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2.雪の降る国
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苦笑を溢したゴーゼルの真意が掴めず、ヴィオレッタは彼を見ないまま眉を潜めた。そもそも彼女はリーゼロッテのことなど知りたいとは思っていない。
「見知らぬ土地の見知らぬ相手に嫁ぐということが、不安でないはずがないとリーゼロッテ様は仰っていたよ。誰でも、そうだと」
ゴーゼルにそう言い放ったリーゼロッテの微笑みには、欠片の不安も浮かんではいなかった。言葉が真実か、微笑みが真実か、ゴーゼルには知る術もなかったが、リーゼロッテが何故そのように答えたかゴーゼルにはわかってしまった。
目の前で子供のように拗ねて見せるヴィオレッタ。
彼女もまた、不安を抱えているのだということをリーゼロッテは暗に示唆していた。
そして同時に、未だに不安を抱えさせているのは誰の責任か、遠回しに責め立てていた。
「ヴィオラ、私は君に謝らなければならないことがいくつもある」
突然何を言い出すのかと、ヴィオレッタは訝しむような瞳でゴーゼルを見上げた。いつも微笑みを浮かべている細い瞳が、どうしてか今は普段と違っているような気がした。
「私は君に対して、色々と説明が足りなかった部分が多かったと思う」
「何を言いたいのか、全くわからないのだけれど」
「私たちは夫婦としての努力が足りなかったのだということだ」
私たち、と一括りにされたことがヴィオレッタの中で引っ掛かり、彼女の瞳が鋭さを増す。少なくとも彼女はゴーゼルの妻となるために努力をしていた時期はあった。
嫁いだばかりの頃は、幼いながらに眠い目を擦りながら帰りの遅いゴーゼルを待っていた。仕事の話はわからないし、家事が出来るわけでもない。子供の身では社交の場で出来ることもたかが知れている。僅かでも一緒にいる時間を作ることしか、十歳の娘には出来なかったのだ。
しかし、その気持ちを踏みにじったのは他でもないゴーゼル自身。次第にヴィオレッタは彼を待つことはしなくなり、緩やかの二人の時間はすれ違い始めた。
「私たちが上手くいかないのは全部貴方のせいじゃない……!」
「またそうやって子供じみたことを……」
そこまでを口にして、ゴーゼルははっと言葉を飲み込む。
ヴィオレッタは子供じみているのではない。本当の意味で、彼女はまだ子供なのだ。
普通の十七歳とは違う。十歳という成長の途中で嫁いでしまった彼女は、未熟なまま自分自身を磨き上げる時間を剥奪されてしまったのだ。
「……ゴーゼル?」
彼が言葉を止めたことが不思議だったのだろう。ヴィオレッタは険しく細められていた瞳を丸くして、ゴーゼルの顔を覗き込むように彼を見上げた。
「今さらと怒るかもしれないが、ヴィオラさえよければこれからはなるべく食事を一緒にしたいと思うんだが」
「え?」
「君さえ良いのなら、だ。ただ、この時間では私も難しいので、少しだけ時間を遅くして欲しいのだけれど」
思いもよらない提案に、ヴィオレッタは驚き固まってしまう。上手く頭も回らない。この人は何か変なものでも食べてしまったのかと、心配になるくらいだった。
黙ったままのヴィオレッタの態度を拒絶だと判断し、ゴーゼルは小さく息を吐くと申し訳なさそうに口を開いた。
「信じられないかもしれないが、私は自分の子供の母親となるのはヴィオラ以外にはいないと思っている」
「それは……私が王家の人間だからでしょう?」
「それもあるが……本音としては王家に生まれたせいで、人生を犠牲にして私に嫁いだヴィオラへの敬意と誠意だと思っている」
敬意と誠意。ヴィオレッタは唇に乗せてその言葉を繰り返す。そんな感情を彼が抱いていたなど、知りもしなかった。
「けれど、君が子供のうちは母親にするわけにはいかなかった。子供が子供を産んでしまえば、母と子の両方が苦労するからね」
