだ。
 他人に自分の内面を覗かれないように。
 そのためだけに人をからかっているようにもみえる。
 だからあんまり人望のある人じゃない。



(仕事ちゅう、オフィスで同僚の女の子と)



「はたらくのってさ、なんかダるくない」
「っていうかよく飽きないねェ、いつも同じこと言っちゃってさァ」
「性分なのよ、ほっといて」
  ディスクで鏡をみながら口紅を塗ってるあたしがいう。
「ありきたりの制服って地味じゃん、なんか男を惹きつける性的魅力のある服にしてほしいわよ」
 関心のない彼女は鬱陶しがっている。
「うらやましー、あんたの人生って楽しそう」
「そんなことないよ。
 ほらっ経理にいた宮村さん、結婚するって、知ってた? 
 世の中っていうか、とくにあたしらの周辺はバラ色の花びらが飛びかってんのよ。
 あたしもね、そろそろいい男つくって結婚してって、おもうのよ」
「あんた男いるんでしょ」
「なんで」
「わかるよ、そんな感じ」
「雫(しずく)は、雫はどーなの」
「んな、相手がいないよ」
「そっか、幸せになれたらいいのになって思ったのに」
「ラクができると思ってんだ」
「ちがうの?」
  ・・・
「おめでたいねェ、アンタは」



(はてさて)



 日がな一日ぶらぶらして、世間の素性も知らないのに憂鬱だ、憂鬱だと暮らしてても、愛すべき独裁者と下等生物の相反した衝動が、いつも喉につかえて弾きだせない。
 あたしは所詮、男の腕のなかで愛に抱かれることだけで満足してしまう女なのだと実感した。
「昨日さぁ、なんとかっていう陰陽師の先生が心霊について話してたんだけど見た?」
 男はいつも部屋にこもってばかりいる。
  そのせいか他人との人づきあいが下手、あたしとの会話もいつも現実ばなれが過ぎるのだ。
「ううん、みてない」
 あくびまじりの否定を彼は「じゃぁ言ってもしかたないなァ」とあきらめた。
 そして二人は退屈そうに煙草を吸った。
「ねぇ、やる」
 あたしがいうと「じゃァもう一回ね」と彼はいう。でも、ふたりの貪欲な性癖はそんな程度じゃおわらない。
  あたしが三回イッたあと、彼のうなじをひきよせて、あたしは彼にキスをする。
 そして、言った。

「結婚して頂戴、あたしと・・・」

 深い闇にかきけされて、透き通るものじゃないけれど、夢は静かにふけていった。



 あたしはトーストとレモンティーで朝の空腹をいやしながら、けっこう自分に都合のいい性格をしてるんだな、と自分におもって椅子をふなこぎをして揺らしていたが、その思考は唐突で、なんの脈絡もないことだった。
 足下で眠っている数匹の猫たちはフローリングの床が気持ちいいらしい。
「あたしにとって気持ちのいい処はひとつしかないんだよ」
 特別な感情が、ある一点についてのみ存在することを自分は知っている。
 これを愛と呼ぶであろうことも。
「猫は発情期に恋をするものなのかな、自分もそうなんだろうが」
 春先でもないのに発情して子を宿し産む卵のまえで、そんなことを口走る。
 猫は夢見心地で眠っている。
 きっと姉の露骨な感情表現がお前をこうしてしまったんだ。
 あたしは心の中に閉まってあるフレーズを胸にした。
 姉はなぜか、どういうわけか猫を好きじゃない人だから、十年間も卵にひどくあたっていた。  
 まァあたしも人のことは言えないけれど、姉の方がひどかった。
 だから、家で卵がすがるのは母しかいない。
 母は温厚な人だから些細な小事をとりあわない。
 あたしは無能な娘だから、その時の気分で態度が異なる。
 猫ですら毎日おなじ平穏を望んでいるのに、あたしは変化を求めていた。
「破滅だって変化のひとつさ、そうだろ」
  耳目にかかるその声は、すれ違いざま見知らぬ人のひとりごと。あたしの心は卑屈でもある。
 もう此処にはいられない。
  はやくあたたかい場所で、もっと陽のあたる縁側で、ふかく、ゆるやかな、今日とはちがう明日を、未来とよべる安穏を、そして心の適材適所、もう胸につかえた想いはもちきれない。なにもない、感情のとけこむ海の奥底へと沈んでいきたい、なんて感情・感情、その悲鳴、まるでロマンチストな子供の戯れだ。そう、卵と、その子供の淫行だ。どこにも愛はみあたらない。雌雄のまぐわい、安定に身をゆだねた痴れ者の後悔を罰した色事師の楽園だね。
 いつのまにか彼の心にあたしの声が届かなくなってきた意味、わかるかもしれない。
 姉の言葉を、彼女のその言葉でつなげるならば『幸福のLoopはまわりつづける』
 そういうことか。
 昨日、話のついでに姉がいった。
「綾ってさァ、あたしにとっては卵の子供みたいなもんだよね」
「名前をおぼえる必要もないくらい要らないものってこと」
「ふふっ、いつからそんな卑屈なものの考え方するようになったの」
「じゃァなにさ?」
「忘れることもあるけれど、しあわせになってほしい人ってこと。
 つまり大切だっていうことよ」
 なんだかよくわからない、それでも姉は天才だ。
 ときどき自分自身を汚らわしく、あさぐろい染みのように毛嫌って、壊し尽くしたくなるあたしなのに。
 あたしはこんなとき、自分を純粋なものとして例えられるような雰囲気にまどわされたとき、何がなんだかわからなくなる。
「あたしもだよ、気持ちではめいいっぱい避けてても、やっぱりお姉ちゃんは特別に大切なんだ」
 なんか、ふざけた。
 笑ってしまうけど、時にはそれもいいもんなんだ。
 男と女の肌触りだけで手探るものとは違う愛が、そこにはあるのかもしれないから。
 あたし自身の言葉をつかえば、きっとそれは『特別』ってこと。
 自分の中での特別な精神的つながりをいうのだけど、あたしにはどうも釈然としない暗黒の領域があって、それが彼との想いを遠ざけているようにおもう。きっとそれがわかれば彼とも分かりあえるかもしれないなァ、そう思うとつい気がはやって言ってしまった。
「結婚して頂戴。あたしと・・・」
 彼は静かにうなずいて、やさしくあたしに呟いた。
「そろそろ潮時かなって思ってた」
「ほんと?」
「ああ、僕らもそろそろ進展する時期なんだよ」
 夕闇の影にかきけされて透きとおるものじゃないけれど、耳朶にかかったその響き、あたしは決して忘れないだろう。



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