建前の向こう側

榾火

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建前の向こう側(後編)

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 今から会えないかな、と恋人に送ったメッセージの下に既読の文字は浮かばない。もう何回目になるコールにも、愛しいはずの人は出なかった。
「ほら、やっぱりな……」
 わかりきっていたことだ。あの子がもう、僕からの電話にでないであろうことぐらい。
 僕はマークの家を出て、わずかなステップを降りただけの通路にひとり案山子みたいに突っ立っていた。走り出すこともせず、右往左往してやきもきすることもせず、眉ひとつ動かすことはない。解は出た。僕が行動を起こしたことで、現実がはじき出した無慈悲な答えを、ごく素直に受け入れられるようになっていた。
 頭を駆け巡るのは恋人ではなく、別れ際に見た友人マーク・ノーマンの切なげな顔である。
 僕はスマホを持った手をゆっくりと下げた。
 そして迷うことなく振り返り、呼び鈴に人差し指を押し付けていた。


 扉が開く。
「僕だ」
「は──」
「開けてくれ」
「な……おま、ウィル。お前どうして戻って────」
 平凡でありきたりな僕の、これは博打とも言える一歩であった。
 ひどいやつだと、ずるい男だと、この世にあるありったけの言葉で罵ってくれて構わない。自分でも心底そうしてやりたいくらいだ。そりゃあそうだ。平静を装い、今だって空虚を抱える彼の心に付け入ろうとしているのだから。
 僕は最低な男だ。最悪な男だ。頭ではそう考えていながらも、僕の指先は既に開かれた扉の縁にかけられている。俺なら本能と欲望のままに迫ったろうな────だったかな。いずれにせよ、もう考えたところで止まれなかった。
「マーク」
 滑るように屋内へ入ると、僕はマークの逞しい首に飛び付いて、迷うことなく彼の半開きの唇へと吸い付いた。鞄は床に投げ捨てた。
 ドタバタと音を立てながら、飛びついた勢いに押されたマークが僕を受け止めながらたたらを踏んで後ずさる。彼が驚きに目を見張ったのはほんの一瞬のことだった。腰と背には鍛え抜かれた腕が回され、やがてダンスをするかのように立ち位置が入れ替わると、僕の身体は流れで廊下の壁に押し付けられた。
 キスが続く。互いに息が荒く、そして深くなっていく。マークは僕が出た後すぐに飲み直したのだろう。彼の口元から漂うアルコール臭はずいぶんと濃いものになっていた。
 ひと先ずは安心だ。どうやら彼は怒っていない。振り払われたり、罵倒されたりすることもなかった。
「ったく。お前……自分が何をしているのかわかってるのか」
 息を切らしながら彼が言い、
「そっちこそ。ならさっきの僕を見る目は何だったんだよ。ん──」
 牽制しようとするくせに、彼は僕がちらと出した舌をすかさず絡め取ってくる。よかった、と何度でも安堵する。僕も彼の舌に吸い付いた。下品きわまりない水音を立てながらバキュームのように徹底的に吸い上げられるのがたまらない。尻を両手で揉みしだかれ、背中や脇腹を服越しに激しく愛撫され、彼の言っていた「ちょっとばかし長めのキス」をされている間に、僕の股間は見事ジーンズを突き破らんばかりに膨張していた。彼のも硬い。
「は、お前若いな」
「お互いまだ三十二じゃないか」
「もう三十二だ。性欲が活発になるピークはとうの昔に過ぎてるよ」
 はあはあと肩で息をする。
「なあウィル」
「なんだよ」
 マークは唾を飲み込んだ。
「俺は優しいから警告してやるんだぞ。本当にいいのか、お前にはあの青年がいるってのに。これこそ正真正銘の浮気になるぞ。勢いのままに事を進めたらきっと後悔しか残らない。後々彼に責められた時、お前はそれらすべてに堪えられるのか。……あの子のことを、今度こそ本当に諦めるしかなくなるんだぞ」
 僕はほんの少しだけ視線を落とす。マークは僕の肯定とも否定とも取れないリアクションを受け、困ったように凛々しい眉を寄せていた。
