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2.雪の降る国
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オズマン邸での夕食は基本的にヴィオレッタ一人でとっている。
ゴーゼルは仕事が忙しく夕食の時間に邸宅にいないことが多く、今日のように来客があれば尚更に時間が合わない。使用人たちと共に食事をとるなどもっての他である。
この世の贅沢を詰め込んだ広い食卓に一人、側に侍女が控えてはいるが、一人ヴィオレッタは粛々とナイフとフォークを進めていた。
リーゼロッテが訪れているのだから、今夜も食事は別々だろう。ゴーゼルと食卓を共にするときはいつも窮屈で、ただでさえ味気のない食事が益々無味なものとなってしまう。
「今日、ゴーゼルがこちらに戻ってくる時間は聞いている?」
そこに存在しないかのように、気配を消して佇む侍女にヴィオレッタは訪ねた。彼女は伏せていた瞼を持ち上げ、少々煩わしそうに唇を引き結ぶ。
「いいえ。リーゼロッテ様がいらしておりますので、お食事はご一緒に外でと伺っております」
そう、と頷くヴィオレッタの瞳には安堵と、少しばかりの寂しさが含まれていた。ヴィオレッタ自身にはその正体が寂しさであることには気付いていない。ただ、誰一人知る顔のない舞踏会に放り出されたような居心地の悪さを感じていた。
「……おや、旦那様がお戻りになられたようです」
ヴィオレッタには興味のないゴーゼルの足音も、侍女は敏感に察するらしい。彼女は扉へと駆け寄ると、待ちわびていた心を隠すように丁寧に、主を部屋へと招き入れた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「あぁ、ただいまシィナ。ヴィオラは……あぁ、いるね」
侍女へと微笑み掛けると、ゴーゼルは手荷物を彼女へと手渡し片付けるように命じた。先程まで色のない顔しかできなかった侍女が、それはそれは嬉しそうにゴーゼルの荷物を抱えて走り去る様を見て、ヴィオレッタはテーブルの下で拳を握りしめた。
自分に対しては冷たい態度しか見せない侍女が腹立たしい。例え政略結婚でそこに愛はなくとも、自分の旦那に色目を使う女が憎らしい。
そして何より、今のこの環境を作り出してしまった自分自身が憎らしくて嫌いだった。
ヴィオレッタは立ち上がると、妻として形だけでもゴーゼルを迎えるようにその場で頭を下げた。
「お帰りなさいませ。……お姉様とお食事と伺っていたから、もっと遅くなるものだとばかり思っていたわ」
あなた、女性の客を相手にすると一晩帰ってこないこともあるものね。
心に浮かんだ言葉は、自分を惨めにするだけなので口には出さなかった。
「商談自体は円満に進んだから、食事は本当に友好を深めるためだけだったのでね。リーゼロッテ様もお疲れだろうから早めにお開きにしたんだよ」
穏やかな声色はその言葉が嘘ではないことを証明している。
数時間前に浴びせられた言葉の冷たさとは正反対だった。
ヴィオレッタは、少しだけほっとしている。ゴーゼルの仕事に興味はないが、自分の仕出かした行為が大きな問題を引き起こしたとなってしまえば益々この屋敷で居心地が悪くなってしまう。
小さく息を吐いた彼女に首を傾げつつ、ゴーゼルは彼女の隣へと場所を移した。突然詰められた距離に困惑を隠しきれず、ヴィオレッタは怯えた小鳥のような瞳でゴーゼルを見上げる。
「彼女に聞いたんだ。この先に不安はないのか、と」
「それが、なにか?」
胸の前で握りしめた拳を空いていた片手で包み、ヴィオレッタはゴーゼルを睨み付ける。得体の知れない不安を隠すための虚勢でしかないことは、ヴィオレッタ自身がよくわかっている。
下手をすれば親子程歳の離れた妻を見下ろすゴーゼルの糸目がちな瞳には彼の心が現れにくく、口元には本音かわからぬ微笑みが浮かんでいる。
「何て答えたと思う?」
試すような問いかけだった。ヴィオレッタはあからさまに表情を険しく歪ませると、両腕を組んで顔を背けてしまった。
「くだらない。どうせあの人のことだから、涼しい顔で言ったのでしょう? 『不安なんてありません。私は平和のために尽くします』とね」
まるで聖母のように微笑んで、この世の醜さなど知らないような顔をするのだろう。想像が容易過ぎて、ヴィオレッタは意識せずともため息を吐いてしまった。
ヴィオレッタはリーゼロッテの笑顔が嫌いだった。幼い頃から、ずっと思っていたことだった。
リーゼロッテの笑顔は、冷たい。心の機微が顔に出るのではなく、人との間に明確な拒絶を望むとき彼女は女神のように微笑む。
