55 / 56
3.ただ一つの祝福を
5
しおりを挟む
前日まで降り続いていた雨が嘘のように止んだのは、神も今日という日が両国にとってどれ程重要なものかを理解しているからだろう。
王都を濡らした雨は、幸いにもアカネース国の姫が一晩を過ごしたゼレノスの街までは足を伸ばさなかったらしい。よほど、太陽に気に入られた娘なのだろうか。
本日の主役である少年は純白の衣装に身を包み、控え室の窓から晴れ渡る空を見上げた。
雪の多いレイノアール王国では、冬季は常に灰色の雪雲が空を覆い、夏期になればほとんどが曇天で空は滅多に晴れることがない。
目の前に広がる青空も、彼がこの国で目にしたのは一ヶ月ぶりだった。
きれいな空だとは、思う。しかし、少年の心の曇天は決して晴れることはなかった。
「せめて神様くらいは祝ってくれないと、僕だってやってられないよ」
一人ため息を吐き、少年は大きく肩を落とした。
同じ晴れた空ならば、アカネース国で目にした茜色の夕焼け空の方がレオナルドの目には美しく映った。眩しすぎて眺め続けるには不適な色であったが、それでも身を包む温もりは灰色の空の下では遠く手は届かない。
長年、戦争を続けてきたアカネース王国との間に停戦条約が結ばれた。
理由は様々であったが、最も大きな理由は長い戦争による両国の疲弊だ。
アカネース王国はかねてよりレイノアール王国へと停戦の要求を申し出ていた。
しかし、先代のレイノアール王にとってアカネース国の制圧は悲願であり、王国繁栄のためにも譲れぬ道であった。その先代が病で亡くなり、現国王の英断でレイノアール王国は和平条約を結ぶ道へと大きく舵を切った。
戦争で大きく疲弊したのは、防衛に回りがちであったアカネースよりも侵攻を繰り返したレイノアール国であった。
この和平条約の下に両国間の人や物の出入りの規制を撤廃し、それぞれの特産物や文化、技術の行き来を可能とする。
侵略による一方の国の発展ではなく、両国が共に進歩していく道を選んだ。
そして、両国王家の婚姻による二国間の関係の強化が停戦条約の条件の一つにある。
本日の婚姻をもって、正式に停戦条約は意味を為すこととなる。
しかし、誰もがわかっているのだ。両国間の婚姻など、関係を深めるためのものではないのだと。
レイノアール王国に嫁ぐアカネース王家の姫など、しょせんは人質でしかない。
そしてアカネース王国にとっても、仮に人質に危害が加えられれば、正式に攻め込む理由となる。
共存を望む両国王の思いに嘘はないだろう。しかし、人々が他国を完全に信用することが出来ず、婚姻という名の人質を必要とするのは避けられないことだった。
レオナルドは巡らせていた考えを掻き消すように首を振る。
自分も、そしてまだ見たこともないアカネースの姫も、同様に虚しく哀れな駒でしかないのだから何を考えても意味はない。
所詮は、国のための人質同士。
相手に同情はするが、それ以上の気持ちはない。あえて親しくしようとも思わない。
互いに無難な距離感で、両国の和平の証として無礼なく生活が出来れば十分だろうと少年は考える。そのためにアカネースの姫の身を守ることはあっても、それは決して感情的な行動ではないだろう。
現に、自分の部下を彼女の元へ向かわせたのもそうすることが当然だと判断したからであった。正妃の魔の手が忍び寄っているのならば、守るために手を尽くすのは夫としての義務だ。
元より、レオナルドは誰を嫁に貰おうが変わりはなかった。地位に見合う嫁を貰い、自分の立場と相手の立場を重んじた距離感を保ったまま、決してその距離を埋めずに問題を起こさずに生きていくだけ。
「レオナルド様、準備はよろしいでしょうか」
控えめなノックの音と共に、宰相が声を掛ける。
否、レオナルドはそう答えてみようかと思い、実行するのは止めた。
発想があまりにも子供じみていて、馬鹿馬鹿しくなる。
例えば、迎えに来た者がアレクシスやジュルジュであったならそのような些細な戯れも楽しめただろう。しかし、彼らはすでに式の会場である大広間に控えているため、式の開始以前にレオナルドが顔を合わせることはない。
「……はい、問題はありません」
自分自身の手で扉を開き、レオナルドは自分を待ち構える宰相を見上げた。
柔らかで人当たりの良い笑みを浮かべているが、男の本心が穏やかでないことはレオナルドにもよくわかっていた。この宰相は前王よりも現王寄りの反戦派であるが、だからといってアカネース国に友好的ではない。
これから嫁いでくる姫に対して、敵意をもって迎え入れるつもりでいるだろうことは張り付いた笑みから容易に推測できた。
