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2.雪の降る国

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 オズマン領内に、アカネース国民ではない人間が紛れ込んでいる。
 その者の名は、イヴァン。レイノアール国第三王子の直属の部下だ。
 イヴァンは俯きがちに街中を歩く。髪色はアカネース国に近い薄い金のため、良く馴染んでいた。そもそもアカネース国でも北部に位置し人の出入りも活発な街であるため、多少異国の特徴を纏っていたところでさほど目立ちはしないだろうが。
 オズマン家の統治下である街は、流石有名商家の領ということもあり、様々な商店がならび活気に満ち溢れている。
 その分人も多く集まり、酒場や食事処にも困ることはない。当然、情報の収集にも苦労はなかった。
 大通りを歩いていたイヴァンは、何者かの気配を背後に感じ取り、振り返らずに歩を速めた。先程、酒場を後にしたときから感じている気配だ。尾行されているのは間違いない。
 早足に、しかし撒かない程度に足を進め、イヴァンはひょいと人波から外れて暗い路地裏に体を滑り込ませる。大人一人がぎりぎり歩ける程度の裏道で、イヴァンは懐に忍ばせた短刀を手に取ると勢い良く振り返った。
 短刀の切っ先を、自分を慌てて追いかけてくるだろう者の首筋を目掛けて。
「ちょっと待った! 待て! 俺だ!」
 聞き慣れた声に、イヴァンの手は止まる。振り返った時初めて自分を追っていた者の姿を目にし、イヴァンは眉間にしわを寄せると渋々といった様子で短刀を構えていた腕を下ろした。
 狭い路地で、刃物の先で同僚を傷付けないよう気を付けながら、イヴァンは短刀を懐にしまうと相手に向き直り盛大にため息を吐く。
「……ジョルジュ、どうして貴方がここにいる」
「そりゃ、レオン様のご命令さ。それ以外で側を離れることはないって知ってるだろ?」
「質問を変える。何をしにここまで来た」
「お姫様のナイトになるために」
 どうにも上手くイヴァンの言いたいことが伝わらない。ジョルジュは楽しそうに微笑むと、両手を自分の頬に当てて娘のようにおどけてみせた。
 その顔に、普段の仮面はない。
 顔の右半分を覆う焼けただれた皮膚の痛ましさと彼の悪意のない笑顔が噛み合わず、その姿は憐れな怪物のようだ。
「仮面はどうした」
「ずっと着けてると冷たくなってきちゃって。たまには外さないとさ」
「冗談を言ってどうする! 流石にそれでは目立つだろう」
 人気のない路地裏に、氷のように冷たいイヴァンの声が響いた。言葉には叱責の色が濃いというのに、イヴァンがジョルジュを見上げる瞳は溶けた氷の表面のように揺れている。
 イヴァンが彼の顔を目にしたのは、半年ぶりとなる。懐かしさに揺れるイヴァンの心を的確に見抜き、ジョルジュは満足げに口角を吊り上げた。
「ここは国境が近いから、顔に傷があるくらいは特別珍しくもない。仮面の方が悪目立ちするだけだ」
「そうかもしれないが……」
「それに、ここなら見られて困ることもない。そうだろう?」
 ジョルジュの言葉に、イヴァンは彼を見上げて口を開いたが、結局何も言わずに目を逸らした。
 一瞬ではあったが、イヴァンの瞳に宿った後悔の念をジョルジュは見逃さない。
 俯いたイヴァンの薄い金の髪を見下ろしながら、ジョルジュは困惑気味に頬を掻いた。驚かせるつもりではあったが、落ち込ませたかったわけではないのだ。
「……イヴァン、怒っている?」
 イヴァンは顔を上げないままで、口も開かない。これは怒っているのではなく、不満があるが上手く言葉に出来ないときの態度だ。ジョルジュにはわかる。
 対応方法も心得ている。イヴァンとは、長い付き合いなのだから。
「イヴ、顔を上げて」
 弾かれたように顔を上げるイヴァンの頬は、朱に染まっていた。それが怒りのためか、羞恥のためかまではジョルジュにもわからない。
 狭い道で、少しでも身を捩れば建物の壁に体が擦れる中、ジョルジュは申し訳なさそうにイヴァンの頬に触れた。しかし、その手は指先が掠めた瞬間にイヴァンによって掴み取られ、そのまま建物へと押し付けられてしまった。
 睨むように見上げられても、イヴァンの手の震えが伝わってしまうため何一つ怖いものなどない。
「……その、呼び方は止めろ。何回も言っているはずだ」
「どうして? 似合ってる」
「そんな、女みたいな……!」
 吐き捨てるようなイヴァンの言葉を押し潰すように、ジョルジュは自分の腕を掴むイヴァンの震える指先を掴み返した。
「女だろ、イヴ。お前は、どんな格好をしていようと……」
「うる、さい!」
 掴まれた手が振りほどけず、イヴァンは空いていた手でジョルジュの胸を押す。ほんの少し開いた距離は、細やかすぎる抵抗だった。
 彼の言葉はイヴァンの胸の奥深くを抉り、切り刻む。それは、ジョルジュが意図しようがしまいが関係なく、イヴァンの胸を苦しめるのだ。
 イヴァンはレイノアール王家に代々仕えていた多くの密偵を抱える一族の長子であり、本人自体が偵察や潜入の任をこなす優秀な密偵でもあった。女性に生まれながらも今まで男として生きてきたのも、周囲を欺き仕事を円満に進めるための措置である。
 イヴァンの家では、性別を偽って生きることはさほど珍しい例ではない。過去の当主には、女の顔と男の顔の二つを使い分けていた者もいる。
 このことについては、レオナルドも知らない。ジョルジュだけが知っている彼女の真実だ。
 苦虫を噛み潰したような顔でイヴァンはジョルジュの胸を押し返していた手で拳を作る。強引に突き飛ばすことは簡単であったが、イヴァンの震える拳ではそれが難しい。
「……悲しませたなら、すまなかった。イヴ、俺はさ、お前にだけはこの顔を忘れてほしくなかったんだ」
 ジョルジュの言葉に、茶化す響きは微塵もない。普段のおどけた態度からは想像ができないほど深刻に影を落とした表情の前では、イヴァンもこれ以上冷たくは当たれなかった。
「忘れるわけ、ないでしょう」
 小さく呟いて、イヴァンは自分の腕を掴むジョルジュの拘束を反対の手でほどいた。いとも簡単に離れた指先に僅かばかりの惜しさも感じながら、イヴァンは顔を上げられないまま肩を落とした。
 ジョルジュの顔を見ただけのことで、取り乱してしまった自分が情けない。結局自分は、昔と何も変わらぬままなのではないかと不安になる。
「イヴ」
「だから、その呼び方は」
 止めろ。この言葉ごとイヴァンの唇は塞がれた。
 冷たい唇だった。全てを飲み込む真っ白な吹雪のような口付けだった。
 しかしイヴァンは、雪山で一人途方に暮れる遭難者になどはなりたくなかった。彼女はそこが嵐の海でも、突き進むだけの強さが欲しかった。
「離せ!」
 容赦なく飛んできたイヴァンの張り手を避けられず、ジョルジュの左頬は痛ましい朱色に染まる。火傷の跡に目が引かれるため、そこまで目立つことにはならなかったが慰めにもなりはしない。
「いてて……。イヴァンは躊躇いがないな」
 普段の調子に戻られてしまえば、ジョルジュがこれ以上イヴァンを女扱いすることもない。腑に落ちない思いはあったが、イヴァンも気持ちを切り替えざるを得なかった。
「お前に対して躊躇いの必要性が感じられない」
 無慈悲に言い捨て、イヴァンはジョルジュの腕を掴むと路地裏から出て大通りの人波に紛れ込んだ。
 しばらく歩みを進めたのちに、イヴァンは周囲に注意を払いながらジョルジュの耳元に顔を近付け、極限まで声を潜めた。
「商人の街ということもあってか、幸いにもこの街には個室の食事処が多い。お前の企みがなにか、しっかり聞かせてもらう」
「個室ならイヴァンが泊まってる部屋でもいいと思うけど。俺まだ今日の宿決まっていないしさ」
「私の泊まっているところは幸い馬小屋がまだ空いているそうだ」
 つれないな、と呟く声を無視してイヴァンは祖国に待つ主人の未来に思いを馳せた。
 この一週間、レオナルドのためにリーゼロッテを探っていたが、結局彼女の人柄の根本的な部分は見えてこなかった。城に潜入し、侍女として遠くから観察をしたが、模範的な王女という印象しかなくレオナルドにとって良い影響を与えるか判断が難しい。
「ジョルジュ、今の私にとって一番大切なのはレオナルド様に恩返しをすることだ」
「うん?」
「自分の幸せなんて、考えてはいられない。それだけ、大きなものをレオナルド様に頂いている」
 先程の口づけを根本から否定するイヴァンに、ジョルジュは顔色一つ変えずに頷いた。承知の上で手を出しているのだと言ったも同然の態度に、イヴァンもまた嫌な顔はせずに頷いてみせた。
 お互いに、お互いの心のうちを知っている。抱えた痛みも、傷も、同じ景色を見ていた二人だ。同じ歩調で傷つき、苦しんできた。
 その痛みも傷も癒えてはいないけれど、レオナルドはそこから二人を救いだした。暗闇しかないと思っていた世界に、光を与えた。
 だからこそ、イヴァンは与えられた光に報いたいと願う。
「レオン様は、お前や俺を縛り付けるために助けたんじゃない。俺たちの幸せを願っているんだ。……だから俺は今ならこの気持ちに正直でいられる」
「ならば私の幸せは、レオナルド様にお仕えすることだ。今だからこそ、自分の気持ちよりもレオナルド様の幸せの方が大切だ」
 同じ景色を見て、同じ歩調で生きていた二人が、同じ気持ちを抱いていることは何も不自然なことではない。
 しかし、二人は別の人間。同じ価値観の中に生きてはいない。
 だからこそ抱いた想いは尊いものとなる。
「……レオン様が大切なのは俺も同じ。そうだな、とりあえず今はアカネースの姫様のことを考えようか。何やら正妃様が怪しい動きを見せているからな」
「あの方が怪しいのはいつものことだろう」
「それもそうだな。イヴァン、二人を守るぞ」
「当然」
 二人の瞳は、いつも同じ未来を見据えていた。
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