上 下
37 / 56
2.雪の降る国

5

しおりを挟む
 腫れた頬を隠すように片手で押さえて歩くような真似をミレイニアはしない。
 そのプライドの高さは、グレインにとっては彼女の顔以上に好ましいと思う点であった。
「……グレイン」
「エリザ様の私室の前を通ったときに声がしたのでね。傷心の奥様を慰めようかと思ったのですが……余計なお世話でしたか」
「ええ。余計なお世話よ」
 鬱陶しそうに髪を掻き上げて、ミレイニアは廊下を進む足を止めない。
 グレインは黙って隣に並ぶと、エリザの私室の方向を振り返り溜め息を吐いた。
「しかし、母親が地位に強い執着を持っていると面倒ですよね。私の方も父よりも母が子供はまだかと煩いものです」
「私とグレインでは事情が違うでしょう? 私とお母様は血が繋がっているけれど、貴方のお母様は後妻じゃない」
 一瞥もくれずに告げられたミレイニアの指摘に、グレインは微笑を浮かべて肩を竦める。
「だからこそ鬱陶しくて仕方がないのですよ。本当の母親だったならまだ愛情の感じようもあるんですけれど、私の出世を赤の他人が望み口出ししているというのは腹立たしい」
 グレインもまた、ミレイニアのことなど瞳に写してはいなかった。ミレイニアは硝子に写ったグレインの横顔を盗み見ながら、この言葉に嘘がないことを感じ取る。
 夫婦として一緒にいて、僅かではあるがグレインについて気付いたことのうちの一つ。
 グレインは、エリザを快く思っていない。それは、エリザ自身に問題があるのではなく、グレインの母親とエリザの言動が似通っていることに理由があった。
「……貴方が何を言おうと、あの人は私にとっては大切な母親よ。やっぱり、喜んでほしいと思うし、認められたいと思うわ」
「あんな母親でも、ですか?」
 ミレイニアは無言でグレインを睨み上げる。
 人の心に土足で踏みいるその性根が腹立たしかった。
「それなら、王位を得ようとこんな小娘を嫁に貰うような貴方は、どの母親のために必死になっているのかしら?」
 ぴくりとグレインの眉が動くのをミレイニアは見逃さなかった。
 グレインが何故王位を望むのか、直接聞いたことはないがミレイニアにはある程度の予測は付いていた。しかし、それを確認するつもりはないし、そもそもミレイニアにとってはどうでもいいことである。
 彼の人間性が王に適しているのであれば問題はない。不適だと判断すれば離縁するだけのことだ。
 怒らせてしまったかと窺うようにグレインを見上げれば、彼はすでに微笑みを浮かべて眉尻を下げていた。
「すみません、私の方がやや感情的になってしまったようで。夫婦とはいえ、踏み込まれたくない部分はありますね。配慮が欠けておりました」
 ミレイニアに謝罪しつつ遠回しに釘を指すグレインの対応は、流石に年上というだけあって理性的で好感が持てる。
 好感を抱いたところでそれが好意に直結しないところが虚しい話であったが、ミレイニアにとっては最早好意などどうでもいい。
 王女として生まれたことを自覚した時点で、恋への憧れは捨て去ってしまったのだから。
「……グレイン、王印のことだけれど」
「はい」
「手に出来るかは半々といったところよ。最初はマリンハルトに託すかと思ったけれど、アリアといったかしら? 最近侍女と親しくなったようだから、彼女の身の保身のためにお姉様は必ず王印をその侍女に渡すわ」
「必ずですか?」
 ええ、とミレイニアは頷くと、視線を窓の外へと向けた。夕日は沈み、残された赤が夜に塗り潰されていく。
「私との勝負の場にその侍女を連れてきていたから、必ずよ。だって、あの人は勝ったことで悪目立ちしてしまったんだもの。お姉様がいなくなれば、侍女が目を付けられるでしょうね」
「もしかして、わざと負けたのですか?」
「あれは実力よ。それに、あそこで私が勝ったとしてもあの侍女がお姉様の侍女であると周知になることに代わりはないから、どちらにしても王印を渡すことになるわ」
 ミレイニアにとって驚いたのは、リーゼロッテがあの場にアリアを連れていったことであった。人々の目に晒されればアリアが危害を加えられる可能性を考えられない人ではないはずだ。
「……もしかして、お姉様はわざとそうしたのかしら」
「わざと侍女を人の目に晒したということですか? ……もしかして、それが自分から侍女に与えられる褒美だったとでも?」
 グレインはどうやらミレイニアと同様の発想に至ったようだ。
 ミレイニアは頷いて、片手でそっとこめかみの辺りを押さえた。
「お姉様はやりかねないわ。マリンハルトと同じように、あの侍女もこの先不自由なく暮らせるようにと狙ったのかもしれない」
 仮にこの件がなくアリアが王印を持ってミレイニアの元を訪れたとすれば、ミレイニアはアリアが王印を譲り受けたのか盗み出したのか判断が付かない。それはアリアという人物の人間性を知らないミレイニアにとって、判断材料が皆無であるからだ。
 しかし、リーゼロッテのことはよく知っている。
「では、侍女が王印を受け取ったことは確かなのですね」
 王位を望むグレインにとって、王印をリーゼロッテに持ち逃げされてしまう事態は望ましくない。しかし、正式に譲渡されなければ無意味であり、奪うことができないそれは、ミレイニアの手に移ることを祈るしかグレインにはできなかった。
「受け取ったかはわからないわ。わかるのは、お姉様が侍女に王印を渡すということだけ。侍女が受け取るのかも、私に渡すかもわからない。だから、可能性は半々よ」
 ミレイニアの歩みには迷いがない。それは、彼女が王印などあろうがなかろうがどちらでも構わないからであった。
 しかし、グレインは違う。
 重くなる足取りと、開き始める二人の距離。
 構わず進むミレイニアの瞳は、もうグレインに向けられることもなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます

おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」 そう書き残してエアリーはいなくなった…… 緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。 そう思っていたのに。 エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて…… ※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話

ラララキヲ
恋愛
 長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。  初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。  しかし寝室に居た妻は……  希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──  一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……── <【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました> ◇テンプレ浮気クソ男女。 ◇軽い触れ合い表現があるのでR15に ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇ご都合展開。矛盾は察して下さい… ◇なろうにも上げてます。 ※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)

浮気くらいで騒ぐなとおっしゃるなら、そのとおり従ってあげましょう。

Hibah
恋愛
私の夫エルキュールは、王位継承権がある王子ではないものの、その勇敢さと知性で知られた高貴な男性でした。貴族社会では珍しいことに、私たちは婚約の段階で互いに恋に落ち、幸せな結婚生活へと進みました。しかし、ある日を境に、夫は私以外の女性を部屋に連れ込むようになります。そして「男なら誰でもやっている」と、浮気を肯定し、開き直ってしまいます。私は夫のその態度に心から苦しみました。夫を愛していないわけではなく、愛し続けているからこそ、辛いのです。しかし、夫は変わってしまいました。もうどうしようもないので、私も変わることにします。

《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。

友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」 貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。 「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」 耳を疑いそう聞き返すも、 「君も、その方が良いのだろう?」 苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。 全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。 絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。 だったのですが。

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

処理中です...