「でも、貴方はよく他の女性とも……」
「あれは私をよく思わない者たちの流す噂にすぎないよ。私はただ男女関係なく良い顔をして、仕事のために女性とも親しくしているだけだ。その結果相手から言い寄られてしまうこともあるけれど、手を出したことは一度もないよ」
目の前にいる人の姿を、噂でしか知ることが出来ていなかった。どれだけ自分は視野が狭かったのだろうと、ヴィオレッタは恥じる。
「……これじゃ本当に私は紫陽花の花ね。冷徹、傲慢、無情……本当に私にはよく似合うわ」
紫陽花と同じ色の瞳が、悲しみに陰った。ゴーゼルの互いに努力が足りなかったという言葉は、確かにその通りだったのかもしれない。
ヴィオレッタが父から送られた誕生花は、紫陽花。心まで紫陽花のように冷徹で傲慢になれと父に命じられたような気がして、ヴィオレッタはこの花を好きにはなれなかった。
「紫陽花には確かにそれらの花言葉もあるけれど、デュッセル様が君に願ったのは辛抱強い愛で円満な家庭を作る女性になって欲しいということだったんじゃないか?」
「どういうこと?」
「紫陽花の花言葉には、良い意味も悪い意味もあるんだよ。紫陽花は確かに冷徹とか無情とかの悪い意味が一般的だけど、一家団欒とかの意味もあるんだ。普通は誕生花なのだから、良い意味を取っているはずだよ」
その一言が、ヴィオレッタの心に巣食っていた彼女自身でも自覚のなかった寂しさを埋めてくれた。今までずっと嫌いだった紫陽花の花を、紫陽花を冠に持つ自分自身を、好きになれそうな気がした。
そして、本当に自分を好きになれるときが来たとしたら、そのきっかけを与えてくれたゴーゼルへの想いにも、何か変化が訪れるような予感がしていた。
「私にも、色々と非があったと思う。認めたくないことも、沢山あるけど」
「認めたくないことはどうしてそう思うのかを話し合おう。私たちに足りないのは、わかり合うための時間だ」
ゴーゼルの顔を直視できず、ヴィオレッタは俯いた。そして、確かに一度だけ、はっきりと頷いてみせたのだった。
「見知らぬ土地の見知らぬ相手に嫁ぐということが、不安でないはずがないとリーゼロッテ様は仰っていたよ。誰でも、そうだと」
ゴーゼルにそう言い放ったリーゼロッテの微笑みには、欠片の不安も浮かんではいなかった。言葉が真実か、微笑みが真実か、ゴーゼルには知る術もなかったが、リーゼロッテが何故そのように答えたかゴーゼルにはわかってしまった。
目の前で子供のように拗ねて見せるヴィオレッタ。
彼女もまた、不安を抱えているのだということをリーゼロッテは暗に示唆していた。
そして同時に、未だに不安を抱えさせているのは誰の責任か、遠回しに責め立てていた。
「ヴィオラ、私は君に謝らなければならないことがいくつもある」
突然何を言い出すのかと、ヴィオレッタは訝しむような瞳でゴーゼルを見上げた。いつも微笑みを浮かべている細い瞳が、どうしてか今は普段と違っているような気がした。
「私は君に対して、色々と説明が足りなかった部分が多かったと思う」
「何を言いたいのか、全くわからないのだけれど」
「私たちは夫婦としての努力が足りなかったのだということだ」
私たち、と一括りにされたことがヴィオレッタの中で引っ掛かり、彼女の瞳が鋭さを増す。少なくとも彼女はゴーゼルの妻となるために努力をしていた時期はあった。
嫁いだばかりの頃は、幼いながらに眠い目を擦りながら帰りの遅いゴーゼルを待っていた。仕事の話はわからないし、家事が出来るわけでもない。子供の身では社交の場で出来ることもたかが知れている。僅かでも一緒にいる時間を作ることしか、十歳の娘には出来なかったのだ。
しかし、その気持ちを踏みにじったのは他でもないゴーゼル自身。次第にヴィオレッタは彼を待つことはしなくなり、緩やかの二人の時間はすれ違い始めた。