「私もそう思ったんだけどね、あの方はどうやら私たちが考えるよりもずっと厄介な人のようだ」
ゴーゼルは仕事が忙しく夕食の時間に邸宅にいないことが多く、今日のように来客があれば尚更に時間が合わない。使用人たちと共に食事をとるなどもっての他である。
この世の贅沢を詰め込んだ広い食卓に一人、側に侍女が控えてはいるが、一人ヴィオレッタは粛々とナイフとフォークを進めていた。
リーゼロッテが訪れているのだから、今夜も食事は別々だろう。ゴーゼルと食卓を共にするときはいつも窮屈で、ただでさえ味気のない食事が益々無味なものとなってしまう。
「今日、ゴーゼルがこちらに戻ってくる時間は聞いている?」
そこに存在しないかのように、気配を消して佇む侍女にヴィオレッタは訪ねた。彼女は伏せていた瞼を持ち上げ、少々煩わしそうに唇を引き結ぶ。
「いいえ。リーゼロッテ様がいらしておりますので、お食事はご一緒に外でと伺っております」
そう、と頷くヴィオレッタの瞳には安堵と、少しばかりの寂しさが含まれていた。ヴィオレッタ自身にはその正体が寂しさであることには気付いていない。ただ、誰一人知る顔のない舞踏会に放り出されたような居心地の悪さを感じていた。
「……おや、旦那様がお戻りになられたようです」
ヴィオレッタには興味のないゴーゼルの足音も、侍女は敏感に察するらしい。彼女は扉へと駆け寄ると、待ちわびていた心を隠すように丁寧に、主を部屋へと招き入れた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「あぁ、ただいまシィナ。ヴィオラは……あぁ、いるね」
侍女へと微笑み掛けると、ゴーゼルは手荷物を彼女へと手渡し片付けるように命じた。先程まで色のない顔しかできなかった侍女が、それはそれは嬉しそうにゴーゼルの荷物を抱えて走り去る様を見て、ヴィオレッタはテーブルの下で拳を握りしめた。
自分に対しては冷たい態度しか見せない侍女が腹立たしい。例え政略結婚でそこに愛はなくとも、自分の旦那に色目を使う女が憎らしい。
そして何より、今のこの環境を作り出してしまった自分自身が憎らしくて嫌いだった。
ヴィオレッタは立ち上がると、妻として形だけでもゴーゼルを迎えるようにその場で頭を下げた。
「お帰りなさいませ。……お姉様とお食事と伺っていたから、もっと遅くなるものだとばかり思っていたわ」
あなた、女性の客を相手にすると一晩帰ってこないこともあるものね。
心に浮かんだ言葉は、自分を惨めにするだけなので口には出さなかった。
「商談自体は円満に進んだから、食事は本当に友好を深めるためだけだったのでね。リーゼロッテ様もお疲れだろうから早めにお開きにしたんだよ」
穏やかな声色はその言葉が嘘ではないことを証明している。
数時間前に浴びせられた言葉の冷たさとは正反対だった。
ヴィオレッタは、少しだけほっとしている。ゴーゼルの仕事に興味はないが、自分の仕出かした行為が大きな問題を引き起こしたとなってしまえば益々この屋敷で居心地が悪くなってしまう。
小さく息を吐いた彼女に首を傾げつつ、ゴーゼルは彼女の隣へと場所を移した。突然詰められた距離に困惑を隠しきれず、ヴィオレッタは怯えた小鳥のような瞳でゴーゼルを見上げる。
「彼女に聞いたんだ。この先に不安はないのか、と」
「それが、なにか?」
胸の前で握りしめた拳を空いていた片手で包み、ヴィオレッタはゴーゼルを睨み付ける。得体の知れない不安を隠すための虚勢でしかないことは、ヴィオレッタ自身がよくわかっている。
下手をすれば親子程歳の離れた妻を見下ろすゴーゼルの糸目がちな瞳には彼の心が現れにくく、口元には本音かわからぬ微笑みが浮かんでいる。
「何て答えたと思う?」
試すような問いかけだった。ヴィオレッタはあからさまに表情を険しく歪ませると、両腕を組んで顔を背けてしまった。
「くだらない。どうせあの人のことだから、涼しい顔で言ったのでしょう? 『不安なんてありません。私は平和のために尽くします』とね」
まるで聖母のように微笑んで、この世の醜さなど知らないような顔をするのだろう。想像が容易過ぎて、ヴィオレッタは意識せずともため息を吐いてしまった。
ヴィオレッタはリーゼロッテの笑顔が嫌いだった。幼い頃から、ずっと思っていたことだった。
リーゼロッテの笑顔は、冷たい。心の機微が顔に出るのではなく、人との間に明確な拒絶を望むとき彼女は女神のように微笑む。
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