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2.雪の降る国
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オズマン領内にそびえる邸宅は、他の貴族のような城ではない。
商人として人を招くことを最優先としているのか、清廉な印象を与える白塗りで二階建ての屋敷は一般市民の目からみれば城よりも親しみやすい。
ただし、その敷地面積は周辺の貴族の居城と変わらない。建物の入り口付近には多くの商談室、会議室を整え、深部には金庫や品物を保管する倉庫を備えている。当然、屋敷の奥に進めば進むほど警備は厳重になる。
金と信用を取り扱うだけあり、王都以上の警戒心であたっている。現に、レイノアールの馬車よりも早くオズマン領に到着したイヴァンも、オズマン邸に忍び込むことは出来なかった。
そして、現当主のゴーゼルとその妻ヴィオレッタが住むのは本邸ではなく、離邸と呼ばれる離れである。離邸といえども、アカネース国最大の蔵書数を誇ると言われている国立図書館と変わらぬ広さを持っていた。
離邸のうちで最も日当たりが良く、一年中暖かな空気に包まれている私室で、ヴィオレッタは天蓋付きのベッドに腰を下ろし、忌々しげに親指の爪を噛み締めていた。
ぎり、と音を立てて歯と爪がかち合うが構うことなく、見慣れた豪奢な黒の絨毯を睨み付ける。
この部屋を与えられて、すでに七年の時が過ぎた。
まだ十歳だった頃には、部屋の装飾品から絨毯にカーテンと、特上の品で飾られた部屋に心が踊ったものだった。部屋の調度品だけをみれば、ヴィオレッタの私室はミレイニアよりも多額の金が掛けられている。しかし、見慣れてしまった今では胸をときめかせることもなく、ただその豪華さばかりが鼻に付くようになっていった。
お金を掛けることが愛情だと信じていたあの頃は、歳が離れていようとゴーゼルは自分のことを妻として愛そうとしてくれているのだと信じていた。
しかし、今は違う。
「ヴィオレッタ、いるかな?」
ノックの音と、ゴーゼルの声。
ヴィオレッタは慌てて立ち上がると、手早く手櫛で髪を整えて扉に背を向けた。
「どうぞ」
「失礼」
音を立てて開いた扉。ヴィオレッタは振り返らない。
ゴーゼルは人の良さそうな笑みの浮かんだ糸目がちの瞳を怪訝そうに歪め、薄い唇からそっと息を溢した。
甘いミルクティーのように柔らかな茶色の髪は細く、頻繁に人と会うことを意識し寝癖一つ付いていない艶やかな輝きを放っている。同様に髭も伸ばすことはせず、常に明るい顔色を意識していた。
腹の中が何色であるかは置いておいても、ゴーゼルは年相応の落ち着きと男性としての華やかさを丁度良く掛け合わせた人好きのする外見の持ち主であった。
既に三十七という年齢でありながらも今だ女性から黄色い歓声を浴び続けるのは、商人として第一線で戦い続ける故であるだろう。
「……君の御姉様がいらしたよ。挨拶はいいのかい?」
室内に視線を走らせ、ゴーゼルはヴィオレッタの後ろ姿で目を止めた。
下ろされた砂色の髪は、窓から差し込む陽光に照らされて砂金を含んでいるかのように輝いている。しかし、ヴィオレッタは自身の髪が美しいことなど信じはしないだろう。やや猫背気味の背中は、幼子のように頼りない。
「お会いする理由がないわ。何か聞かれたら体調が悪いとでも言ってくださる?」
「家族に会うのに、いちいち理由が必要なのかな?」
やや刺のある物言いに、ヴィオレッタは表情険しく振り返った。
苛立ちを露わにするヴィオレッタに対しても、ゴーゼルは対人用のあたたかい微笑みを崩さない。拳を握りしめたヴィオレッタは、何も言わずにもう一度ゴーゼルに背を向けた。
「……会わないなら、それでもいいけれど。だけどね、ヴィオラ一つだけ忘れないでおくれ」
既に体を扉の方へと向けて、ゴーゼルは顔だけをヴィオレッタに向けて残念そうに言った。
「君の下らない意地のせいで、オズマン商会としては結構な痛手を食らっている。御姉様を好きでも嫌いでもどちらでもいいけれど、いつまで子供でいるつもりかな?」
熱のない言葉が、ヴィオレッタの全身を駆け巡り血液を沸騰させる。
「何を……!」