 学生来の友人同士が、こんな風に廊下で股間を押し付け合いながら話し合う奇妙な構図は、どの動画配信サービスでも中々に見れたものではない。一度、偶然再生してしまった成人向けのエッチなビデオの冒頭で、男優が人妻役の女優に「お届け物です」と卑猥な動作でにじり寄るサムい導入を見たことがあったが、強いて言うならこの状況の可笑しさはそれに最も近いように思われた。
 マークは僕の両肩を掴むと歯を食いしばって腕を伸ばした。ヘーゼルの緑がかった色彩の瞳のなかには、発情し、紅潮した表情で誘うように見上げている僕、ウィルソン・へーリングの顔が居座っている。見たところ、僕は焦ってなどいなかった。寧ろ思った以上に平然とした面持ちで堂々と彼に向き合っている。言ってやりたい。「な、わかるだろ」と。僕はもう“彼”のことなど見ていないのだ。
 普段は飄々としている分、今は急な状況に狼狽えるマークが随分と可愛らしく、ティーンエイジャーの頃の尖っていた青年時代の彼のように見えてくる。
「冷静になれ、ウィル。今なら戻れる」
 戻る気なんてない。これは待ちに待った学生時代の再来なのだから。
「僕は冷静だよ。それに、見えているのならわかるだろ」
「だが」
「僕は、戻らない。君だって応えてくれたじゃないか。朗報だよ。どうやら君は男が相手でも平気らしい」
「不可抗力だ」
 ご無沙汰なんだよ、とマークはすっと視線を逸らす。そしてがしがしと頭を掻いて舌打ちをした。
「何とでも言え。で、俺がバイだってわかって満足か」
「満足?はっきり言ってこっちはお前以上の欲求不満だ。こんなもんじゃちっとも満足できやしない。そうだ……先にネタばらししておいてやるよマーク。実はもう、一ヶ月以上“彼”とは連絡を取れていないんだ」
「なんだって」
「つい先日、例のカフェがの前で彼を見かけたって言ったろ。その時だ。驚きながら改めてアプリの日付けを確認したら、レポート作成が忙しいから当分会えない、のメッセージを受け取ってからかれこれ二ヶ月が過ぎていた。僕の方も仕事で忙しかったけど、だからってテキストを送り合う時間ぐらいは毎晩確保していたつもりさ。なのにその間、彼からは一件の電話もメッセージも届かなかった」
 そんな、と彼が呟く。もちろん僕からも送っている。
「二ヶ月もあればどこかで連絡する余裕ぐらいはあったはずだろ。これで君もわかったか。僕と彼との仲はもう終わってるんだって」
「だが。しかし」
「なら言うよ。彼らは熱いキスまでしてた」
 流石に二人のその後は追っていない。が、どうせ腕を組んで歩いていった先にあるのはどちらかの自宅かモーテルだ。
「それは────」
「だから親しげにしていたと言ったろ。それともいつの間にこの国では口にするキスが挨拶の意味を持つようになったんだ。とにかくだ、これが僕と彼に関するリアルなんだよ。なあこれでもまだ君は僕の勘違いで通すつもりか」
「いや。……ああそうだな。もうこの話はいいだろう」
 僕は一歩踏み出してマークの肩に頭を預ける。そしてさり気なく彼の体臭を吸い込んだ。彼は意外にも後頭部をそっと撫でてくれた。見れば、マークのスウェットをテントのように押し上げていた彼の勃起も、会話をはさんだからか落ち着きを取り戻しつつあるようだ。

「確かに僕はビビってたんだろう。僕はゲイな上に……お前には黙ってたけど、生粋のネコだから。本当に久しぶりにできた恋人だったし、ひと回りも年下の男に言い寄って脚を開くには、僕としてもそれなりの時間と勇気ってものが必要だった。失敗したくないって、確かにそればかり考えてたよ」
 そうしている間にすっかり飽きられてしまったんだろうな、と告白する。僕とマークの間に長い沈黙が流れた。
 この時、男の肩口からすかすかの飾り棚が窺えた。平和と幸福に満ち溢れた家族写真が、やはり棚の上にたったふたつだけ残されている。他はすべて奥さんが持ち出したのだろう。この家に残された可視性の記憶は、今やたったのふたつぽっちになっていた。
 ふと、写真の中で微笑む女性と目が合ったような気がした。