「私たちが上手くいかないのは全部貴方のせいじゃない……!」
「またそうやって子供じみたことを……」
そこまでを口にして、ゴーゼルははっと言葉を飲み込む。
ヴィオレッタは子供じみているのではない。本当の意味で、彼女はまだ子供なのだ。
普通の十七歳とは違う。十歳という成長の途中で嫁いでしまった彼女は、未熟なまま自分自身を磨き上げる時間を剥奪されてしまったのだ。
「……ゴーゼル?」
彼が言葉を止めたことが不思議だったのだろう。ヴィオレッタは険しく細められていた瞳を丸くして、ゴーゼルの顔を覗き込むように彼を見上げた。
「今さらと怒るかもしれないが、ヴィオラさえよければこれからはなるべく食事を一緒にしたいと思うんだが」
「え?」
「君さえ良いのなら、だ。ただ、この時間では私も難しいので、少しだけ時間を遅くして欲しいのだけれど」
思いもよらない提案に、ヴィオレッタは驚き固まってしまう。上手く頭も回らない。この人は何か変なものでも食べてしまったのかと、心配になるくらいだった。
黙ったままのヴィオレッタの態度を拒絶だと判断し、ゴーゼルは小さく息を吐くと申し訳なさそうに口を開いた。
「信じられないかもしれないが、私は自分の子供の母親となるのはヴィオラ以外にはいないと思っている」
「それは……私が王家の人間だからでしょう?」
「それもあるが……本音としては王家に生まれたせいで、人生を犠牲にして私に嫁いだヴィオラへの敬意と誠意だと思っている」
敬意と誠意。ヴィオレッタは唇に乗せてその言葉を繰り返す。そんな感情を彼が抱いていたなど、知りもしなかった。
「けれど、君が子供のうちは母親にするわけにはいかなかった。子供が子供を産んでしまえば、母と子の両方が苦労するからね」
「でも、貴方はよく他の女性とも……」
「あれは私をよく思わない者たちの流す噂にすぎないよ。私はただ男女関係なく良い顔をして、仕事のために女性とも親しくしているだけだ。その結果相手から言い寄られてしまうこともあるけれど、手を出したことは一度もないよ」
目の前にいる人の姿を、噂でしか知ることが出来ていなかった。どれだけ自分は視野が狭かったのだろうと、ヴィオレッタは恥じる。
「……これじゃ本当に私は紫陽花の花ね。冷徹、傲慢、無情……本当に私にはよく似合うわ」
紫陽花と同じ色の瞳が、悲しみに陰った。ゴーゼルの互いに努力が足りなかったという言葉は、確かにその通りだったのかもしれない。
ヴィオレッタが父から送られた誕生花は、紫陽花。心まで紫陽花のように冷徹で傲慢になれと父に命じられたような気がして、ヴィオレッタはこの花を好きにはなれなかった。
「紫陽花には確かにそれらの花言葉もあるけれど、デュッセル様が君に願ったのは辛抱強い愛で円満な家庭を作る女性になって欲しいということだったんじゃないか?」
「どういうこと?」
「紫陽花の花言葉には、良い意味も悪い意味もあるんだよ。紫陽花は確かに冷徹とか無情とかの悪い意味が一般的だけど、一家団欒とかの意味もあるんだ。普通は誕生花なのだから、良い意味を取っているはずだよ」
その一言が、ヴィオレッタの心に巣食っていた彼女自身でも自覚のなかった寂しさを埋めてくれた。今までずっと嫌いだった紫陽花の花を、紫陽花を冠に持つ自分自身を、好きになれそうな気がした。
そして、本当に自分を好きになれるときが来たとしたら、そのきっかけを与えてくれたゴーゼルへの想いにも、何か変化が訪れるような予感がしていた。
「私にも、色々と非があったと思う。認めたくないことも、沢山あるけど」
「認めたくないことはどうしてそう思うのかを話し合おう。私たちに足りないのは、わかり合うための時間だ」
ゴーゼルの顔を直視できず、ヴィオレッタは俯いた。そして、確かに一度だけ、はっきりと頷いてみせたのだった。
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