レオナルドの心など知るよしもなく、レイノアール王家の花婿姿を爪先から頭の先まで不躾に見回し、宰相は満足そうに頷く。
「良いですね。これなら、あちらに侮られることもないでしょう。向こうのドレスはどうにも安っぽく見えましたからね。違いを見せてやらねばなりません」
そんなこと、勝手にやってくれ。レオナルドは心の中で舌打ちをし、歩き出した宰相に続いた。
目の前には、大広間に続くきらびやかなドアが見える。
この先に、まだ見ぬ隣国の姫が待つ。
彼女は、どんな気持ちでレオナルドを待っているのだろうか。自分と同じように割りきった考えなのか、それとも不本意な婚約に納得が行かぬままそこにいるのだろうか。
模範的な姫であることは耳にしている。それでも、この婚姻に理解は出来ても納得は出来ていない可能性は捨てきれない。
考えたところで、レオナルドには知る手段などない。その手段があったところで、知りたいとも思わないが。
レオナルドが彼女に思うことは、ただ一つ。
「……僕もあなたも、神様にしか祝ってもらえそうにないみたいだね」
憐れな生け贄として生きていくしかない。同じ境遇の姫には同情以外の感情は抱けそうになかった。
「ん? どうかいたしましたか?」
「別に、何でもないです。早く行きましょう」
まだ見ぬ婚約者に向けた言葉を、誰かに聞いてもらいたいとは思わなかった。
王都を濡らした雨は、幸いにもアカネース国の姫が一晩を過ごしたゼレノスの街までは足を伸ばさなかったらしい。よほど、太陽に気に入られた娘なのだろうか。
本日の主役である少年は純白の衣装に身を包み、控え室の窓から晴れ渡る空を見上げた。
雪の多いレイノアール王国では、冬季は常に灰色の雪雲が空を覆い、夏期になればほとんどが曇天で空は滅多に晴れることがない。
目の前に広がる青空も、彼がこの国で目にしたのは一ヶ月ぶりだった。
きれいな空だとは、思う。しかし、少年の心の曇天は決して晴れることはなかった。
「せめて神様くらいは祝ってくれないと、僕だってやってられないよ」
一人ため息を吐き、少年は大きく肩を落とした。
同じ晴れた空ならば、アカネース国で目にした茜色の夕焼け空の方がレオナルドの目には美しく映った。眩しすぎて眺め続けるには不適な色であったが、それでも身を包む温もりは灰色の空の下では遠く手は届かない。
長年、戦争を続けてきたアカネース王国との間に停戦条約が結ばれた。
理由は様々であったが、最も大きな理由は長い戦争による両国の疲弊だ。
アカネース王国はかねてよりレイノアール王国へと停戦の要求を申し出ていた。
しかし、先代のレイノアール王にとってアカネース国の制圧は悲願であり、王国繁栄のためにも譲れぬ道であった。その先代が病で亡くなり、現国王の英断でレイノアール王国は和平条約を結ぶ道へと大きく舵を切った。
戦争で大きく疲弊したのは、防衛に回りがちであったアカネースよりも侵攻を繰り返したレイノアール国であった。
この和平条約の下に両国間の人や物の出入りの規制を撤廃し、それぞれの特産物や文化、技術の行き来を可能とする。
侵略による一方の国の発展ではなく、両国が共に進歩していく道を選んだ。
そして、両国王家の婚姻による二国間の関係の強化が停戦条約の条件の一つにある。
本日の婚姻をもって、正式に停戦条約は意味を為すこととなる。
しかし、誰もがわかっているのだ。両国間の婚姻など、関係を深めるためのものではないのだと。
レイノアール王国に嫁ぐアカネース王家の姫など、しょせんは人質でしかない。
そしてアカネース王国にとっても、仮に人質に危害が加えられれば、正式に攻め込む理由となる。
共存を望む両国王の思いに嘘はないだろう。しかし、人々が他国を完全に信用することが出来ず、婚姻という名の人質を必要とするのは避けられないことだった。
レオナルドは巡らせていた考えを掻き消すように首を振る。
自分も、そしてまだ見たこともないアカネースの姫も、同様に虚しく哀れな駒でしかないのだから何を考えても意味はない。
所詮は、国のための人質同士。
相手に同情はするが、それ以上の気持ちはない。あえて親しくしようとも思わない。
互いに無難な距離感で、両国の和平の証として無礼なく生活が出来れば十分だろうと少年は考える。そのためにアカネースの姫の身を守ることはあっても、それは決して感情的な行動ではないだろう。
現に、自分の部下を彼女の元へ向かわせたのもそうすることが当然だと判断したからであった。正妃の魔の手が忍び寄っているのならば、守るために手を尽くすのは夫としての義務だ。