 急に馬鹿らしくなってきた。僕の性器もすっかり萎えてしまった。先走りが出ていたせいか、この土地の温暖な気候のせいなのか、少し湿った下着が肌に貼り付くのだけが気持ち悪い。
「ビール、まだあるか。マーク」
「ああ」
 お前の口に残ってた酒だけでは足りないよ、と今度は僕はマークの肩を押すと許可も取らずにリビングへ向かって廊下を進む。
 大人しく後を付いてきた友人は、人様の家でビールを自棄になって呷る僕を邪魔しようとはしなかった。音も立てず隣に腰掛け、彼はしばらく天井のシーリングファンを見つめたまま微動だにせず、偉そうな態度の僕に小言を言うでもなく何事かを思案していた。
 だが二本目を開け、口をつけようとした腕を掴まれる。腕ごと銀色の缶がぐらりと揺れた。溢れた黄色い液体が僕と彼の間で宙を舞い、彼のTシャツやスウェットのズボン────その股間周りにいくつもの染みを生み出していく。見れば、マークのあそこはさっきよりも派手に勃起していた。彼の性器が灰色の薄い生地を天に向かって押し上げている。僕は少しぎょっとなって彼を見た。
 正直なところ、もうマークとも“終わり”だと思っていたから。
「……マーク。お前」
 部屋の隅に置かれたままの遊具の存在が彼の妻と娘の顔を想起させたが、僕はいろいろと考えたつもりの顔になって、図々しくも彼の双眸を舐めるようにじっと見つめた。熱の籠もった視線が絡み合う。
 何にせよ、自覚して浮気に踏み切った僕が友人を非難する資格はない。邪な想いを抱きながら良心を利用し、あまつさえ彼の心の隙間に付け入ろうとしていたのだから。いや、白状するのなら、今この瞬間にもその企みの灯火は消えていない。
 だが驚くべきことに、その燻りを煽ろうと薪をくべ、空気を送りこんだのは僕ではなく彼だった。
「酔ったか、ウィルソン。もう勃たないか」
 彼が缶を手から取り上げながら訊いてくる。
「いいや。平気だマーク」
「なら抱かせろ。ブランクはあるが……俺がクソガキの顔をすっかり忘れさせてやる」
 もう止められない。火は炎となって燃え上がる。
 マークが、僕の上に乗り上げた。


「酒臭くて悪いな」
「お互い様さ」
「ふ──ならまずはキスからだ」
 密着するカラダとカラダ。背丈はマークの方がやや高いとはいえ、僕と彼とで決定的に異なるのは体格だった。僕が細身なのに比べ、彼は明らかに胸板が厚く、筋肉質で傍目にもわかる頑健な体つきをしている。適度にがっしりとした胴のつくりが服越しにも感ぜられ、彼から放たれる圧倒的なまでの男の香りが僕の本能を刺激した。歳を重ね、良いように熟れつつあるオトコの身体。性格的に調子に乗りそうなので口にはしないが、もはやこれだけでも満足できそうなくらいの魅力が彼の身体には詰め込まれていた。
「どうした。ウィル」
 唐突に、はしたなく腰を押しつけたくなった。さっき服越しに見たアレの大きさが半端なかったのもあるだろう。要するに、早く確かめたくなったのだ。するとマークは口角をサーカスのピエロのよろしく釣り上げた。
「お望み通りに」
 その不敵な笑みは、学生の頃の彼と少しも変わってはいなかった。憧れだった不敵で豪快な笑い方。
 ジーンズ越しに彼のイチモツが押し付けられる。当然、僕のももう勃っていた。ごりごりと、力強く擦られる。布に突っかかって完全には上を向けていないであろう、苦しそうな彼の性器の姿が想像された。色々な意味で解放してやりたくなる。マークのモノに、僕は無意識に腰を持ち上げて押し当てた。
「でかい、な」
 たまらない。
「おいおい。俺のあそこで自慰に耽るお前も可愛らしいだろうが、それで発射しちまったら本番の分がなくなるんじゃないのか」
「マーク……」
「だってそうだろ。普通は二回も三回も気軽に出せるモンじゃねえんだぜ男ってのは」
 僕は股間を押し付ける──というより、半ば下から打ち付けながら、彼の頭を引き寄せると思い切って耳元で囁いた。「僕はイケるけど」と、お前はどうかと訊ねるつもりで、悪戯に。羞恥心をぐっと押し殺し、いっそ悪魔か娼婦にでもなったつもりで耳に息を吹きかけた。