真っ赤な顔で振り返ったヴィオレッタであったが、既にゴーゼルの姿はなく、無情に響く扉の音だけがヴィオレッタの隣に寄り添った。
商人として人を招くことを最優先としているのか、清廉な印象を与える白塗りで二階建ての屋敷は一般市民の目からみれば城よりも親しみやすい。
ただし、その敷地面積は周辺の貴族の居城と変わらない。建物の入り口付近には多くの商談室、会議室を整え、深部には金庫や品物を保管する倉庫を備えている。当然、屋敷の奥に進めば進むほど警備は厳重になる。
金と信用を取り扱うだけあり、王都以上の警戒心であたっている。現に、レイノアールの馬車よりも早くオズマン領に到着したイヴァンも、オズマン邸に忍び込むことは出来なかった。
そして、現当主のゴーゼルとその妻ヴィオレッタが住むのは本邸ではなく、離邸と呼ばれる離れである。離邸といえども、アカネース国最大の蔵書数を誇ると言われている国立図書館と変わらぬ広さを持っていた。
離邸のうちで最も日当たりが良く、一年中暖かな空気に包まれている私室で、ヴィオレッタは天蓋付きのベッドに腰を下ろし、忌々しげに親指の爪を噛み締めていた。
ぎり、と音を立てて歯と爪がかち合うが構うことなく、見慣れた豪奢な黒の絨毯を睨み付ける。
この部屋を与えられて、すでに七年の時が過ぎた。
まだ十歳だった頃には、部屋の装飾品から絨毯にカーテンと、特上の品で飾られた部屋に心が踊ったものだった。部屋の調度品だけをみれば、ヴィオレッタの私室はミレイニアよりも多額の金が掛けられている。しかし、見慣れてしまった今では胸をときめかせることもなく、ただその豪華さばかりが鼻に付くようになっていった。
お金を掛けることが愛情だと信じていたあの頃は、歳が離れていようとゴーゼルは自分のことを妻として愛そうとしてくれているのだと信じていた。
しかし、今は違う。
「ヴィオレッタ、いるかな?」
ノックの音と、ゴーゼルの声。
ヴィオレッタは慌てて立ち上がると、手早く手櫛で髪を整えて扉に背を向けた。
「どうぞ」
「失礼」
音を立てて開いた扉。ヴィオレッタは振り返らない。
ゴーゼルは人の良さそうな笑みの浮かんだ糸目がちの瞳を怪訝そうに歪め、薄い唇からそっと息を溢した。
甘いミルクティーのように柔らかな茶色の髪は細く、頻繁に人と会うことを意識し寝癖一つ付いていない艶やかな輝きを放っている。同様に髭も伸ばすことはせず、常に明るい顔色を意識していた。
腹の中が何色であるかは置いておいても、ゴーゼルは年相応の落ち着きと男性としての華やかさを丁度良く掛け合わせた人好きのする外見の持ち主であった。
既に三十七という年齢でありながらも今だ女性から黄色い歓声を浴び続けるのは、商人として第一線で戦い続ける故であるだろう。
「……君の御姉様がいらしたよ。挨拶はいいのかい?」
室内に視線を走らせ、ゴーゼルはヴィオレッタの後ろ姿で目を止めた。
下ろされた砂色の髪は、窓から差し込む陽光に照らされて砂金を含んでいるかのように輝いている。しかし、ヴィオレッタは自身の髪が美しいことなど信じはしないだろう。やや猫背気味の背中は、幼子のように頼りない。
「お会いする理由がないわ。何か聞かれたら体調が悪いとでも言ってくださる?」
「家族に会うのに、いちいち理由が必要なのかな?」
やや刺のある物言いに、ヴィオレッタは表情険しく振り返った。
苛立ちを露わにするヴィオレッタに対しても、ゴーゼルは対人用のあたたかい微笑みを崩さない。拳を握りしめたヴィオレッタは、何も言わずにもう一度ゴーゼルに背を向けた。
「……会わないなら、それでもいいけれど。だけどね、ヴィオラ一つだけ忘れないでおくれ」
既に体を扉の方へと向けて、ゴーゼルは顔だけをヴィオレッタに向けて残念そうに言った。
「君の下らない意地のせいで、オズマン商会としては結構な痛手を食らっている。御姉様を好きでも嫌いでもどちらでもいいけれど、いつまで子供でいるつもりかな?」
熱のない言葉が、ヴィオレッタの全身を駆け巡り血液を沸騰させる。
「何を……!」
真っ赤な顔で振り返ったヴィオレッタであったが、既にゴーゼルの姿はなく、無情に響く扉の音だけがヴィオレッタの隣に寄り添った。
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