元より、レオナルドは誰を嫁に貰おうが変わりはなかった。地位に見合う嫁を貰い、自分の立場と相手の立場を重んじた距離感を保ったまま、決してその距離を埋めずに問題を起こさずに生きていくだけ。
「レオナルド様、準備はよろしいでしょうか」
控えめなノックの音と共に、宰相が声を掛ける。
否、レオナルドはそう答えてみようかと思い、実行するのは止めた。
発想があまりにも子供じみていて、馬鹿馬鹿しくなる。
例えば、迎えに来た者がアレクシスやジュルジュであったならそのような些細な戯れも楽しめただろう。しかし、彼らはすでに式の会場である大広間に控えているため、式の開始以前にレオナルドが顔を合わせることはない。
「……はい、問題はありません」
自分自身の手で扉を開き、レオナルドは自分を待ち構える宰相を見上げた。
柔らかで人当たりの良い笑みを浮かべているが、男の本心が穏やかでないことはレオナルドにもよくわかっていた。この宰相は前王よりも現王寄りの反戦派であるが、だからといってアカネース国に友好的ではない。
これから嫁いでくる姫に対して、敵意をもって迎え入れるつもりでいるだろうことは張り付いた笑みから容易に推測できた。
レオナルドの心など知るよしもなく、レイノアール王家の花婿姿を爪先から頭の先まで不躾に見回し、宰相は満足そうに頷く。
「良いですね。これなら、あちらに侮られることもないでしょう。向こうのドレスはどうにも安っぽく見えましたからね。違いを見せてやらねばなりません」
そんなこと、勝手にやってくれ。レオナルドは心の中で舌打ちをし、歩き出した宰相に続いた。
目の前には、大広間に続くきらびやかなドアが見える。
この先に、まだ見ぬ隣国の姫が待つ。
彼女は、どんな気持ちでレオナルドを待っているのだろうか。自分と同じように割りきった考えなのか、それとも不本意な婚約に納得が行かぬままそこにいるのだろうか。
模範的な姫であることは耳にしている。それでも、この婚姻に理解は出来ても納得は出来ていない可能性は捨てきれない。
考えたところで、レオナルドには知る手段などない。その手段があったところで、知りたいとも思わないが。
レオナルドが彼女に思うことは、ただ一つ。
「……僕もあなたも、神様にしか祝ってもらえそうにないみたいだね」
憐れな生け贄として生きていくしかない。同じ境遇の姫には同情以外の感情は抱けそうになかった。
「ん? どうかいたしましたか?」
「別に、何でもないです。早く行きましょう」
まだ見ぬ婚約者に向けた言葉を、誰かに聞いてもらいたいとは思わなかった。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
旦那様は大変忙しいお方なのです
あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。
しかし、その当人が結婚式に現れません。
侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」
呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。
相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。
我慢の限界が――来ました。
そちらがその気ならこちらにも考えがあります。
さあ。腕が鳴りますよ!
※視点がころころ変わります。
※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。
秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚
13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。
歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。
そしてエリーゼは大人へと成長していく。
※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。
小説家になろう様にも掲載しています。
身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁
結城芙由奈
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】
妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる