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3.ただ一つの祝福を
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数時間前までは不規則に揺れていた馬車が、嘘のように穏やかな足取りで進み始めた頃。
「見えてきましたよ、リーゼロッテ様」
そこにいることが当たり前のような口ぶりで、進行方向に設置された小窓から外を指差したのはリーゼロッテの正面に腰かけているジョルジュである。
仮面の奥には笑みが浮かんでいるのだろう。しかし、リーゼロッテにそれを確かめる方法はない。
ジョルジュの指先に従って、リーゼロッテは体を僅かに前のめりに彼との距離を詰める。小窓の先にそびえる冷たい要塞を瞳に映し、声にならない息を漏らした。
「あれが王都ですか……?」
「えぇ。仰々しい外観でしょう? 城壁には大砲も忍ばせているんですよ」
しばらくリーゼロッテは灰色の城壁に囲まれた王都を眺め、ゆっくりと元の位置に座り直す。
街を覆い尽くすように建設された城壁。リーゼロッテには、それが何のために必要とされているのかがわからなかった。
「なぜ、何重にも壁が街を覆っているのですか? ここまで攻め込まれたときのためでしょうか」
当然の疑問だと頷いて、ジョルジュはゆったりと言葉を紡ぐ。
「ここまで攻め込まれてしまったらもう押し返すことはできないでしょうね。あの城壁は雪避けです」
「雪避けですか?」
リーゼロッテは雪を知らない。
比較的温暖なアカネース国の中でも中心部に位置する王都は特に気候の変動が少なく、冷気を運ぶ風も届かぬ内陸部のため本物の雪というものに触れたことがないのだ。
そのことについてはジョルジュも承知している。雪の恐ろしさを知らない彼女が不思議そうな顔をしていることに一片の嘲笑も浮かべず、ジョルジュは苦笑を浮かべてみせた。
「多くの雪が建物の上に積もると、その重みで建物が潰れてしまうことがあるのですよ。それを防ぐために、民家などは壁の影になる位置に建てるようにしているのです。壁に当たった雪はそのまま除雪溝に落ちて、街の生活用水として活用しています。さすがに飲み水には出来ないですけどね」
「あの、ジョセツコウとはなんですか? 壁の下に穴が掘られていて、そこに雪が落ちるということでしょうか?」
「えぇ、はい。その認識で問題ありません。申し訳ありません、リーゼロッテ様。貴方様の国に存在しないものだということをすっかり忘れておりました」
顔を伏せたジョルジュに向けて、リーゼロッテは微笑みと共に片手を振って気にすることはないと口にした。わざと知らない言葉を使って会話をされたり、嘘の意味を教えられることはリーゼロッテにとっては日常的で、些細な問題でしかなかった。
それよりも彼女が興味を示したのは、過酷な環境に晒されても知恵と工夫で乗り越えようとするレイノアール国の姿勢だった。
「アカネース国の方が良い武器を生産することが出来るのに、戦争で中々レイノアール国を上回れなかった理由に納得がいきました。私たちは良い環境、良い資源に甘えて工夫するということをしていなかったのですね」
彼女の言葉に、敢えてジョルジュは答えなかった。彼の考察はリーゼロッテに重なる部分もあるが、アカネース国が攻めきれない根本的な理由は別にあると考えている。
しかし今、レオナルドの元へ向かう馬車の中でわざわざ語り合うような話には思えなかった。
「あぁでも、雪も決して悪い印象ばかりではないのですよ」
わざと明るい声を出し、ジョルジュは仮面の隙間から細く弧を描く目を覗かせた。にこにこと子供のように微笑む姿に、リーゼロッテは気持ちを切り替えて同様に頬を緩めた。
「レイノアール国では初雪の日に結ばれた繋がりは未来永劫破られることはないと言われているんです」
「繋がりですか?」
「はい。漠然としていますが、特に結婚式を挙げるには打ってつけの日ですね。後は初雪の日の出会いも縁起がいいとされています」
そう言ってジョルジュは小窓から窺える青い空の眩しさに目を細めた。王都ではまだ初雪が降ってはいないそうだが、いつ降ったとしてもおかしくないこの時期に灰色の雲が空から姿を消すことは珍しい。
この後行われるレオナルドの婚姻を祝った神様の気遣いなのだとしたら、せめて雪を降らせてくれればいいのにとジュルジュは思う。珍しい快晴を不気味なものとして吹聴しそうな人間の顔を頭に浮かべ、ジョルジュはリーゼロッテへと向き直った。
「残念ながら今日は雪が降りそうにありませんが……」
「ですが、それならレオナルド様と初雪を見ることが出来るかもしれないということでしょう? 今雪が降るよりも、私は一緒に見ることの出来る方が嬉しく思います」
リーゼロッテの微笑みに嘘はない。晴れた空と近付く王都を瞳に宿し、まるで美しく輝く朝日の中にいるような目で笑うリーゼロッテに、ジョルジュは少しだけ悪戯心が掻き立てられる。
「リーゼロッテ様は変わられておりますね。普通、顔も知らない他国の……しかも敵であった国の王子に嫁ぐなど快く受けられることではないでしょうに」
表情を動かさずに、リーゼロッテは仮面に覆われたジョルジュに目を向けた。言葉の裏にあるジョルジュの意図を探ろうと思考を巡らせていることは、イヴァンから報告を受けた人となりから容易に想像できる。ジョルジュはその隙を与えぬように、言葉を続けた。
「見えてきましたよ、リーゼロッテ様」
そこにいることが当たり前のような口ぶりで、進行方向に設置された小窓から外を指差したのはリーゼロッテの正面に腰かけているジョルジュである。
仮面の奥には笑みが浮かんでいるのだろう。しかし、リーゼロッテにそれを確かめる方法はない。
ジョルジュの指先に従って、リーゼロッテは体を僅かに前のめりに彼との距離を詰める。小窓の先にそびえる冷たい要塞を瞳に映し、声にならない息を漏らした。
「あれが王都ですか……?」
「えぇ。仰々しい外観でしょう? 城壁には大砲も忍ばせているんですよ」
しばらくリーゼロッテは灰色の城壁に囲まれた王都を眺め、ゆっくりと元の位置に座り直す。
街を覆い尽くすように建設された城壁。リーゼロッテには、それが何のために必要とされているのかがわからなかった。
「なぜ、何重にも壁が街を覆っているのですか? ここまで攻め込まれたときのためでしょうか」
当然の疑問だと頷いて、ジョルジュはゆったりと言葉を紡ぐ。
「ここまで攻め込まれてしまったらもう押し返すことはできないでしょうね。あの城壁は雪避けです」
「雪避けですか?」
リーゼロッテは雪を知らない。
比較的温暖なアカネース国の中でも中心部に位置する王都は特に気候の変動が少なく、冷気を運ぶ風も届かぬ内陸部のため本物の雪というものに触れたことがないのだ。
そのことについてはジョルジュも承知している。雪の恐ろしさを知らない彼女が不思議そうな顔をしていることに一片の嘲笑も浮かべず、ジョルジュは苦笑を浮かべてみせた。
「多くの雪が建物の上に積もると、その重みで建物が潰れてしまうことがあるのですよ。それを防ぐために、民家などは壁の影になる位置に建てるようにしているのです。壁に当たった雪はそのまま除雪溝に落ちて、街の生活用水として活用しています。さすがに飲み水には出来ないですけどね」
「あの、ジョセツコウとはなんですか? 壁の下に穴が掘られていて、そこに雪が落ちるということでしょうか?」
「えぇ、はい。その認識で問題ありません。申し訳ありません、リーゼロッテ様。貴方様の国に存在しないものだということをすっかり忘れておりました」
顔を伏せたジョルジュに向けて、リーゼロッテは微笑みと共に片手を振って気にすることはないと口にした。わざと知らない言葉を使って会話をされたり、嘘の意味を教えられることはリーゼロッテにとっては日常的で、些細な問題でしかなかった。
それよりも彼女が興味を示したのは、過酷な環境に晒されても知恵と工夫で乗り越えようとするレイノアール国の姿勢だった。
「アカネース国の方が良い武器を生産することが出来るのに、戦争で中々レイノアール国を上回れなかった理由に納得がいきました。私たちは良い環境、良い資源に甘えて工夫するということをしていなかったのですね」
彼女の言葉に、敢えてジョルジュは答えなかった。彼の考察はリーゼロッテに重なる部分もあるが、アカネース国が攻めきれない根本的な理由は別にあると考えている。
しかし今、レオナルドの元へ向かう馬車の中でわざわざ語り合うような話には思えなかった。
「あぁでも、雪も決して悪い印象ばかりではないのですよ」
わざと明るい声を出し、ジョルジュは仮面の隙間から細く弧を描く目を覗かせた。にこにこと子供のように微笑む姿に、リーゼロッテは気持ちを切り替えて同様に頬を緩めた。
「レイノアール国では初雪の日に結ばれた繋がりは未来永劫破られることはないと言われているんです」
「繋がりですか?」
「はい。漠然としていますが、特に結婚式を挙げるには打ってつけの日ですね。後は初雪の日の出会いも縁起がいいとされています」
そう言ってジョルジュは小窓から窺える青い空の眩しさに目を細めた。王都ではまだ初雪が降ってはいないそうだが、いつ降ったとしてもおかしくないこの時期に灰色の雲が空から姿を消すことは珍しい。
この後行われるレオナルドの婚姻を祝った神様の気遣いなのだとしたら、せめて雪を降らせてくれればいいのにとジュルジュは思う。珍しい快晴を不気味なものとして吹聴しそうな人間の顔を頭に浮かべ、ジョルジュはリーゼロッテへと向き直った。
「残念ながら今日は雪が降りそうにありませんが……」
「ですが、それならレオナルド様と初雪を見ることが出来るかもしれないということでしょう? 今雪が降るよりも、私は一緒に見ることの出来る方が嬉しく思います」
リーゼロッテの微笑みに嘘はない。晴れた空と近付く王都を瞳に宿し、まるで美しく輝く朝日の中にいるような目で笑うリーゼロッテに、ジョルジュは少しだけ悪戯心が掻き立てられる。
「リーゼロッテ様は変わられておりますね。普通、顔も知らない他国の……しかも敵であった国の王子に嫁ぐなど快く受けられることではないでしょうに」
表情を動かさずに、リーゼロッテは仮面に覆われたジョルジュに目を向けた。言葉の裏にあるジョルジュの意図を探ろうと思考を巡らせていることは、イヴァンから報告を受けた人となりから容易に想像できる。ジョルジュはその隙を与えぬように、言葉を続けた。
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