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2.雪の降る国
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腫れた頬を隠すように片手で押さえて歩くような真似をミレイニアはしない。
そのプライドの高さは、グレインにとっては彼女の顔以上に好ましいと思う点であった。
「……グレイン」
「エリザ様の私室の前を通ったときに声がしたのでね。傷心の奥様を慰めようかと思ったのですが……余計なお世話でしたか」
「ええ。余計なお世話よ」
鬱陶しそうに髪を掻き上げて、ミレイニアは廊下を進む足を止めない。
グレインは黙って隣に並ぶと、エリザの私室の方向を振り返り溜め息を吐いた。
「しかし、母親が地位に強い執着を持っていると面倒ですよね。私の方も父よりも母が子供はまだかと煩いものです」
「私とグレインでは事情が違うでしょう? 私とお母様は血が繋がっているけれど、貴方のお母様は後妻じゃない」
一瞥もくれずに告げられたミレイニアの指摘に、グレインは微笑を浮かべて肩を竦める。
「だからこそ鬱陶しくて仕方がないのですよ。本当の母親だったならまだ愛情の感じようもあるんですけれど、私の出世を赤の他人が望み口出ししているというのは腹立たしい」
グレインもまた、ミレイニアのことなど瞳に写してはいなかった。ミレイニアは硝子に写ったグレインの横顔を盗み見ながら、この言葉に嘘がないことを感じ取る。
夫婦として一緒にいて、僅かではあるがグレインについて気付いたことのうちの一つ。
グレインは、エリザを快く思っていない。それは、エリザ自身に問題があるのではなく、グレインの母親とエリザの言動が似通っていることに理由があった。
「……貴方が何を言おうと、あの人は私にとっては大切な母親よ。やっぱり、喜んでほしいと思うし、認められたいと思うわ」
「あんな母親でも、ですか?」
ミレイニアは無言でグレインを睨み上げる。
人の心に土足で踏みいるその性根が腹立たしかった。
「それなら、王位を得ようとこんな小娘を嫁に貰うような貴方は、どの母親のために必死になっているのかしら?」
ぴくりとグレインの眉が動くのをミレイニアは見逃さなかった。
グレインが何故王位を望むのか、直接聞いたことはないがミレイニアにはある程度の予測は付いていた。しかし、それを確認するつもりはないし、そもそもミレイニアにとってはどうでもいいことである。
彼の人間性が王に適しているのであれば問題はない。不適だと判断すれば離縁するだけのことだ。
怒らせてしまったかと窺うようにグレインを見上げれば、彼はすでに微笑みを浮かべて眉尻を下げていた。
「すみません、私の方がやや感情的になってしまったようで。夫婦とはいえ、踏み込まれたくない部分はありますね。配慮が欠けておりました」
ミレイニアに謝罪しつつ遠回しに釘を指すグレインの対応は、流石に年上というだけあって理性的で好感が持てる。
好感を抱いたところでそれが好意に直結しないところが虚しい話であったが、ミレイニアにとっては最早好意などどうでもいい。
王女として生まれたことを自覚した時点で、恋への憧れは捨て去ってしまったのだから。
「……グレイン、王印のことだけれど」
「はい」
「手に出来るかは半々といったところよ。最初はマリンハルトに託すかと思ったけれど、アリアといったかしら? 最近侍女と親しくなったようだから、彼女の身の保身のためにお姉様は必ず王印をその侍女に渡すわ」
「必ずですか?」
ええ、とミレイニアは頷くと、視線を窓の外へと向けた。夕日は沈み、残された赤が夜に塗り潰されていく。
「私との勝負の場にその侍女を連れてきていたから、必ずよ。だって、あの人は勝ったことで悪目立ちしてしまったんだもの。お姉様がいなくなれば、侍女が目を付けられるでしょうね」
「もしかして、わざと負けたのですか?」
「あれは実力よ。それに、あそこで私が勝ったとしてもあの侍女がお姉様の侍女であると周知になることに代わりはないから、どちらにしても王印を渡すことになるわ」
ミレイニアにとって驚いたのは、リーゼロッテがあの場にアリアを連れていったことであった。人々の目に晒されればアリアが危害を加えられる可能性を考えられない人ではないはずだ。
「……もしかして、お姉様はわざとそうしたのかしら」
「わざと侍女を人の目に晒したということですか? ……もしかして、それが自分から侍女に与えられる褒美だったとでも?」
グレインはどうやらミレイニアと同様の発想に至ったようだ。
ミレイニアは頷いて、片手でそっとこめかみの辺りを押さえた。
「お姉様はやりかねないわ。マリンハルトと同じように、あの侍女もこの先不自由なく暮らせるようにと狙ったのかもしれない」
仮にこの件がなくアリアが王印を持ってミレイニアの元を訪れたとすれば、ミレイニアはアリアが王印を譲り受けたのか盗み出したのか判断が付かない。それはアリアという人物の人間性を知らないミレイニアにとって、判断材料が皆無であるからだ。
しかし、リーゼロッテのことはよく知っている。
「では、侍女が王印を受け取ったことは確かなのですね」
王位を望むグレインにとって、王印をリーゼロッテに持ち逃げされてしまう事態は望ましくない。しかし、正式に譲渡されなければ無意味であり、奪うことができないそれは、ミレイニアの手に移ることを祈るしかグレインにはできなかった。
「受け取ったかはわからないわ。わかるのは、お姉様が侍女に王印を渡すということだけ。侍女が受け取るのかも、私に渡すかもわからない。だから、可能性は半々よ」
ミレイニアの歩みには迷いがない。それは、彼女が王印などあろうがなかろうがどちらでも構わないからであった。
しかし、グレインは違う。