 無言のまま、彼が僕の唇を塞ぎにかかる。バードキスもフレンチキスもすっ飛ばし、彼は僕の半開きの口腔内に舌をねじ込むと好き勝手派手に暴れ始めた。ああこれだ、と思う。僕は舌を吸われるのが大好きだ。口内を舐め回されるのが好きなのだ。マークの首に腕を回し、僕らは衣服越しに腰を押し付け合いながら、しばらくマイルドでもどかしい快感を楽しんだ。
「脱ぎたいか」
「脱ぎたい。一枚一枚脱がせてくれよ」
「ああ。いいぜ。それこそ熟れた果物の皮を剥ぐみたいにな」
 彼が僕のシャツのボタンを外していく。背中を浮かせてやれば、マークが服を腕から抜いて投げ捨てる。次いで起き上がって自らのTシャツを脱ぎ、また次は僕のベルトのバックルを引っ掴んで、手品師も顔負けの速度でジッパーを下げると、言っていた割にはズボンを下着ごと脚から引き抜いた。あっという間に剥かれてしまった。
「何が果実だよ」
「すまんすまん」
 既に反応しきっていた僕のペニスがアンテナのように反り返る。マークは僕のそれを見て僅かに微笑んだだけで、一旦ソファから離れると、仁王立ちのまま今度は自らのスウェットを下ろし始めた。だが何故かさっきまでの性急さはない。寧ろ脱いでいく様子を、横たわる僕に見せつけるかのようだった。彼の勃起がぎりぎりのところで下着とスウェットに引っ掛かり突っ張っている。僕は思わず唾を飲み込みながら凝視した。髪色と同じダークブラウンの下生えが見えている。あとはその下にぶら下がる中心が、怒張したモノが、今に彼の割れた腹筋へと跳ね返るだけ────
 ばちん、といよいよ彼の性器が布の呪縛から解放された。マークのペニスは、やはり僕の思っていた通りの姿をしていた。
「どうだ。気に入ったか」
「──」
「なるほど。言葉も出ないってか。そりゃ嬉しいね」
 勃起させたまま、彫刻同然の鍛えられた裸体が再びソファへと乗り上げてくる。剥き出しの股間が隙間なく合わさり、ややしっとりとして熱を持った肌が彼の鼓動を律儀に伝達してくれた。待ちに待った感覚だった。視覚作用だけで射精してしまうかと思うほど馬鹿みたいに興奮しているのが嫌でもわかる。
 ────これが、長年友人だった男の現在いまの身体か。
 喉が鳴る。僕は彼の頭に手を添えて自ら彼の唇を塞ぎにかかった。
 早くもっと激しく夢中になってしまいたい。律動が始まる。性器同士の硬くなった表面が擦れ合い、なのにそれだけの動作で、僕はあっという間に高みへと連れて行かれそうになっている。
「いいぜ、出せよ」
「いやだ」
「いやだじゃないだろ。自然なことだ。まさかのまさか、俺も早々にイキそうなんだよ。ただ擦り付けてるだけなのに、これがどうしてか気持ちよくてな」
 でも安心しな、これで空っぽになる玉じゃない。タンクが空にならなければ平気だろ、とマークは僕の上で動き続ける。せっかくのソファが、と僕が要らぬことを呟くと、これはきっとお前とのために買ったのさ、などとふざけたことを宣った。
「出る、本当に出ちまう、マーク」
「俺もだ。良い感覚だ。種が迫り上がってきたぜ。……反省しないといけないな。前戯に時間を掛け過ぎたんだ。少しの刺激だけで射精しそうだ」
「あ、っ」
「は。なんだよ、エロスの権化みたいな野郎だなお前は。あーやべえ。そろそろだ」
「くっ、あ」
 本当に押し付け合っているだけだ。なのに心底気持ちがいい。唇をまた塞がれる。
 僕は今、最悪なことに最高な気分で射精の時を待っている。僕を見下ろす色男の目をじっと逸らさず見つめていると、マークの手がついに股間へと伸び、僕らのペニスを二本まとめて扱き始めた。
「あ、ッ」
 電撃のような刺激が走った。喘ぎ声を殺す余裕も気力もなくなった。もう、僕も彼も限界だった。
「イクぞ」
「僕も。あ──」
 びくんびくん、と表するのは安いポルノのようで下品だろうか。刹那、射精しながら僕の身体はそんな風に上下に跳ねた。水揚げされた魚のように、寒い時にぶるりと身震いするように。精液が鈴口から我先にと飛び出していく。
 ────気持ちがいい。組み敷かれていた僕の上半身に、白濁とした二人分の体液がぱたぱたと雨だれとなって降り注ぐ。マークの精液は随分と濃かった。ぴゅ、ぴゅと僕のへそにまで流れた彼の精液を思わず指ですくい取る。
 マークが微笑んだ。
「少し休もう。……そうしたら、お待ちかね二回戦目の始まりだ」
 僕は肩で息をし脚を開いたまま頷いた。壁際の残されたベビーベットや廊下の少なくなった写真立ての存在を、今だけは明確な意図をもって思考の外へと追いやった。


「すごいな。全部で三回はヤったか」
「しかも扱いたり舐めたりしただけっていう……」
「まあな。でも大満足だ。学生だった時でも挿入ナシは物足りなく感じたもんだが」
「おい」
「悪い悪い。……完全にマナー違反だな俺の今の発言は」
 だから彼女にも愛想を尽かされたんだろうな、と彼は目を伏せ自嘲する。
「こういうところだよな、俺は」
 離婚の理由はまだ彼に訊ねることができないでいる。でも理由はそれほど変わったものではないはずだ。きっと、どこかで二人の価値観がすれ違うことがあったのだ。今みたいな瞬間や余計なひと言が積み重なって、そして出来上がった山が、ほんの少しの弾みで土砂崩れを引き起こしたのかもしれなかった。
「なあウィルソン」
「ん?」
「その、さ。一緒に住まないか。……よければここで。虫が良すぎるのはわかってる。だが俺もそろそろ前に進みたいんだ」
 寝室のベッドの上で、全裸のままの彼が言う。
「答えはイエスだ。卑しいやつだと思うかもしれないが、僕にはその回答しか出せないよ。好きだったんだ、昔から。……マーク、お前のことが」
「ああ」
「もしかして気が付いていたのか」
 いや、と彼が首を振る。
「確信はなかった。だがお前の視線は時折ひどく熱かった。思わず目を逸らしたくなるくらいには」
「そうか」
「一歩でも踏み込めば友人ではいられなくなるだろうという予感があった。変に近付いて勝手にお前を嫌いになりたくはなかったし、二度と普通と呼ばれる生活にありつけなくなるんじゃないかと思うと、あの時の俺にはお前を受け入れるだけの度胸も度量もなかった」
「普通の生活、か」
「気を悪くしないでくれよ」
 僕は彼の腕の中でくすりと笑う。
「しないよ。気持ちはわかる。僕なんかまだ親に趣向を打ち明けられずに悩んでいる身だからね。僕にもわかるよ。普通という名の理想というか、そんな感じの概念が至高に思えるあの感覚は」
 ドラマで言うのなら、まさに恋人を追いかけて橋の上を駆け抜ける疾走感に溢れたカットのような。姿を消そうとしている恋人を引き留め、人目も憚らず熱い台詞を叫び合う場面。固く抱き合い、爽やかな口付けを交わすクライマックス。やがてカメラが遠景になり、二人の姿が小さくなり始めた頃にエンドロールが流される展開に至るまで、そのどれもこれもがありきたりなのに、凝りずに同じようなのが作られては放映されている。だが僕はそれらを存外嫌いになれない質だった。それは、これらの“お決まり”は最後に必ず僕を「ああ良かった」という思いにさせてくれるからだと思う。
 そんな“普通”に憧れた日は僕にもあった。
 でも僕は普通という枠組みに在る人間ではなかった。普通にはなり得ないこの僕こそが普通だというのに、大人になって突きつけられた現実は、僕を少数派として異端呼ばわりするものだった。受け入れることすら時間がかかり、気が付けば三十を過ぎている。
 ならば、ノーマルに近いと自負していたであろうマークはどれほど悩んだことだろう。“普通”とタグ付けられるもののいかに少ないかを知った時、彼は僕以上に打ちのめされ、そして孤独を感じたのではないだろうか。
 離婚が、僕を受け入れる契機になったのだろうか。

 彼の指先が僕の眉間をつついた。
「今度こそ休もう」
「ああ」
「時間ならある。……積もる話はそれからだ」
「好きだぜ、ウィル」
「僕もだよ。マーク」
 僕は彼の肩に頭を寄せた。
 彼とふたり。見つめ合い、そしてタオルケットに包まっていると、やがて穏やかな睡魔が僕の意識をさらっていった。
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