重くなる足取りと、開き始める二人の距離。
構わず進むミレイニアの瞳は、もうグレインに向けられることもなかった。
そのプライドの高さは、グレインにとっては彼女の顔以上に好ましいと思う点であった。
「……グレイン」
「エリザ様の私室の前を通ったときに声がしたのでね。傷心の奥様を慰めようかと思ったのですが……余計なお世話でしたか」
「ええ。余計なお世話よ」
鬱陶しそうに髪を掻き上げて、ミレイニアは廊下を進む足を止めない。
グレインは黙って隣に並ぶと、エリザの私室の方向を振り返り溜め息を吐いた。
「しかし、母親が地位に強い執着を持っていると面倒ですよね。私の方も父よりも母が子供はまだかと煩いものです」
「私とグレインでは事情が違うでしょう? 私とお母様は血が繋がっているけれど、貴方のお母様は後妻じゃない」
一瞥もくれずに告げられたミレイニアの指摘に、グレインは微笑を浮かべて肩を竦める。
「だからこそ鬱陶しくて仕方がないのですよ。本当の母親だったならまだ愛情の感じようもあるんですけれど、私の出世を赤の他人が望み口出ししているというのは腹立たしい」
グレインもまた、ミレイニアのことなど瞳に写してはいなかった。ミレイニアは硝子に写ったグレインの横顔を盗み見ながら、この言葉に嘘がないことを感じ取る。
夫婦として一緒にいて、僅かではあるがグレインについて気付いたことのうちの一つ。
グレインは、エリザを快く思っていない。それは、エリザ自身に問題があるのではなく、グレインの母親とエリザの言動が似通っていることに理由があった。
「……貴方が何を言おうと、あの人は私にとっては大切な母親よ。やっぱり、喜んでほしいと思うし、認められたいと思うわ」
「あんな母親でも、ですか?」
ミレイニアは無言でグレインを睨み上げる。
人の心に土足で踏みいるその性根が腹立たしかった。
「それなら、王位を得ようとこんな小娘を嫁に貰うような貴方は、どの母親のために必死になっているのかしら?」
ぴくりとグレインの眉が動くのをミレイニアは見逃さなかった。
グレインが何故王位を望むのか、直接聞いたことはないがミレイニアにはある程度の予測は付いていた。しかし、それを確認するつもりはないし、そもそもミレイニアにとってはどうでもいいことである。
彼の人間性が王に適しているのであれば問題はない。不適だと判断すれば離縁するだけのことだ。
怒らせてしまったかと窺うようにグレインを見上げれば、彼はすでに微笑みを浮かべて眉尻を下げていた。
「すみません、私の方がやや感情的になってしまったようで。夫婦とはいえ、踏み込まれたくない部分はありますね。配慮が欠けておりました」
ミレイニアに謝罪しつつ遠回しに釘を指すグレインの対応は、流石に年上というだけあって理性的で好感が持てる。
好感を抱いたところでそれが好意に直結しないところが虚しい話であったが、ミレイニアにとっては最早好意などどうでもいい。
王女として生まれたことを自覚した時点で、恋への憧れは捨て去ってしまったのだから。
「……グレイン、王印のことだけれど」
「はい」
「手に出来るかは半々といったところよ。最初はマリンハルトに託すかと思ったけれど、アリアといったかしら? 最近侍女と親しくなったようだから、彼女の身の保身のためにお姉様は必ず王印をその侍女に渡すわ」
「必ずですか?」
ええ、とミレイニアは頷くと、視線を窓の外へと向けた。夕日は沈み、残された赤が夜に塗り潰されていく。
「私との勝負の場にその侍女を連れてきていたから、必ずよ。だって、あの人は勝ったことで悪目立ちしてしまったんだもの。お姉様がいなくなれば、侍女が目を付けられるでしょうね」
「もしかして、わざと負けたのですか?」
「あれは実力よ。それに、あそこで私が勝ったとしてもあの侍女がお姉様の侍女であると周知になることに代わりはないから、どちらにしても王印を渡すことになるわ」
ミレイニアにとって驚いたのは、リーゼロッテがあの場にアリアを連れていったことであった。人々の目に晒されればアリアが危害を加えられる可能性を考えられない人ではないはずだ。
「……もしかして、お姉様はわざとそうしたのかしら」
「わざと侍女を人の目に晒したということですか? ……もしかして、それが自分から侍女に与えられる褒美だったとでも?」
グレインはどうやらミレイニアと同様の発想に至ったようだ。
ミレイニアは頷いて、片手でそっとこめかみの辺りを押さえた。
「お姉様はやりかねないわ。マリンハルトと同じように、あの侍女もこの先不自由なく暮らせるようにと狙ったのかもしれない」
仮にこの件がなくアリアが王印を持ってミレイニアの元を訪れたとすれば、ミレイニアはアリアが王印を譲り受けたのか盗み出したのか判断が付かない。それはアリアという人物の人間性を知らないミレイニアにとって、判断材料が皆無であるからだ。
しかし、リーゼロッテのことはよく知っている。
「では、侍女が王印を受け取ったことは確かなのですね」
王位を望むグレインにとって、王印をリーゼロッテに持ち逃げされてしまう事態は望ましくない。しかし、正式に譲渡されなければ無意味であり、奪うことができないそれは、ミレイニアの手に移ることを祈るしかグレインにはできなかった。
「受け取ったかはわからないわ。わかるのは、お姉様が侍女に王印を渡すということだけ。侍女が受け取るのかも、私に渡すかもわからない。だから、可能性は半々よ」
ミレイニアの歩みには迷いがない。それは、彼女が王印などあろうがなかろうがどちらでも構わないからであった。
しかし、グレインは違う。
重くなる足取りと、開き始める二人の距離。
構わず進むミレイニアの瞳は、もうグレインに向けられることもなかった。
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